【百二十丁目】「“人間達に出会えて、本当に良かった”」
「
人目も気にせず、長い病院の廊下を走り続けた男は、とある一室に駆け込んだ。
ほの暗いその部屋の出入り口には「霊安室」と書かれたプレートがあった。
中にいた女性医師と看護師が二人、突然駆け込んできた男に目を丸くする。
そんな医師達には目もくれずに、もつれた足取りのまま、男は室内に置かれたベッドに向かった。
ベッドの上には人間大の膨らみがあり、顔には白い布が掛けられている。
それに震える手を伸ばす男。
その手を女性医師がそっと押さえた。
「ご遺体の損傷が酷い。今はご覧にはなられない方がいいと思います」
「け、けど、本当に美佐江かどうか確認しなければ…」
食い下がる男に、女性医師は透明な袋に入った小さな指輪を差し出した。
「こちらの方が身につけられていたものです。見覚えはありますか…?」
男はそれを受け取ると、目を見開いた。
「あ…ああ…そんな…これは美佐江の…」
高熱にさらされたのか、指輪はわずかに変形している。
男はその指輪に見覚えがあった。
見間違うはずがない。
それは、20年以上連れ添った妻の左手の薬指にはまっていたものだ。
まだ、安月給だった頃、男が身銭をはたいて購入し、彼女に贈ったものだった。
あの時の妻の愛くるしい笑顔は、男にとってかけがえのない大切な思い出だった。
それから、何かと働きづくめだった男を、彼女は陰で懸命に支えてくれた。
今思えば、家庭を顧みず、十分に構ってやれる状況にもなかった。
しかし、妻は文句の一つも言わず、男の背中を見送り続けてくれた。
男は口にこそ出さなかったが、そんな妻に深く感謝し、愛していた。
その妻が…
いま、男の目の前で、物言わぬ遺体となって横たわっている。
その事実に、男は放心したように立ち尽くした。
「美佐江…」
ベッドに一歩踏み出す。
よろめきながら、男はその縁に振れた。
冷たいシーツの感触が、男の意識を否が応にも現実へと縫い付ける。
「美佐江…」
囁くように、呼び掛けるが、応えは無い。
そして、男はへたり込んでしまった。
「美佐江っ…美佐江ぇぇぇぇッ…!!」
激情がようやく追いついてきたのか、男の目に涙がこみ上げてきた。
同時に、滲んだ視界の中で風景が輪郭を失っていく。
何もかもがぼやけていき、ぐるぐると回り出す。
男は慟哭した。
愛する妻は失われ、思い出だけが取り残される。
その残酷な運命を告発するように、男の声は響き渡った。
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「ごほっ!げほっ…!!」
息苦しさにむせかえりながら、
喉から凄まじい嘔吐感がこみ上げ、そのまま四つん這いになって吐く。
口から大量の水が吐き出され、肺が空気を求める。
何度かそれを繰り返し、ようやく収まると、誰かが黒田の背中をさすってくれた。
「大丈夫…ですか…?」
か細い声女の声に、顔を上げると、そこには一人の小柄な女性がいた。
「き…貴様は…」
女性の顔には見覚えがあった。
確か「
いや…烏帽子の説明が本当なら、この女性も
確か深山亭逗留一日目、もう一人、
名前は「
初めてあった時、両耳の裏に魚のえらのような器官があったので、ひと目で
妖怪嫌いな黒田は、難癖をつけて水愛に絡んだのを記憶している。
「ここは…どこだ?何故、貴様が儂と一緒に…」
周囲を見回す黒田。
そこはごつごつとした岩場だった。
背後には轟々と流れ落ちる滝がある。
黒田は、その滝に見覚えがあった。
確かこの「
その証拠に、前方の山並みに「
「どういうことだ…?儂らはさっきまで
呆然と呟いてから、黒田は唐突に思い出した。
あの時。
「
そのまま「
だがその時、東水が不意に黒田へと問い掛け始めたのだ。
“あげましょうか?”
何度も繰り返すその問い掛けに、怒りに我を忘れていた黒田は、つい「寄越さば寄越せ!」と怒鳴り返した。
その直後。
夜光院の裏手の山より流れ落ちる滝から、膨大な水が吹き上がり、鉄砲水のように押し寄せてきたのである。
その激流に飲み込まれ、黒田は意識を失ったのだった。
「何だったんだ、あの大水は…」
「あれは…“
黒田の呟きに、水愛がそう説明する。
「“遣ろか水”だと?」
「はい…『やろうか?』という呼び掛けに答えると、たちまち大水を起こす妖怪です」
“遣ろか水”の伝承にはこうある。
激しい雨が降り切る中、川が増水すると、不意にどこからか「やろうかやろうか」と声がする。
その声に「寄越さば寄越せ」などと答えると、たちまち大洪水となり、周囲を鉄砲水で押し流してしまうとされる。
あの東水という少女は、その“遣ろか水”という妖怪だったのだ。
「そうだったのか…ふん、やはり『化け物』だな、貴様らは」
「…」
ずぶ濡れになった自身を見てから、忌々しそうに睨み付けてくる黒田に、水愛は無言で俯いた。
「…で、貴様は何故ここにいる?」
「…」
「何も言えんか…まあ、大方儂の死骸でも確認しに来たんだろう?」
皮肉な笑みを浮かべる黒田。
「だが、残念だったな。この通り儂はピンピンしている」
「いいえ、違います…私は…」
悲し気な表情を浮かべる水愛。
その時だった。
「おやおや~、命の恩人にそれはないんじゃない~?」
聞く者を脱力させるような脳天気な声が響く。
見れば、岩陰から白衣のような
その背後には、ボロボロになったイブ(
「貴様、生きていたのか?」
驚く黒田に、イヴは肩を
「いいや、
そういえば先程、沙槻が叛意した際には、那津奈は姿を消していた。
てっきり一人で逃げおおせたのかと思ったが、ちゃっかり
那津奈はウィンクしながら続けた。
「手持ちの
よく見れば、那津奈は一切濡れた様子が無い。
おそらく、俊足を誇るイヴが那津奈を抱え、東水が起こした鉄砲水を凌ぐ速度で安全域まで退避したのだろう。
那津奈の言葉に、片膝をつき、深く
「勿体無いお言葉です、
「い~んだよ~。相変わらず、固いなぁ、イヴちんは~」
脳天気な口調に頭痛を覚えつつ、黒田は尋ねた。
「そんなことより、いま言った『命の恩人』というのはどういう意味だ?」
「文字通りの意味だよ~。夜光院で鉄砲水に飲み込まれたゴンちゃんを、その
「だ、誰が『ゴンちゃん』だ!……いや、待て!いま何と言った!?」
怒鳴りかけた黒田が、驚いたように那津奈を見た。
「この娘が…儂を助けた…だと?」
「そうだよ~。私とイブちんが大水から逃げてここまで来た時、君たち二人を見つけて助けるのを手伝ったから、間違いないよ~。ホント、偉いよね~。あんなに
那津奈は、水愛を見やった。
那津奈も先程知ったのだが、水愛は“コサメ小女郎”という魚の妖怪だ。
彼女は、自らの妖力【
「それに、溺れて意識を失っていたゴンちゃんに、
その視線に、水愛は真っ赤になって俯いた。
一方、那津奈の言葉に、驚きを通り越して呆気にとられる黒田。
そんな黒田に、那津奈は珍しく真剣な表情で指を突き付けた。
「正直、あのまま放置していたら、死んでたと思うよ~?ここは、素直に感謝した方がいいんじゃないかな~?」
その言葉に、呆然となっていた黒田は、ハッとなってから、そっぽを向いた。
「…誰も助けてくれなどと頼んでおらん」
そして、小さな声で続けた。
「…どうせなら、そのまま放っておいてくれればよかったのだ…そうすれば、
その言葉が終わらないうちに、黒田の左頬が高く鳴った。
目を剥く黒田の正面に、水愛がいた。
水愛は、うって変わって毅然とした表情で黒田を見ていた。
「…く…ださい…!」
「な…に…?」
聞き返す黒田に、水愛は叫ぶように言った。
「『死んでもいい』なんて…そんなことを言わないでください…!」
水愛の目には、涙が浮かんでいた。
「本当に危なかったんですよ…!?もう少しで、貴方は死んでしまうところだったんです…!!もうしそうなったら、貴方の帰りを待っているご家族だって…」
「そんなものはおらんよ」
水愛の言葉を、黒田の固い声が遮った。
押し黙る水愛と、顔を見合わせる那津奈とイヴ。
黒田は、静かに続けた。
「儂には妻がいた」
目を閉じる黒田。
「議員として独り立ちする前に知り合った女でな。儂が惚れ込んで、結婚を申し込み、一緒になった」
遠い昔を懐かしむように、黒田はわずかに笑った。
「大人しい女だったが、優しくて、子供好きで、芯の強い女だった。
そう言うと、水愛を見やる黒田。
「…そう言えば、お前さんは、どことなく家内に似ているな」
「…奥様は…もう、お亡くなりに…?」
水愛の言葉に、黒田は頷いた。
「もう二十年も前になるか。ちょうど、お前さん方
黒田は空を見上げた。
四人の周囲を、“
その燐光の中、黒田は唇を噛んだ。
「その時、儂は仕事で家を空けていた。当時、
誰しも無言だった。
だが、全員が理解していた。
黒田の言う通り、当時の混乱は言葉では簡単に語りつくせない。
政府、民衆、マスコミ…さらには国連まで騒ぎは発展し、この国の誰もが新たに姿を見せた
「知らせを受け、病院に駆け付けた時、家内はもう息をしていなかった。聞いた話では、燃え盛る家の中に取り残された
黒田の顔がやるせない怒りに歪む。
その拳がぎゅっと握りしめられ、ブルブルと震えていた。
「だが、家内が助けた
黒田の血を吐くような独白が続く。
水愛だけでなく、那津奈やイヴも無言のままだった。
「しかも、その火事も、そいつら
黒田は水愛を見た。
そこに渦巻く怒りと悲しみが入り混じった表情に、水愛は硬直する。
「儂は
黒田の目から、涙が溢れた。
「貴様ら
「…」
「儂らの世界に混乱をもたらし、人間にいらぬ迷惑をかけ、それでも平然と『守られる側』を主張するのか!?儂らを…妻の命すら踏み台にして、それでもなお、儂ら人間に要求するのか…!?」
黒田は嗚咽した。
そして、そのまま両手両膝をついて、号泣する。
それは、あの日…妻を失い、その亡骸の前で慟哭した姿そのままだった。
「…ゴンちゃん…奥さんのことは気の毒だと思うけど、それは…」
那津奈が言いかけたその先を、水愛が無言のまま手で制する。
そして、泣き続ける黒田の傍に座ると、その肩にそっと手を置いた。
「ごめんなさい…」
その一言に、顔を上げる黒田。
滲んだ視界の中、水愛もまた泣いていた。
「
水愛は静かに続けた。
「何故、いまになってこの世に再び現れたのか…それは
水愛の言葉に、黒田は首を横に振った。
それに、水愛は泣きながら微笑した。
「“
目を見開く黒田。
那津奈とイヴも、微動だにせず、水愛の言葉に聞き入っていた。
水愛は続けた。
「私はこの現世に目覚めた当初、とても不安でした…私が知っていたかつての世界…それとはあまりにも様変わりしていたからです…山も川も、自然全てが見覚えのない風景になり、
それは、現代に復活した妖怪達全てが抱いた感想だろう。
世界には、かつては存在しなかった「科学」が溢れ、自分達の拠り所になっていた「神秘」は、軒並み否定されていたのだから。
実際、それを受け入れることが出来ず、かつての棲み処としていた深山大海に姿を消した妖怪達も多い。
特に古くから存在し、強大な能力を持った妖怪ほど、その傾向が強かったとされる。
「ですが、途方に暮れていた私を人の世に導いてくれたもの…それは他ならぬ
「…どういう…ことだ…?」
「人に近しい姿かたちになったとはいえ、
水愛が微笑む。
「だから…私は降神町役場に就職したんです…少しでも多くの人間達に恩を返すことが出来るように…」
黒田は、鼻を鳴らした。
「…他の連中はいざ知らず、儂は
水愛が頷く。
「だからこそ、これから『分かり合う喜び』を、一緒に分かち合えるじゃないですか」
鼻白みつつ黒田は、水愛を睨んだ。
「では、この際ハッキリと言わせてもらおう!儂は、お前が妻を失う原因になった『
水愛はもう一度頷いた。
「分かっています」
平然とした水愛に、一瞬ひるむ黒田。
だが、意を決して続けた。
「儂は!そんな私怨で公私混同し、挙句、少女を人質に取るような卑劣な手段で
全てをさらけ出した黒田の告白にも、水愛はまっすぐな眼差しを外すことなく、黒田を見詰めながら頷いた。
「出会えたからこそ、貴方はこうしていま、本心を打ち明けてくれましたし、私も私自身の思いをお話しすることができました…もし、お互いにすれ違ったままだったら、私も貴方もお互いに何も知らないまま、何も変わらなかったでしょう…それに…」
微笑する水愛。
「“
その言葉に。
黒田は表情を歪めると、無言で顔を伏せた。
そして、小さく呟く。
「…ふん。胸糞悪い…言ってることまで、いちいち
そうして、黒田は立ち上がると水愛に背を向けた。
「水愛…といったな?」
「はい」
「改めて宣言しよう…儂は妖怪は大嫌いだ。たぶん、これからもずっとな」
「…はい」
僅かに
それに黒田は一つ咳払いをすると続けた。
「それでも…儂もお前さんに会えてよかったと思う」
その言葉に、水愛は目を見開いて顔を上げた。
「えっ?」
黒田がほんの少しだけ水愛へと振り返る。
「『
黒田は、再び顔を背けると小さな声で告げた。
「…助けてくれたことに感謝する。ありがとう」
水愛の目に、再び涙が浮かんだ。
黒田の心は、まだまだ
だが、二人の出会いは、少なくとも何か小さな変化をもたらしたのだ。
その変化が、良い方向に向かうような予感がして、水愛は目じりを拭いながら笑った。
「はい…!」
そこへ、那津奈とイヴが口を挟む。
「んっふっふ~、ゴンちゃんってば素直じゃないなぁ~」
「まったくです。それに、六十男のツンデレは全く萌えませんね」
「やかましいっ!いいから、とっとと
真っ赤になって怒鳴る黒田に、那津奈は肩を竦めた。
「私の契約者は、烏帽子さんなんだけどね~…まあ、さっきの鉄砲水ではぐれちゃったし~、あの人なら一人でも現世に帰れるだろうから、仕方ないか~。よしきた~、ついといでよ、ゴンちゃん~」
「だから、誰が『ゴンちゃん』だ!?次に妙なあだ名で呼んでみろ!公安にタレこんで、国外追放にしてやるぞ、ピンボケ
「おい、貴様!
「ふん、ポンコツは黙っとれ!大体、貴様らはだな…!」
あーだこーだと言いあいながら、三人は幽世の境界である滝の表面へと向かう。
一人それ見送る水愛へ、ふと那津奈が振り返った。
「水愛ちゃん~、とってもいい話、ありがとう~。十乃くんと
「は、はい…皆さんもお元気で…!」
そう応えると、那津奈はウィンクしながら、手を振った。
「うん~、また会おうね~!」
三人の姿が、滝の表面の向こうに消える。
それを見届けると、水愛は夜光院へと歩き始めた。
すると、程なくして。
「水愛ーっ!」
自分の名前を呼ぶ同僚…織原
見れば、夜光院と暁光に彩られた山並みを背景に、見慣れた同僚たちの姿が遠くにあった。
「真琴ーっ!」
それに声を返す水愛。
そして、彼方に見える仲間たちの元へ走り始める。
抱き合ってお互いの無事を喜ぶ彼女達を、ゆっくりと舞い飛ぶ“川蛍”の柔らかな光が、まるで幻灯のように照らし出していた。
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