第9章 屋根裏の犯罪者(21)



 文子は籠を足元に置くと、哀しそうに俯いた。

「ここには子供もいるんですよ、お義姉さん」

「おばさん…」

 脩が声を掛けるが、文子はそれを無視して辺りを見まわす。

「……危ないですから動かないで下さい。私、ほうきでも持ってきますから」

 文子はそれだけ言うと、くるりと踵を返し、元来た廊下を小走りで去って行った。

 その時、反対側から別の声がして、全員が振り返る。この騒ぎを聞きつけたらしい椎名刑事を筆頭に、何人かがこちらへ向かって来るのが見えた。

 文子の一声で落ち着いたのだろか、万沙子は僕と脩の腕を振り解くと、バツの悪そうな顔でソッポを向いた。

 だが円香に詫びるつもりはないらしい。

 円香に背を向けたままだ。

「おばちゃん…。お姉ちゃんを苛めてたの?」

「奈々ちゃん」

 小さいが、どこか怒りを含んだような声に、万沙子は振り向いた。

「苛めてた?」

「そうだよ」

「は! 違うね。私は自分の身を守っていただけさ」

「………」

 しかし奈々は、不審な目で万沙子を見つめている。万沙子は濃く描かれた眉を、ぐっと中央にひそめると奈々から目を逸らして椎名刑事らが来る方向へ歩き出した。

 途中すれ違いざまに声をかけられていたが、万沙子は誰にも何も言わず、そのままどこかへと姿を消してしまった。

「どうしたって言うのかね」

「すいません」

 悪くもないのに、脩が頭を下げる。

「また興奮したらしくて…」

「なるほど」

 辺りに散らばる、ガラスの破片を見て、だいたいの事が把握できたのだろう。椎名刑事は、他に何もないとわかると、それ以上は追求せずに立ち去った。刑事の後からついて来た佐久間刑事や彬らもついて行ってしまい、そこに残されたのは、僕と美凪、脩と円香。そして奈々だけになった。

「お姉ちゃん。怪我してる!」

「え、本当だ」

 奈々に指摘され、円香はようやく自分の頬が切れてる事に、気がついたようだった。軽く拭うが、ほんの少し掠っただけらしく、血はすでに止まっており、たいした傷ではなさそうだった。

「大丈夫みたい」

「うん。掠っただけみたいだね」

 ほとんど治りかけているような傷跡を見て、僕もそっと胸をなでおろす。

 だが、奈々は気に入らないらしい。

 両頬をフグのように膨らませたかと思うと、いきなりはらはらと泣き出したのだ。これには、僕も円香らも慌てた。

「どうしたの…?」

「どっか痛いの?」

「奈々ちゃん?」

 奈々は代わる代わるに声をかける僕らに、しゃくりあげながら頷く。

 先ほどの万沙子の罵倒の様を思い出したのだろうか?

 それとも血を見て、怯えたのだろうか?

 だが、奈々の涙の訳はどちらでもなかった。

「どうして…。どうして、お姉ちゃんばっかり苛められるの?」

「奈々ちゃん…」

 円香は、ちょっと困った様に泣いている奈々の背をさすりながら、顔を覗きこむ。

「おじいちゃんも、おじちゃんもいなくなって、お姉ちゃんを苛める人は、もういなくなったと思ったのに」

 おじいちゃんと、おじちゃん。

 それは、東郷正将と弘二の事なのだろう。

「別に苛められていた訳じゃないのよ」

「……」

「ただちょっと、おばさんは興奮しちゃってただけ。ほら、病院から帰って来たばかりでしょう?」

「…うん」

 奈々はとりあえず、といった風だが頷いた。

 その時、文子が両手にほうきとちりとりを持ち、戻って来た。そしてまた無言でその場を手際良くかたすと、奈々を促し、足早に去って行ってしまった。

 奈々たちが見えなくなると、美凪は円香のわき腹辺りを、軽く肘でつついた。

「もー。円香ちゃん優しすぎ!」

「え? ……どうして?」

「だって、あのおばさん! 本気で円香ちゃんに怪我させようとしてたじゃない? ……あ。ごめんなさい」

 万沙子の息子である脩に気付き、美凪は慌てて謝った。

 そんな美凪に、脩は申し訳なさそうに首を振る。

「いいんだよ。悪いのはどう考えても母さんだからね。円香にも、美凪ちゃん達にも悪い事したね…」

「あたしは別に、大丈夫ですよ~!」

 美凪も脩と同様に首を振る。

「…そう? 本当にごめんね。でも円香はもっと怒ってもいいんだよ?」

「…だって」

「円香?」

 ここへ来てから、円香が万沙子らに何か言われる事はあっても、それに対して怒りを見せた事がなかった。

「いやなの」

 円香は俯き、長い睫毛が揺れる。

「だって、私が誰かと衝突すると、必ず怖い事が起こるんだもの……」

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