海の上の向日葵

向日葵は洋上に咲く

 あいつは約束を破らない奴だった。一度口に出したらそれを貫き通す奴だった。意志が強く傲慢に見られる部分もあったが、何事も必ず最後までやり遂げる奴であった。有言実行とはこいつの為にある言葉だとも思った。ゆえに、あいつの言葉一つ一つには力と魂が込められていた。そして、言霊とも言えるあいつの口癖はいつもこうだった。


『てっちゃん、俺は退屈が大嫌いだ』


 お互いの趣味である将棋を指している時に、あいつはよくこう言ったものだ。言われた俺はいつも心の中でこうも思ったものだ。誰だって退屈は嫌いであろうと。さらに続けて、将棋はどうにもかったるくて嫌いだと言う始末。ならば何故将棋をこうも毎日指しているのだと声に出そうになったが、寸での所で留める事に成功する日々。それを言ってしまうと、面倒な事になるからだ。俺の目の前にいる退屈嫌いの男の将棋うんちく話を沢山と聞かされるからだ。ただでさえ早指しの将棋がさらに早くなるのも理由の一つでもある。


『てっちゃん。俺はな、遅いのも大嫌いなんだ』


 あいつの二言目はいつもこうであった。俺はいつも通りに無視を決める。俺が詰みかけていたからもあるが。……けして俺が弱い訳ではない。あいつの将棋はいつも一級品の腕前だったのだ。


 東京の大学で初めて一緒になった俺達だが、学部も違えば年も違う。同学年ではあるが、あいつと俺はどちらかと言えば正反対の人間であった。俺は昔からのスポーツ少年で、体格と身体能力にも恵まれていた。昔から何でも出来た。何をやっても出来てしまう俺は、中学生の頃に人生唯一の夢中になるものと出逢ってしまう。だ。それも深夜の【NBA】の放送を見てしまったから、余計と夢中になってしまった。俺は一夜にしてバスケットの虜になってしまったのだ。そして……あいつと出逢った頃の俺は全日本代表の選手でもあったのだ。

 かたやあいつは、体格は俺と同じくらいに大きいが、運動音痴で勉強一筋で生きてきた男であった。趣味は読書と将棋と何故かのスポーツ観戦(特にF1)。あいつは頭の回転も速く、俺と出逢った頃には将来の職業を教師と決めていた。何でも中学生の頃、とてもお世話になった恩師の影響だとか。なので昔からそう決めていたらしい。

 正反対の俺達が初めて会ったのは、偶然隣の席に座っていたスポーツバーでの事であった。唯一共通しているのが二人ともスポーツが好きだった事。後は将棋である。勿論俺はバスケットが一番好きなのだが、あいつは何でも速いものが好きであった。野球も面白いものだと言ってはいたが本人曰く、退屈で退屈でしようがないとの事。もっとテンポよく投げられないのかと、ナイター中継を見ながら何時も文句を言っていた。サッカーも同様であるらしかった。面白いと思う部分はあるらしいが、何でも一点が中々入らないのが一番の不満だとか。なので何故かF1に落ち着いたらしい。

 ある日、俺はバスケットはどうだ聞いてみた。するとお前がやっているスポーツは絶対に見ないと拒否をされてしまった。理由を聞いてみると、見てしまうとこの俺がどれだけ凄いか分かってしまうからだとの返答がきた。俺に負けるのが唯一この世でもっとも嫌な事であるらしい。俺達は正反対の人間ではあったが仲が良かったのだ。互いが親友であると認識していたと思う。恥ずかしい話ではあるが。


『てっちゃん。今から会えないか? 話したい事がある』


 それは、あいつが社会人三年目になった時ぐらいである。久しぶりに向こうから連絡がきたのだ。待ち合わせ場所は、初めて会ったスポーツバーだ。そしてあいつは俺に興奮しながらこう話しかけてきた。


『見てしまったよ、バスケットを。あれは面白い。あれこそこ俺が追い求めていたスポーツだ。プレーは途切れないし、点は沢山入る、何より速い。TVでみるとそう感じないかも知れないが、実際見るとかなり速い。素晴らしいスポーツだ』


 どうやら、とうとう見てしまったらしい。そしてあいつはバスケットボールを愛して止まない男になっていた。恐らく俺と同じか、それ以上にである。それからと言うもの、俺達は偶に会ってはバスケの話を飽きる事無く続けていた。お互いが好きなものなのだ。話が途切れる事は無かった。

 俺が三十才を迎えた年の頃。あいつはとうとうバスケ部の顧問になると言い出した。未経験者なのにかと一瞬思ったが、こいつの事だ。誰よりもバスケを勉強し、誰よりもバスケの事を考え、誰よりもバスケを愛している男なのだ。そして教師でもあるのだから一流の指導者になると俺は確信していた。あいつはまだ二十八才であった。


『いつの日か、お前を超えるバスケット選手を生み出してやる。この俺の手でだ』


 それがあの時のあいつの口癖になっていた。時を同じくして、引退を決意した俺もバスケの指導者になろうと考えていた。後任を育てたい思いもあったからだ。俺が果たせなかった【NBA】選手の道。それを次の世代に託そうと考えていた。そして俺はバスケの名門、“京都洛真高校”の監督に就任する事となった。


『凄いじゃないか、あの洛真の監督か。今日だけは褒めてやるよ』

『相変わらず偉そうだな、お前は。それよりこんな所で飲んでていいのか? 二人目、出来たんだろう?』

『ああ、もう安定期に入ったから大丈夫だ。男の子だったらいいんだけどなぁ』

『女の子でもバスケは出来るだろう?』

『だが、【NBA】には行けない』

『それも、そうだな。NBAか……果たして日本人選手に為れると思うか? あの化け物揃いの身体能力とバネを持つ黒人選手に、日本人は通用するのか? 白人選手のパワーに日本人は勝てるのか? 俺は最近それを考えると頭が痛くなってくる』

『てっちゃん、日本人が向こうの選手に劣ってない所は何だと思う?』

『劣ってない所……組織力か? それを活かした速さ、いや違うか』

『まぁ、それもある。でも個で対抗するに唯一勝っている部分がある』

『一体何だ?』


『精神だよ、“精神力”』


『結局、根性論ではないか』

『いや、これこそがだ。バスケだけではない、全てのスポーツの、いや日本人としての誇りでもある。耐え難い時を耐え、忍び難き時を忍び越せる精神力が日本人にはある。とくにバスケットには必要な要素だ。俺はそう思う』

『だが、それでもだ。“海の向こうの壁”はあまりにも大きすぎる』

『てっちゃん。俺はな、いつの日かそれらを兼ね備え、其の壁を通り越せる奴が出て来る事を心から願っている。そしてそんな奴等を、育てるのが俺達の役目であろう?』

『……それも、そうだな。しかしお前が中学の教師でなければなぁ。俺の教え子と対戦できたんだけどなぁ』

『ならばこんなのはどうだ? 俺の教え子が高校生になった時、その子達が貴様率いる洛真を打ち破る。良い話ではないか』

『何処が良い話なんだ。それに、その子達が洛真に入って来たらどうするんだ?』

『行かせはしない、洛真にはな。普通の、適当な高校に行かせるさ』

『子供達の将来をお前が決めてやるなよ。でもまぁ、そうなったら楽しいかもしれないな』

『ならば約束だ、鉄心てっしん。いつの日か俺の教え子がお前の目の前に現われる事であろう。そして洛真を打ち倒し、全国優勝する事となるだろう。貴様は俺の教え子を打ち倒して見せろ、この俺を超えて見せろ! どうだ?』

『おう、いいだろう。だが、その子達がお前の教え子と俺には分からないじゃないか』

『その時は一報を入れるさ』

『相変わらず律儀だな、貴様は。いいだろう。俺は待っているぞ、広洋こうよう





――今日も朝の八時に起床。二階のリビングに降りて緑茶を沸かして食パン一枚食べて、TVを見ながら朝のほっと一息。三階の自室に戻りお気に入りの一曲を聴いてから、兄の香水を勝手に拝借。いつかは自分で買おうとは思う。だが、それはまだ当分先の話だ。ふと窓の外を見ると、素晴らしい程の春日和であった。

 快晴の青空の下、俺はゆっくりと自転車のペダルを漕いだ。雲一つ無い青空だ。これが五月晴れと言うのかなと俺は思った。そうそう、朝の八時に起きて学校に間に合うのかって? それが間に合ってしまうんだ。だって、俺の家から高校までは五分も掛からない距離にあるのだから。だけど、朝の練習には間に合って無い事だけは此処に言っておく事にする。朝が苦手なのは高校生になった今も相変わらずなのだ。





『てっちゃん! 聞いてくれ、大変だ!』


 それは、ある春の日の事であった。あいつは大声で俺にこう言ってきたのである。それも凄く嬉しそうに、凄く凄く嬉しそうに。電話越しでも分かる程に……。あいつのいる“中学校がどれだけ大変”かは俺の耳にも届いていた。いつの日かあいつと交わした約束は、当分先の事になるだろうなと丁度考えていた時だ。


『“凄い子達”が入って来たんだ! いいか、落ち着いて聞けよ! “ミニバスで全国優勝”した子達がウチの中学に入って来たんだよ!』

『ほーう、それは確かに凄いじゃないか。それで、やはりバスケは上手いのか?』

『それが下手くそなんだよ! でも面白い子達なんだよ! 皆が皆それぞれのズバ抜けた長所を持っている、それぞれの足りない部分を皆で補っている! それにバスケの才能は皆持っている! 磨けば磨くほど輝く原石だ!』

『成程なぁ。しかしそれ程の子達、果たしてお前に務まるのか?』

『お前は誰に物を言っているんだ? 俺は泉広洋いずみこうようだぞ? なぁてっちゃん。昔、こう話した事を覚えているか? “海の向こうの壁”を通り越せる存在……いるかもしれないんだ。とんでもない逸材を持っている子が……【NBA】に行ける子が!』

『広洋、少し落ち着け。さっきから声が大きいんだよ。今は忙しいからまた今度聞いてやる』

『いいや今聞け! いいか良く聞けよ! 『その子』はな、持っているんだよ――』



「……監督? 山岡やまおか監督。いい加減起きて下さいよ。もう練習試合終わりましたよ?」

「あ、ああ。すまん。別に寝てた訳じゃないんだ。少し昔を思い出していてな」

「いやいや、どう見ても寝ていましたからね。言い訳はしないで下さい。今日でインターハイ前の調整試合は全て終了です。調整はどうですか?」

「ん。このままでいい。順調だよ、皆良くやってくれている。申し訳ないが今日は最後を纏めてくれないか、押切おしきり君。あまり体調が良く無くてな。このまま帰らしてもらうよ。すまんな」

「いえ、お大事に。監督に倒れられたら本末転倒ですから。あ、監督。三年生に伝えておく言葉はありますか?」

「……それはまた今度私から言っておくよ。じゃあ後は任せたよ」


(元気無いなぁ、監督。何時もならこの六月は三年生には喝を入れているのに……。『親しい友人』が亡くなったと聞いたけど、それのせいなのかな? “常勝の洛真”にはあなたが必要なのですよ、監督。それをお忘れ無き様に……)



 あいつは昔から約束を決して破らない奴であった。だがしかし、あいつは最後に交わした約束を守らぬままこの世から旅立ってしまった。俺はどうすればいいと言うのだ、俺はこの先誰と将棋を指せばいいのだ、俺はこの先誰とバスケの話をすればいいと言うのだ。なぁ広洋、教えてはくれないか?


 (手前てめぇ、まだまだこれからじゃねぇかよ。四十にもなってねぇんだぞ……子供だってまだあんなに小ぃせぇのによぉ……なに死んでんだよ、てめぇよぉ。死んでんじゃねぇぞ、ようちゃんよぉ!)


 なぁ、教えてくれよ。我が心の友よ。





――八時四十分。俺は校門を通り越した。始業時間は八時四十五分。楽勝である。自転車置き場から教室まで行くのに、およそ三分。走れば一分と掛からない。もう一度言おう、楽勝である。

 いつもの公園に行きお昼寝したい気分ではあるが、高校ではその気持ちを封印した。休み過ぎると単位がとれなくて留年、そして退学になるからだ。全く以ってひどい所である。でも、致し方ない。全ては夢の為にである。夢の為ならばお昼寝だって我慢するさ。ついでに愛車のベスパ50S(親父のバイク)も封印した。大体の話である、無免許でバイクに乗るなんて言語同断である。免許がないと乗ったらダメなんだからな。

 あまりにも暑過ぎるので汗を拭いながら、なんとなしに、もう一度空を見上げてみた。相変わらず快晴の青空である。気のせいか段々とむし暑くなってきている気がした。、俺は何故かは分からないけれども、泉先生に言われた言葉を思い出していた。



『ええか、よー聞けよ山岸やまぎし。お前にバスケの才能は無い。無いと思え。それでもな、お前は他の誰よりも優れた身体能力がある。瞬発力もある、俊敏性もじゃ。そして……“並外れた動体視力”がお前にはあるんじゃ。ええか、もう一度言うぞ。お前にバスケの才能なんて無い。それでもそれを補う程の天性の才能がお前にはある。“それ以上”の物もじゃ……だから決して自分に驕るな、お前は下手くそじゃ、そう思って精進しろ。そしたら、そうしたならば……お前は何時の日か“大洋を超える”事が出来る。ええか、決して自分自身に驕るなよ!』



 確か……そう言われた後、殴られたな。何でもかんでも最後に殴るのが先生に付いていた頼んでも無いオプションだ。全く以ってとんでもない人である。


「“たいよう”ってなんだ。あの太陽か? ……ならばこそ、やはり俺こそ宇宙一の男じゃないか。宇宙を一周するのはこの俺なんだ。太陽だって超えて見せるよ、先生。だって最近の俺は天文学にはまってんだよ? 昔から好きだけどさ」


 俺は、最高に格好良い独り言を言った後に気付いてしまった。そう先生に言われた時も、中学一年の六月の事であった。そして今も六月である。昨日で五月は終わり、今日から六月なのだ。どうりでむし暑い訳だ。なので先程の五月晴れは嘘である。誠見事な六月晴れである。


 俺の上には、快晴と言える初夏の青空が広がっていたのであった。

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