魔法学院ー1日目 長い1日だった

理事長室のあたりまで戻ると、ほのかに甘い匂いが漂っていた。

「おやおや……」

エインスさんは心得顔で静かな笑みを讃えていた。

「失礼します」

ドアを三回ノックしてから一声かけて入る。他人の部屋に入るときの作法的なものだと何かのドラマで見た。

ドアを開けると、さっきの甘い匂いがより強くなった。

「あら、遅かったわね。ルドヴィヒカ女史の蘊蓄話でも長引いたの?」

「左様でございます、理事長」

「そう。ところで、暇だったからミルクティーを入れてみたのだけれど、飲む?」

「あ、はい……」

さっきの甘い匂いは紅茶だったのか。あれ? でも、紅茶って甘い匂いしたっけ?

そう思っていると、甘い匂いの本当の正体がわかった。

「克人、甘い匂いの正体は俺が作ったレモンパイの方だよ」

「あ、おじいちゃん」

潮を振り返ると、そこにはレモンパイを乗せたワゴンを引いているおじ伊ちゃんがいた。おじいちゃんは最後に見た時よりも元気になっていて、どこか、達成感までもうかがえる。

「全く、いくら暇だからって、一時間でレモンパイを作れって言うのは難しいものがあるぞ」

「あら、その割には、鼻歌混じりにやっていた気がするのだけど」

「こっちは本職なんだ。そりゃもちろん、魔法を使えば時間はかからないだろ」

「確かに。それは認めるわ」

なんだろう、この、二人の間にある関係は。お互いを分かりきっているからこそできる言葉の応酬。今度、二人の間にあったことを聞いてみたい気がした。

「さて、リタの淹れてくれた紅茶が冷めないうちに食べてくれ」

早速、レモンパイのお皿と紅茶の入ったティーカップをいただく。

まずはレモンパイにフォークを入れる。サクッというこんがり焼かれた生地の音がした。断面を見るに、下からパイ生地、レモンのマーマレード的なもの、カスタード、メレンゲと積み上がっていた。それを口の中に入れてゆっくりと噛む。するとどうだろう、心地よいメレンゲの泡がシュワっと弾けた後に、レモンの風味が口の中いっぱいに広がる。だからといって酸っぱいだけじゃない。マーマレードにしたことで丸くなった酸味が口の中に広がり、レモンカードを練りこんでいるのか、カスタードも甘すぎず酸っぱすぎずのちょうど良い塩梅でレモンを包み込んでいる。ちゃんとしたものを作るときのおじいちゃんの腕はピカイチなんだよなと久しぶりに思い出した。

「本当に美味しいな。昔からこのバカはバカだったけど、料理の腕だけはバカにできないわ」

「それは誉めているんだよな? リタ」

「さあ? どうかしら」

そう言って理事長はクスクスとくすくすと笑い始めた。それに釣られて僕も笑いたくなってきた。

後ろでカシャッとシャッター音が鳴った。音のした方ではエインスさんがカメラを持っていた。

「ああ、失礼しました。あまりにも良い構図が見えましたのでついつい」

「それじゃあ、後でその写真を焼き増ししておいてくれない?」

「かしこまりました。人数分用意しておきます」

「頼む。さて、克人くん。レモンパイを堪能しているところ悪いが、一先ずは魔法学院の制服と最低限の器具を準備して欲しい。具体的に何が必要かはバカに伝えてあるから、明日以降、こっちの世界に来て準備してほしい」

「分かりました」

「どの授業を取るかが分かるのは一週間後、つまりはそっちの世界の九月一日に全員知らせることになっている。それまではそこのバカに魔法薬学を教わるも良し、ルーレットの下で研鑽を積むもよし。その辺りは任せる」

「はい」

そっか、もう夏休みが終わるのか。

そう思うと少しだけ感慨深いものがあった。

今日は長い1日だったと思う。

人間は多くの記憶に残った出来事があると充実したと感じるらしい。そう言う意味では、こっちの世界を知ってからの間はずっと充実した日々を送ったことになる。

だから、その日々が終わる、少なくとも変化するのが分かると寂しくなってくる。

「ああ、そうだ。どうせならこの世界の通貨を持っておいた方が良い。ギルドに登録してあるなら、いくつか依頼を受けてみるのも良いだろう。戦闘訓練と薬草判別の練習にもなるし、多少ならサバイバルの練習にもなる」

「そうだな。俺もこのぐらいには依頼を受けていたから、簡単なものなら受けてみても良いかもしれない」

「このバカの言う依頼は超難関クエストを一時間で攻略するとか、討伐のために大人数で仕掛けるドラゴンを一瞬で、しかも一人で倒すと言うものだから当てにしない方が良い」

「そうですね。私も、若い頃はよく依頼を受けていましたね。もっとも、早い時期に冒険者業は辞めてしまいましたが」

大人三人が揃いも揃ってギルドで依頼を受けることを勧めてきた。と言うことは受けてみて損はないし、やってみようかと思えた。

「まあ、そこのバカだけは参考にしないでほしいがな。全く、あれほど目立つなと言ってやっていたのに」

「その点については私も同意見です。普通は超難関クエストは年単位の時間をかけて少しずつ探索するものですし、ドラゴン討伐も、大人数の方が安全でしょう」

「あ、そこは大丈夫です。流石に危なそうだなって。それに、僕にはそんな度胸ないですし」

そういうと、二人とも胸を撫で下ろしたようだった。

「いや、まあ、克人ならやれると思うんだがな……」

おじいちゃんのそのぼやきだけは聞かなかったことにしよう。そう心に誓った。

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