十九の節 雌伏の都。
日常とは、繰り返される尊い摂理。
全半壊する建物。焼け落ち天井を失った講堂。整然と通路を敷き詰めていた石畳には腐汁が渡る。千々に撒かれた、かつての生命。
一日の始まりを告げる野鳥の声。昇る陽光が照らし出したのは、つい数日前まで
今は、生存者の保護と生存者の探索。物言わぬ市井の人の確認と収容のために動く人影が、か細く機能を
消毒代わりの消石灰や焼却では追い着かず、新たな生物の
日常を取り戻せないまま、最低限の機能を果たす学舎の一つがあった。
始まったばかりの陽光を頼りに、活動を本格化する一帯。広場を確保し、天幕を張った場所で炊き出しが始まっている。
辛うじて構造を保つ教室は、簡易の診療室、怪我人の休息所、緊急物資の一時預かり倉庫と化している。
生き残った人々は、日頃から築く関わりの輪を元に、助け合い寄り添い、それぞれに課した役割を果たしていた。
「怪我の具合はどうだ?」
「大丈夫。とは言えませんが、何とか、生きています。今は、それだけで十分です」
様々な生活音が立つ中。負傷者が集められた一角で、会話が起きる。緑色の見習い
「パシエ先輩は、一仕事の後って感じですね。お疲れ様です」
ほぼ無傷のパシエは、力仕事を中心に不眠不休で活動していた。そのため、周囲の怪我人とは違う意味で凄まじい姿になっている。
「済まない。やはり臭うよなぁ。手は何とか洗えたが、着替えもない。風呂なんて贅沢で、言葉にも出せないよ」
黒髪黒眼を持つ、若者の顔の位置に合わせるパシエは、片膝を着く格好になる。
「でも、何だか懐かしい匂いです」
見るからに人の
「幼い顔で、物騒な発言をするんだな」
「あ、あぁ、違うんです。硫黄に似た匂いが混じっているので」
ある意味、感心したように声を立てたパシエに、場所と状況が蘇ったのか、ハドが慌てた様子で弁解した。
「冗談だよ。故郷の市場だろう? 生鮮食品の害虫
「その通りです。ご存知なんですか」
「カヤナ大陸にも伝わっているよな。それに、不謹慎だが間違いではない。毛髪には硫黄成分が微量だが含まれている。
「へぇ~、パシエ先輩って博学ですね」
そうでもないよ。下を向き、短い言葉を床に落とす。同時に、やけに綺麗な白い手袋に包まれた右手を、軽く上下にそよがせる。照れているのか、謙遜を表しているらしい。
その白さを視界に入れた若者の黒い瞳が、何かに思い至った形に見開かれた。
「あの、白い使役獣さんは?」
「散歩だろうな。死体の始末や残骸処理まで、付き合う程に甘くはないし」
「あの晩」
黒髪黒眼の若者は、確信が持てない様子で探るように言葉を繋ぐ。
「お礼を言いたかったんです。白い使役獣さんに助けて
「へぇ。あいつに?」
「話しが通じないのは知っています。でも、あの白い使役獣さんは分かってくれるような気がして。変ですよね」
自嘲気味に、若者は
「
「え?」
「その白い使役獣さんの名は、
「素敵な響きですね」
「気に入ってくれたかな?」
「はい」
余韻を噛みしめるように若者が沈黙すると、周囲の喧噪に支配された。
「おい! 緊急手術用の麻酔薬品を第二棟に回してくれ!」
「無理だ! こっちも丁度在庫が切れた!」
「必要物資の確認は!?」
「ちょっと! 蒸留水を勝手に持ち出したの誰!?」
のろのろと、若者は首を巡らせる。建物が調度品が、人間が壊れて欠けていた。
「こうして見てみると、大変な事になっていますね」
「他人事か。グランツ・ハーシェガルドも大怪我をして、身動きも不自由だろうに」
「ど、どうして、僕の名前を全部、並べるん、ですか」
「何と呼べば善いのか判らないから」
「ハド。って呼んで下さい。長いでしょ、ハーシェガルド、なんて」
「特別な対象にしか許さない愛称にも聞き取れるが、大丈夫なのだろうか」
「あ、ははは。そんな事はないです。昔から、周りの人達からは、ハドって呼ばれて、いましたから」
言い終えると、ハドは苦痛を隠しながら息を吐いた。
「一つ、質問しても構わないかな」
ハドの気遣いを、見て見ぬ振りをしたパシエが、注意深く様子を
「ハドを襲った化け物。どんな形容だった?」
見上げたハドの視線の先には屋根が落ち、無慈悲な程に澄んだ青い空が見えた。
「ヒト型体模型に、薄く肉が付いたり、付いていなかったり。右側の腕が、大きな刃物になっていました。刃物なのに桃色、だったかな。その他は、必死だったから思い出せないや。御免なさい」
「〝無垢の産声〟かな」
パシエの意外な反応に、ハドは興味をそそられたらしく視線をパシエに戻した。それは、聞き慣れない言葉の意味を問うかのようだった。
「そんな顔をしても、応えてやらないぞ」
「えぇ? どうして分かったんですか?」
「ハドは素直だから、顔に出ている」
「そ、そうなのですか?」
突然の惨状に追い着けなかったハドの感覚が、パシエとの会話によって徐々に整理と確認が叶ったようだった。時折浮かべる精一杯の笑顔のまま、パシエの姿を改めて見た感想を素直に言ってしまう。
「パシエ先輩は、シザーレの掟に対して
シザーレ
視覚情報を遮断し、
〝
〝
「そうでもないよ。都合が善いだけ」
意味深な応えをパシエが言うと、隠しきれない身体的特徴が、第三者の目に止まった。
「お! そこのお前、デカイ身体だな。こっちに来て力を貸してくれ。早く!」
「は、はいっ」
服や腕に自身の血をこびり付かせた、酒屋の店主の大きな声に呼ばれた。急に肩を
望む応えが、時の経過と共に呑み込まれて行く。そんな儚さを思うかのように、ハドの黒い瞳は小さく揺れた。
「また、様子を見に来る。死ぬなよ」
「ふ、不吉な事を言わないで、下さいよ。僕は、まだ、死ねません、からっ」
痛みが腹に負荷を与え、途切れるハドの言葉。それでも、パシエは、ハドの精気に明日から先の時間を見出したらしい。
その証しを、深く被った
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