第8章 忘れられない瞬間(12)
頷いた円香を満足そうに見てから、脩は少し顔を上げてから「はあっ」と声を出してため息をついた。
そしていきなり僕の方を振り向いた。
突然だった為、僕は脩とばっちり目が合ってしまった。どう言い訳したら……と、バツの悪そうな顔で頬のあたりを掻いていた僕に、脩は手招きし笑いかけてきた。
「秋緒君。そんな所にいないでこっちに来るといいよ」
「…え。でも……」
「いいんだよ。秘密でもなんでもないんだから」
これには少し驚いた。
江里子と話していた時は、深刻そうであったからだ。真剣に悩んでいたらしい円香も、驚いたように脩を見上げる。そんな僕らに、脩はちょっと困ったような笑みを浮かべて、首をかしげた。
「なんか……誤解してるみたいだね」
「だって!」
「悠里は仕事の……うん。仲間だよ」
「あの…すいません。よく事情が……」
僕は脩の話しを遮った。
「ああ。そうだね……そうだ。こっちの家に来る時、タクシーの中で誰か女の人が来ていたとか聞かなかったかい?」
「あ。はい」
江里子くらいの歳で、派手な感じの女だと、タクシーの運転手が言っていたのを思い出す。
「彼女、悠里といってね。モデルなんだよ」
「モデルなんですか! ――ああ、雑誌の?」
「そう」
脩はファッション雑誌を中心に、撮影の仕事をしている筈だった。モデルの知り合いが一人、二人いてもおかしくはないだろう。だが――――。
「その人が何故東郷家に? 運転手は家まで行ったら、すぐに戻って来て帰ったと言ってましたよ?」
そして慌てた様子だったとも言っていた。
「僕に会いに来たらしいんだ。僕がいなかったから、すぐに帰ったんだろうね」
「…はあ。仕事の事で、会いに来たんですかね?」
たとえ仕事の話ではなくとも、電話をすればいいだけの話だ。
そう思ったが、その事は口には出さなかった。脩はちらりと円香を見てから、先程よりも困ったような顔で口を開いた。
「……その、悠里にね、僕はどうも気に入られてるらしくてね…」
「付き合ってるんですか?」
「いや! そうじゃないんだ!」
僕が聞くと、脩は必要以上に慌てた様子で訂正する。
「嘘よ。だってあの人、何回もわたしの所へ来て意地悪な事言ってたもの…」
「誤解だよ。それに悠里が、円香の所へ行ってたなんて、いまはじめて聞いたよ」
「信じられない…!」
僕は、二人から少しだけ離れる。
何だか……これは……痴話喧嘩、なんじゃないだろうか?
不機嫌な円香に、脩は必死な顔で弁解している。最初にこの二人を見たときから、心の奥底で勘付いていたものが湧き上がってきた。
この二人は、従兄妹同士だが惹かれあっているのだろう。
兄と妹という感情ではない。きっとそれ以上の―――――。
そこまで考えた僕は、急に嫌な気分になる。
とても言い表わせないほどの、気分の悪さだ。目の前にいる、脩と円香の間に割って入り、滅茶苦茶にしてやりたい感情だった。こんな嫌な気分ははじめてだった。
「秋緒?」
いきなり背中を叩かれて、僕は我にかえる。
振り向くと、美凪が奈々と手をつないで、きょとんとした顔で立っていた。もう片方の手には、ハンカチが握られている。
「どうしたの? ぼ~っとしちゃってさ」
「あ…いや。それより何持ってんだよ」
「これ?」
美凪は持っていたハンカチを広げる。
「――…うわ!」
ハンカチの中には、いくつかの蝉の抜け殻が収まっていた。僕は思わず後ろへ仰け反る。こういうのは大嫌いなのだ。というより、虫全般が嫌いだった。
「ホント、秋緒は駄目だね~。ただの抜け殻じゃん」
「お兄ちゃん嫌いなの? これ面白いよ?」
僕は無言で首を振った。
虫が苦手なのは、子供の頃から知っている筈だ。それを承知の上で、美凪はこれを見せたのだ。軽く睨み付けると、美凪は赤い舌をちょろっと出して、にんまりと笑った。
美凪は、学校の部室にゴキブリが出た時も、きゃあきゃあと逃げまわる部員を尻目に、部室を駆け回り、上履きの底で叩き潰したという武勇伝がある。
その時、近くの部室にいた僕達男子部員に、助けの要請があったが、その頃すでに用済みだった。と言っても、僕はそんなものを見たくもないので、部室から出る事もなかったのだが―――。
「ねえ、円香ちゃん達どうしたの?」
「ああ…」
言われて見ると、脩と円香は僕らには構わず、言い合いを続けていた。
「喧嘩なの?」
「違うよ」
不安げに二人を見る奈々に、僕は急いで言う。疑わしげな目で見る円香を相手に、何かを言い続けていた脩だったが、僕らの視線に気付いたのだろう。はっとしたように振り向いた。
「あ…やあ、ごめん」
「いいんですよ~? 痴話喧嘩みたいだし~」
にやにやと笑いながら、野次を飛ばす美凪に、円香は赤くなったて俯いた。
「痴話喧嘩なんて…そうじゃないんだ。円香が誤解してて」
「じゃあ、どうしてあの人は、わたしに意地悪したの? 何でもないならおかしいじゃない」
「どうしたの」
訳がわからず、といった顔で美凪が僕に囁いた。僕は今までの話しを簡単に説明すると、美凪もタクシーの中での話しを思い出したのだろう。「ああ!」と言って頷いた。
「じゃあ、脩さんはそのモデルの人に、一方的にせまられてるだけなんでしょ?」
「……ああ、うん」
「なら問題ないじゃん」
「でもその人、わざわざうちに来て、脩兄さんとは結婚の約束もしてるから、とか色々言いに来たのよ」
円香の言葉に、僕達は脩を見る。
「言ってない! そんな約束なんてしてないよ! だから誤解なんだ!」
「誤解って言いますけど、そんな家にまで来て、円香さんに言いに行くなんて変ですよ」
「秋緒君まで…」
「それにタクシーの人が言ってたけど、慌てて帰ったとか。それも変!」
美凪が言うと、脩はいよいよ困ったように、頭を掻いた。
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