第12話 あの夏の約束

 坂道の向こう。群青の空に立ちのぼる入道雲。海辺から吹き抜ける風が風鈴を傾け、ざわつく木漏れ日に音を添える。


 いつまでも続くような気がしていた小学校の夏休み。私は両親の仕事の都合で、母方の祖父母が暮らす田舎に預けられていた。

 田舎暮らしにも慣れ始めたその日。蝉の音が幾分和らいだ夕方。いつものように神社で遊び疲れて帰る途中、集落の外れにある道祖神の前で、可愛い子犬が足下に駆け寄ってきた。


 まもなく後を追ってあらわれた少女。白いワンピースを揺らし麦わら帽子を手で押さえた彼女は


 「待ちなさい」


 と息を切らして。


 「ごめんなさい。小太郎が急に飛びついて。でも私以外に懐くなんてはじめて」


 一瞬、蝉の音が聞こえなくなった。ワンピースがまるで綺麗なモンシロチョウのようで、その姿に釘付けになったのをよく覚えている。


 その日をきっかけに私と彼女は毎日この場所で会うようになる。


 川沿いの用水路に笹舟を浮かべて遊び、田んぼのザリガニに挟まれては笑った。爺ちゃんからもらった肥料の袋を下に敷いて土手もたくさん滑った。

 そんな私をほほえんで見守る彼女。手元を見ると丹念に編み込まれた花かんむり。


 「これあげる」


 初めて女の子からもらったプレゼント。戸惑った私は神社で集めてきた蝉の抜け殻をお返し代わりに。

 ブローチみたいに服につけた彼女は


 「ありがとう。大切にするね」


 と、幾分はにかんで。


 思い返せばこれが私の初恋だった。一夏だけの恋物語。ただ、それは決して叶うことのなかった遠い夏の物語でもあって。


 お盆が明けてまもなく。私は両親に連れられて帰ることになる。いつか来るとわかっていたその日。走って向かう祠。あの娘に伝えなきゃ。ちゃんとお別れしなきゃ。


 「ハァ、ハァ、ハァ」


 いつものように、彼女は白いワンピースと麦わら帽子で、そこにいて。


 「あの、僕・・・・・・」


 肩を上下に揺らして、つばを飲み込んでから喉を振り絞る。

 と、そのとき、言葉を遮って彼女が話しはじめる。


 「このイモムシね、とても綺麗な蝶になるんだって。ティンカー・ベルみたいに」


 そう言って、私に手渡して。


 「育てて、蝶々になったら、見せてね」


 「僕が育てるから。見せに来るから」


 「約束だよ」


 直後、海風が木々の葉を揺らし、木陰が道祖神の頭上ではねた。急に蝉の音が雨のように降り注ぎ、我に返ると、彼女はもうどこにもいなくて。


 まるで幻だったように。

 

 私はうちに帰っても、宿題に手をつける気にはならなかった。抜け殻のように彼女からもらったイモムシを眺める日々。そして唐突に思いつく。


 「そうだ、この飼育を自由研究にしよう」


 アクリルケースに入れたそれを、数時間毎に、丹念に観察した。自由研究なんてただの言い訳だったのかもしれない。私はただ、彼女との約束を形にすることだけを目的にしていたんだと思う。

 

 「約束だよ」


 今でも鮮明に思い出される言葉。必ず綺麗な蝶にしてみせる、その一心。


 だからそれがある日とてつもなく大きい「蛾」になっていたときは目を疑いましたよね。あれ、なんか、ちがうくね? つって。ティンカー・ベルどころか電柱の影で吐いているおっさんレベルで微動だにしないそれ。


 「蛾ーん」


 それからというもの大きいイモムシを見る度に心の古傷が痛むようになりました。これは私が体験したちょっと不思議な物語――


 そんなことを妻に話しましたら、


 「そもそも麦わら帽子に白いワンピースとか、都市伝説だから」


 と、男にありがちな思い出補正を強調してきまして。たしかに、それが本当にあったことかどうか、おっさんの記憶では疑わしいことこの上なく。もしかしたら変なアニメの影響が入っている可能性も否定できない。


 「そもそも、イモムシ触れる女の子も疑わしい」


 たしかに。いくら小学生だったからとはいえ、イモムシを素手で触って手渡せる女の子はなかなかいない。故に

 

 「そんな胡散臭い話はいいから、ちゃっちゃと手を動かしな」


 と、ブロッコリーの袋詰め作業を促してくる。


 「はいはい、わかりました」


 嘆息しつつ、作業台の上に目を向ける。すると、ちょうどブロッコリーの隣に妻のシュシュがあり、手に取って渡そうとしたそのとき、実はそのシュシュが鬼のごとく巨大なヨトウムシでしたというのが今回のハイライト。


 「ッッ!」


 声にならない声。疼く古傷。刹那、豪快な投球フォームで外に投げ捨て、ローリングして見て見ぬ振りという、図らずも武道で言うところの一挙動いっきょどうを会得することとなったのです。


 ヨトウムシ――


 一般には、ヨトウガ亜科に属する幼虫の総称。アブラナ科の野菜を好んで食べますが最近は見境なしに何でも食い荒らします。「畑のギャング」の二つ名を持ち、昼間は土の中に隠れ、夜になると近場の野菜をむさぼり喰う非常にやっかいな虫。ヨトウムシは「夜盗虫」と書きます。


 以前ブロッコリーを1ヘクタールほど作りましたが、収穫するブロッコリーの半分くらいがこいつにやられたことがあります。原因は防除作業に手がまわらなかったこと。またその年が例年になく暖かかったことなど考えられます。


 件のようにブロッコリーの袋詰め作業をしていますと、花蕾の裏から大量のフンが出てきます。切って確認すればそこには巨大なヨトウムシが鎮座ましましており。その世紀末覇者と言わんばかりのグロテスクな様相と滲み出るラスボス感には懊悩煩悶おうのうはんもんいたします。


 因みに実家の婆ちゃんは、イモムシを見つけたらそれを引っぺがして、必ずその場で踏みつぶし、地面にこすりつけます。まるで魔女の呪いまじな。収穫用の包丁を持っている場合は躊躇なく真っ二つ。子供心に


 「なにもそこまでしなくても」


 と、その残酷さに目を覆っていましたが、こうやって自分自身が商品を貪り食われてみると、見せしめの気持ちが少しでも理解できてしまうのだから、人間とは残酷なものです。


 そして今、隣にはその意思を強固に引き継ぐ女勇者が仕事をしています。

 私の妻は昆虫全般、特にイモムシが好きというちょっと変わった人です。本来、妙齢のご婦人方が服や髪型などを指して連発しあう


 「や~ん、かわいい」


 という常套句をこの女傑はヨトウムシに投げかけます。


 「や~ん、飼いたい」


 と言いつつ、引っぺがしてぶん投げていく。

 でも、その様子が、なんとなく、あの夏の少女に少し重なって見えて――


 「もしかしたら、その女の子も、その日帰る予定で待ってたんじゃない?」


 「?」

 

 梅雨の晴れ間。空が少しだけ群青色になりはじめて。


 「あ、蝉の抜け殻みつけた」


 何十回目だろう。また、夏がやってきます。

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