そもそもなぜヴィーナスなのか?

 アナトミカル・ヴィーナスの概略は前回で大まかに紹介しましたが、その名の由来はまだでしたので、今から説明します。

 多くは麗しい女性を模した解剖模型がなぜ、「ヴィーナス」、つまりはギリシア神話の美と愛の女神アフロディテと呼ばれたのか……。なにもアフロディテでなくとも、ギリシア神話の人類最初の女であるパンドラとか、創世記のイヴでも良かっただろうに。もしくはガラテア(ガラテアがどんなのか分からないという方は、ピグマリオン効果についてググってみてください)でも。ですがそこには、ちょっとした思惑という物があったのです。


 と、いうのも16世紀のメディチ家統治下のフィレンツェはその繁栄ぶりから「ヴィーナスのフィレンツェ」と呼ばれ、多くのヴィーナスをモチーフにした絵画などがつくられ、フィレンツェの芸術を目当てとした多くの観光客を惹き付けていました。いわばレオポルト二世は、美しいだけでなく教育にも役立つヴィーナスを生み出すことで、彼にとっては浅薄なものでしかなかったメディチ家統治下のフィレンツェの芸術と、ラ・スぺ―コラの展示品を対比させようとしたのです。上記の由来から「メディチ家の統治時代と比べて、自分の治世はこんなに道徳的で立派!」とアピールしたいのだという意図を感じてしまうのは、私だけなのでしょうか? まあ、当時の人に聞いても現代の人でも、「アナトミカル・ヴィーナスとメディチ家がパトロンになって生み出された芸術作品群のどちらが好ましいと感じるか」と問われれば、ほとんど全員が後者を選ぶでしょうけれどね。


 ちなみに私がヴィーナスが主題になった絵で一番好きなのは、ブロンズィーノの「愛の寓意(愛の勝利の寓意)」です。ヴィーナス(アフロディテ)と、その息子であるキューピッド(エロス)がキスしている絵。隠された意味を考えると中々にエグイものがあるので、気になる方はググってみてください。


 と言う訳で、アナトミカル・ヴィーナスがヴィーナスと呼ばれたのにも政治的な思惑があったのですが、ならば男性を模した解剖模型は何と呼ばれていたのでしょうか? 本では「アドニス」と呼ばれていたのですが、それが正式な呼称であったのかは特に解説されていませんでした。

 なお「アドニス」とは、ヴィーナスの怒りを買ったがゆえ、父を愛するようになる呪いをかけられた王女ミュラとその父の間に生まれた美少年のことです。ヴィーナスはアドニスの美貌の虜になり彼を寵愛するのですが、アドニスは最後はヴィーナスの愛人である戦の神アレスに殺されます。……ギリシア神話はいつもドロドロ!


 さて、今回語るべきことはほとんどすべて語ってしまったのですが、目標とする文字数にはまだまだ届いていないので、本に紹介されているなかでも特に印象に残ったアナトミカル・ヴィーナスについての雑感を、インパクトが大きい順に上から述べていきたいとおもいます。


1.シュピツナー博士のアナトミカル・ヴィーナス

 私が最も美しいと感じたヴィーナスです。この人形の面白い所は、腹部のみならず顔面や首も幾つかのパーツに分けられるところ。

 すっと通った弓型の眉が印象的な端整な顔だちの眠れる女神。しかし彼女の高く形いい額が醸し出す知的な印象に艶めかしい趣を添える仄かに紅潮した頬、さらには鎖骨までに奔った不自然な切れ目を開いてみると、現れるのはむき出しの筋肉や脳、あるいは眼窩に納まった碧眼が生々しい骸骨であり、咽頭などの器官であって……。

「どんなに美しい女も、一皮剥けば所詮は皆同じ骸骨に過ぎない」

 それが作成者の意図なのかは分かりませんが、そんな印象を受けてしまいました。


2.作者名・個体名の記載特になしの、金髪のヴィーナス

 優雅でたおやかな顔立ちの金髪の女性(もちろん全裸)の切り開かれた腹部から、大腸を始めとするあらゆる臓物が溢れ出ているアナトミカル・ヴィーナス。張り巡らされた毛細血管の細かさや、大腸のダイナミックのうねりなどは、「もしかしたらこれ、生きた人間を解剖して観察したんじゃ……」と危惧させられてしまいます。切り開かれた腹部の、皮膚と脂肪の層まで、細かな所まで再現されているところもポイントが高いです(なんのポイントだ)


3.クレメンテ・スジ―ニ作「ヴェネリーナ」

 「ヴェネリーナ」は「小さなヴィーナス」を意味しています。彼女はその名の通り、「メディチ家のヴィーナス」をモデルに作られたアナトミカル・ヴィーナスなのですが、サイズは小さいです。彼女もモデル同様に黒に近い褐色の髪をし真珠のネックレスを付けていて、各器官を取り外せるように作られています。外観には妊娠の徴候は全くありませんが、腹部には胎児がいるところも同じ。

 このヴィーナスの特筆すべきところは、通常ならば左側が右側の三倍の厚みがあるはずの、心室壁が左右同じ厚さであるところ。作製の際にモデルにしたのは上記の通り「メディチ家のヴィーナス」ですが、もしかしたら心疾患で死亡した女性の遺体も、部分的に参考にしたのかもしれない、と本では述べられていました。


 なお、このヴィーナス同様他の幾つかのアナトミカル・ヴィーナスが妊娠している・・・・・・のは、当時のヨーロッパにおいては女の存在意義とは突き詰めればただそれだけ・・・・・・だった、ためだそうです。……なんというかこう、女として頭に来るものがあります。


4.シュピツナー博士の等身大帝王切開蝋製模型

 その名の通り、帝王切開を受けている女性の等身大の模型です。手と足は縛られ、腹を割かれる痛みにカッと目を見開くネグリジェ姿の女性の腹部の裂け目から覗く、臓物のうねりが生々しい。

 ですが露出した臓物よりもおぞましいのは、彼女の腰を抑える男と、執刀中の医師のものと思われる四つの手です。なぜなら、腰を抑える男も医師も、「手」だけしか作られていない。なのにカフスとジャケットの袖の先だけはきちんと纏っているから。女性の模型が手術中であるというのに髪の一筋も乱れていないことも相まって、醸し出される静的な印象がかえってグロテスクです。


 他にも、「眠れる女神」と題された、呼吸し、胸が上下するように作られた機械仕掛けのアナトミカル・ヴィーナスなどもありましたが、これなんかはまた違う意味でグロテスクな……ネクロフィリアに通ずる趣を感じ取ってしまいました。ネクロフィリアの意味は、分からなくともググらずそのままでいることをオススメします。

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