三十四の節 働くと言う事。 その二




「折角、満腹だったのに消化してしまった。念願のお菓子ドルチェは食い逃すし、旅の汚れも落として服も新調したのに、汗塗あせまみれになるわ、返り血で汚れるわ。もう散々だ」


 新たなお菓子ドルチェに釣られ、一仕事ひとしごとをこなした璜準コウジュン毒吐どくついた。昼間に似た月下に照らされた姿は、大量の鮮血の獣センケツノケダモノの返り血を浴び、世界レーフの原罪よりも深い黒に染まっている。


黒の群狼クロノグンロウの仲間入りだな」


うるさい」


 茶化すアラームの左側には、雪河セツカたたずむ。アラームと同じ高さの長身を包む、炎州エンシュウ式に似た衣装は今も白いままだった。


「一人だけ綺麗な格好かっこうしやがって。なまけてたのか?」


璜準コウジュンが未熟なのだよ。汚したくなければ避けろ」


 雪河セツカの返しに、無言で視線を反らした璜準コウジュンは、不機嫌さを増したようだ。


「空腹は満たしてやれないが、風呂上り状態に戻してやるよ。璜準コウジュン、私の眼を見て欲しい」


 青い月アオイツキの下。頭巾フーザを背に送ったアラームが、璜準コウジュン青い月アオイツキと同じ色の瞳をのぞき込んだ。


 璜準コウジュンが間近で見たアラームの双眸そうぼうは、鮮血の獣センケツノケダモノよりも濃密だった。

 璜準コウジュンが記憶する鮮血の獣センケツノケダモノと同じ色すらせる程に艶やかで、深淵の禍々まがまがしさの底に、砂金や硝子片に似た微細な万華鏡を沈めていた。


「下がれ、アラーム。我が洗浄センジョウしてやる。我以外の存在に近寄るな」


 アラームの背後から、雪河セツカの腕を包む白いたもとが伸びる。後方へとアラームを追いやり、次は雪河セツカの濃い金色の双眸そうぼう璜準コウジュンの視界を捕らえた。


 一体、この常識外れの美の共演に何の意味があるのか。説明もなく勢いに押され、されるがままになっていた璜準コウジュンだった。

 やがて、文句の一つでも言おうとしたのか。璜準コウジュンが口を開こうとした、次の瞬間。


 雪河セツカが離れる頃合、その手が軽くを吊り上げ宙で掴み取る仕草をした。


「そら、白鈴楼ハクレイロウを出た頃合の姿だろう」


 低く、甘く。黒蜜が溶ける声に問われ、璜準コウジュンは変化を認めざるを得ない衝撃に見舞われていたようだ。


 一度染まれば、決して落とせない鮮血の獣センケツノケダモノの返り血が、新調した衣装から消え失せている。戦闘によって生じた代謝の不快な汗も、張り付いた塵や死臭さえ払われていた。


「な、何が起きたんだ、これ。風呂上りよりも爽快なんだけど」


 常軌を逸した現象に、少なからず璜準コウジュンは動揺の素振りを見せる。


璜準コウジュンの構造を把握して、不要な部分を取り払った。要するに、眞導マドウの応用編。肌や繊維に付着した汚れを除去したんだよ」


 雪河セツカに代わり、アラームが説明した。当の璜準コウジュンは事象を、簡単に受け入れないと言わんばかりに、怒りとも怪訝けげんとも受け取れる表情で抵抗を示した。


「アラーム。マリサがいるぞ。合流するか?」


「そうだな。今からでも手伝える事もあるだろうし、この辺りは物騒だからな。護衛を買って出よう」


「承知した」


 雪河セツカは、いつも唐突に感知した情報をアラームだけに向けて発する。

 アラームも慣れた様子で受け容れた。二名の会話によって移動先が決まったが、に未練がある璜準コウジュンは、温和おとなしく従うしかなかった。




 ◇◆◇




 フローリオは南のシャンドル港を要として、放射状に八本の大通りが内陸に向かって走っている。多少、湾曲しながらもフローリオの境界線とも言える城壁は半円を描く。別名、貴婦人の絹扇と呼ばれていた。


 八本の大通りには聖人の名が冠される、救済院が象徴として建造され人々の秩序と信仰を支えていた。


 東側から三本目の大通り。今となっては最も城壁に近く、最も広大で古い歴史を持つセイマリサ救済院。本日、青い月アオイツキの夜は野戦病院と化していた。


 日々においても、果たす役割は大きいものだ。


 すぐそばには、貧民街が広がっていた。住民が築き上げた、産廃物の壁で外界とをへだてる。上下水道も整備されず、雨が降れば汚物があふれ出す。

 伝染病を媒介する鼠や害虫が、昼夜を問わず彼らとの共存と活動領域を主張した。


 貧民街の治安は当然悪く、犯罪行為は日常だった。救済院からの援助が、たまに滞る理由は根本的な問題に触れず、互いに境界線を引いている事に気付いていない事だった。


 今夜のセイマリサ救済院は、その責務を天秤のような均衡で維持していた。それを可能にしていたのは、救済院の職員の質の高さと有力市民の協力の賜物たまものと言える。


「物を奪って何が悪いんだ!」


 フローリオと冠する同じ街であるはずの境界線区画で、事件は起きていた。十代前半の少年が、窃盗の犯行現場を押さえられたのだ。


 半円を描く人垣に囲まれる中、悪態をつく少年は馬留うまどめの柱に座り姿で拘束されている。

 そこへ、前触れもなく人垣を割り現れた黒装束の人影から伸びた長靴の底が突き出て来た。


 作用点でもある立てていた少年の左脛ひだりすねは垂直方向の圧力に屈し、小気味の良い乾いた音が立つ。


 少年は左脛ひだりすねを折られた痛みより、その事実に対し驚きの絶叫を上げる。


「い、いきなり何すんだよ!」


 ようやく非難の言葉を口に出来た少年は、縛られた体勢のまま苦悶の表情を作り上げる。


「差し詰め、歩く自由を奪ったと言う所かな。奪うのは、悪い事でも何でもないんだろう?」


 口元しか見えない、アラームの端整な部位が嘲笑を浮かべ見下している。


「綺麗に折れている。下手に動かなければ元通りに接着し、強度も増す」


 濃い金色の双眸そうぼうすがめ、薄汚れた少年を一瞥いちべつした雪河セツカはアラームを見る。


一々いちいち騒ぎに反応するなよ、面倒臭ぇ」


 空腹で、不機嫌を増した璜準コウジュンが言葉を吐き捨てる。


「相変わらず乱暴ね。でも、アラーム達が来てくれたと言う事は負傷者の波も終わるわね」


 淡い眞導灯マドウトウの明かりに浮かぶ姿と言葉の主は、白鈴楼ハクレイロウの元支配人マリサ。

 現れたアラームの言動に対して驚かず、事情をも汲みする物言いは当然だった。


 セイエトランヌ救済院の一件。今夜の青い月アオイツキが、もたらすであろう凶事。これらの解決を店内での説教に織り交ぜ、アラームに依頼をした張本人に他ならない。


「もう一つ頼みがあるんだ。だから、手伝える事があれば動くよ」


 もう済んだ事。そう言わんばかりにアラームは少年を置き去り、マリサに尋ねる。


「あら、嬉しい申し出だわ。負傷者の回収と、治療をお願い出来る?」


「承知した」


「待って、協力支援の腕章を着けてね。雪河セツカも着ける?」


「我は、アラームのあるじだ。当然、着用する」


 マリサから協力支援の白い腕章を受け取る、白と黒の長身を眺める者がいた。璜準コウジュンは、空に広がる静寂と、地上の生命が巻き起こす喧騒に挟まれていた。


 巻き込まれるだけの日々に身の置き場を失い疎外感が満ちて来たのか、表情に影が差しているように見える。


「アラーム。肩掛けを預かりましょうか? 作業の邪魔になるでしょう」


 場違いな程、華美で仕立ての良い異国の衣装に身を包むサルダン人が、アラームに提案して来た。


「預けるだけだぞ。後で返してくれよ」


 唯一、表情の判別が叶う整い過ぎる口元。そこに冗談を添える笑みを描き、アラームはベルトを解いて肩甲ごと相手に預けた。


「美術的価値がある背嚢はいのうは?」


「まさか、背嚢はいのうまで欲しいと言い出すんじゃないだろうな。駄目だぞこれも。それに邪魔にならないから、大丈夫だよ。有難ありがとう」


 マリサから受け取った腕章を既に巻いている赤い布の上から、着用しながらアラームは応える。


 サルダン人が動くたび、身に着ける貴金属の音が細波さざなみのように追随する。血色の良い桃色肌の表面は、まるできたての茹で玉子。

 大きな耳が前方へ垂れて顔面を覆い、上を向く鼻。ひたいから首の後ろまで生える黒髪を真珠や蜻蛉玉とんぼだま硝子管がらすかんで飾りながら幾何学模様で見事に編み込まれている。


 古くから海洋航路を開拓し、真珠と香辛料の国から文字通りの交易の品々を、独占流通させる生粋の商人集団。ニンゲン属シシ種サルダン族の大豪商カーダー・マッカン。


 夕方には白鈴楼ハクレイロウの二階で、高級店には相応ふさわしくない舞台席を提供した、アラームの知己の一人でもあった。





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