第3話 逃避にいたる病、支払時過呼吸症候群

 5月の乾燥した空気の中、繁茂した葉はビニール越しにより多くの太陽光を要求し、大地に張った根は水と養分を絶え間なく飲み続ける。そして取り込んだ二酸化炭素と光で咀嚼しながら同化産物を生み出していくわけですが。


 この恩恵――

 

 すなわち、たわわに実ったトマト。その整列した様は、さながら三十三間堂に鎮座ましました仏像達の如く圧巻の一言。それこそ品薄である冬場は一体一体を拝むように、ありがたい気持ちで収穫にのぞんでいました。


 しかし暖かくなるにつれて熟すスピードは早くなり、収穫量も比例して多くなるわけで、結果どうなるかと言えば、単純に仕事が忙しくなるのは自明の理。あんなに崇拝していたトマトを今では


 「今から俺は、おまえたちを殴る!」


 と、ラグビー部員を張り倒していく勢い。一人黙々と続ける収穫作業。泣き虫先生でもないのに泣けてきます。


 技術が進んだ現代においても農産物の出来不出来、その大方の決定権は自然側にあります。地球が織りなす大きな気候変動の中で人間ができることは未だ限定的。農業を営むということは、めまぐるしく変わる気候に対して柔軟かつ迅速に対応していくことに他なりません。


 それでも収穫までこぎ着け、なんとか現金に変わったときの喜びはひとしお。直売所でたくさん売れたときは、泉に水を汲みに行く少女のようなステップで小躍りもでます。まあ、こんな話あれですが、ニヤニヤしながら通帳を見るのが、この仕事の強力なモチベーションとなっているわけで。


 「今週の売上、いくらいった?」


 帳簿をつけている妻に投げかけると


 「なんとか100万は超えたよ」


 「よし!」


 なんつって、ガッツポーズもでるわけで。お金が全てじゃないことは頭ではわかっていても、結果として明快に出てくるそれはやはり気持ちが良いものです。


 「フルーツトマトが最盛期になり始めると、やっぱ伸びが違うね」


 「今が稼ぎ時だから休日返上で収穫しまくるぞ」


 「トマト栽培やってれば、どのみち休めることなんてほとんどないでしょ」


 「そうりゃそうだ」


 しばし談笑のひととき。


 しかし光が強ければ影もまた強く。その悪魔のように黒い影。すなわち数ヶ月遅れてやってくる暖房代の支払い。ビニールハウス栽培で必要になるこのコスト。特に近年は異常気象による寒波・豪雪、長引く曇天の影響で冬を越すのに莫大なエネルギーを必要とします。そこに世界情勢に左右される燃料高が経営を圧迫してくるわけで


 「郵便でーす」


 「「こ、これは!」」


 その支払いは斟酌の余地なくやってきます。げに恐ろしきは請求書。スターは遅れてやってくる。


 請求書を見るたびに息が止まります。これは「請求時無呼吸症候群」と言われる生活習慣病の一種です。しっかりとのり付けされた封筒をトマトの渋と泥にまみれた指で無造作に開けていくと


 「来月のお支払い700万円なり」


 息が止まりますよね。私は白目で鼻水が出てますし、妻はしゃくれたまま立ち尽くすのみ。この請求額、キョンシーに出会った時のように息でも止めなければ正気を保てません。むしろお札代わりに業者の額に貼り付けてあげたい。さあ、跳んでいけ、どこまでも。


 それとは別で支払う瞬間は「支払時過呼吸症候群」という発作が起こります。いまだに有効な治療法が見つかっていない奇病です。主な症状として過呼吸、手の震え、そして甚だしい現実逃避――


 インターネットバンキングにて、震える指先、きょどる眼球。


 「このエンターを押すと、せっかく貯まったお金が一瞬でなくなる・・・・・・」


 燃料を投下して、それ以上の収入を得る。わかってはいても通帳から一気に金額が減る様をみるのはつらいもの。そう、これはビジネス。多くの人の協力で農業は成り立っていて気持ちよく商売をしていく必要がある。


 しかしその時、頭の中に響く声。


 「おまえなら飛べるさ、どこまでも」


 高い跳躍。おそらくこの地球上で誰よりも高いそれ。想像力の筋繊維はメキメキと引きちぎれ、より一層強くなる。破壊と修復を繰り返した今では成層圏にだって届くんだ。


 ほら、今、僕の足元に見える青い星、地球。


 僕らが住むこの世界は多くの問題を抱えている。民族紛争、貧困、環境問題。遠くから眺めると、自分の抱えている問題なんてとても些細なことでしかないんだ。


 「・・・し」


 「もしもし? 聞いてます?」


 「あ、はい! すみません」


 「重油代金なんですけど、今月の支払いよろしくお願いしますね」


 「あ、大丈夫です。間違いなく払いますんで」


 電話で来年の打ち合わせをしながら、支払金額をポチッとな。


 「くっ! さらば諭吉」


 現実逃避しても変わらない現実。顔で笑って心で泣いて、手元に残るは端金。くそっ! いつかこの世界で大金稼げるようになってやる。


 そのとき、また鳴り響いた着信音。


 「あ、私だけど。予定の出荷枚数、大丈夫? もうすぐ業者さんくるよ!」


 「ひぃぃぃ!」


 農繁期。容赦なく積み重なる仕事の山。人間の都合にあわせて植物は都合良く待ってはくれず。5年前に妻と二人で起ち上げた直売所。忙しすぎて、なんだか気持ちよくなってきた。


 ファーマーズハイ――


 長い農作業の末に陥る陶酔状態。顔面蒼白なのにときめく笑顔。


 これはとある地方都市で農業を生業としながら自然に翻弄される様を描いた、とある夫婦の物語。

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