第7章 二通の遺言状(18)


「いいんですよ。さ、こちらに座って下さい」

 入ったものの、立ったまま落ち着かない様に、きょろきょろとしていたらしい江里子に、椎名がそう声をかけた。

 ここからではあまり見えないが、足音と雰囲気で何となくわかる。

 椎名に言われた江里子は、皆が座っていた場所に、静かに腰を落とした。

「岡 江里子さん。家庭教師のアルバイトをなさっているんでしたよね?」

「はい」

「皆さんにも聞いたのでね。岡さんにもお聞きしたいのですが…」

 そう断ってから、聞いたのは今までと同じ質問だ。

 これまで有力な情報は、全くない。それもおかしな話だが、僕自身も何事も無い夜だったのだ。案の定というか、江里子からも、何の情報も得る事は無かった。

 江里子から、いくつか話を聞いただけで、椎名は彼女を解放した。

 他の人に比べて、いやに短く感じたが、江里子は東郷 正将が死んだ時は、ここにいなかったからだろう。あの時捜査に来たのも椎名だ。江里子がいなかった事はすぐにわかったのだろう。

 次は、いよいよ円香かと思った―――が、そうではなかった。

 住み込み家政婦の、寺本だった。

 椎名は、寺本にも同じ質問をしたが、彼女は事件のあった例の部屋から一番遠い、離れに住んでいた為、こちらの母屋の事は、仕事が済んだ十一時以降の事については、全くわからない様子だった。

「そうですか…。では、夜に尋ねてきた人もいなかったのですね?」

「ええ」

「わかりました。それで、この間来た時にいた、もう一人の方は…?」

「金田さんの事ですか? あの子は……前の事件の後すぐに辞めてしまって…」

 そういえば―――と、僕は思い出した。

 ここへ来る時、電車の中で江里子がバイトが一人いると、言っていた筈だった。金田とは、そのバイトの人の事らしい。

「辞めてしまって…そうだったんですか」

「怖くなった、と言ってまして」

「そうでしょうね。いや、わかりますよ。私もね、こんな仕事してますがね、怖い思いをすれば辞めたくもなりますし」

 本気なのか、冗談なのか。

 椎名はそう言って、一人で笑った後、寺本に「もう結構です。お疲れ様でした」と、言った。




「さっきの本当だと思う~?」

 寺本が出て行ったと同時に、美凪が僕の耳元で囁いた。

「何がさ」

「だから、怖くなると辞めたくなるって話。嘘だよね? だって刑事じゃん?」

「こら」

 襖の隙間から、佐久間刑事の黒い顔が現われた。

「もう少しだからね。静かにしててね」

 そう言いながら、「しっ」と人差し指を立てる。僕と美凪は慌てて口を押さえて頷いた。


――――もう少し。


 後に残っているのは、円香だけだった。

 なぜ椎名は、円香を最後にしたのだろう。やはり、彼女を疑っているのだろうか?

 じっと息を殺して考えていた時、小さく物音がして、円香が入って来た。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る