【七十丁目】「…ですが、妖怪では貴女が初めてです」

「本日はお忙しい中、お集まりいただき、誠にありがとうございます」


 円卓に座った一人の妙齢の女性がそう一礼する。

 ここは降神町おりがみちょう中心市街地にある高層ビルの一室。

 そこには「muteミュート」主催の特別住民ようかい向け人間社会適合セミナー「K.a.Iカイ」の顧問一同が顔を揃えていた。

 その顔触れは「K.a.I」に協賛する形で出資した各企業の顔役である。

 その中には、服飾ブランド「L'konoルコノ」の社長として大成した鉤野こうの しず針女はりおなご)の姿もあった。

 プライベートでは着物姿を好む彼女だが、こうした会議の場ではスーツに身を固め、毅然とした面持ちで臨んでいる。

 その他にも数々の大型企業の面々の姿も見られた。

 新進企業であり、不動産やホテル業など、多分野で着実に実績を伸ばす多角経営企業の「五稜ごりょうグループ」

 建設業界の老舗であり、手堅い経営方針で信頼が厚い「楯壁たてかべ土建」

 海外からの輸入品販売で業績を積み、代替わりを切っ掛けに特別住民ようかいの雇用で積極的な姿勢を見せる「株式会社 MEIAメイア

 他にもこの降神町を本拠とし、各業界で注目される大企業の重鎮が並ぶ。

 まさに、そうそうたる顔ぶれだった。

 そんな面々を、女性が見回す。

 この女性こそ「K.a.I」の主催者「muteミュート」の日本支部のトップであり、謎の多い同社総帥の名代とも目される人物…烏帽子えぼし 涼香すずかである。

 切れ長の目と白い肌。通りの良い鼻梁と口紅ルージュをまとった艶やかな唇。

 美しい長い黒髪を束ねたその白百合のような姿は、文句のつけようのない大和美人である。

 男性ならば一度は目に止め、すれ違えば振り返る者も多い筈だ。

 烏帽子は、一同の視線を受けながら、ゆっくりと切り出した。


「皆様のご尽力により『K.a.I』の運営は良好そのもの。この町に住む特別住民ようかいの参加率の伸びも順調です」


「当然だ。我々からこれだけのカネを捻出させておいて『実績が上がりませんでした』では済まされんよ、君」


 五稜グループの総帥、五稜 満男みつおがジロリと烏帽子を見る。

 絡むような物言いに、烏帽子は気を害した風もなく、微笑んだ。


「激励と受け取らせていただきますわ、五稜さん。五稜さんの仰る通り『K.a.I』の躍進は皆様のご尽力があってこそです。各業界で飛ぶ鳥を落とす勢いの皆様が、こうして我が社のこころざしに力を貸してくださっておりますことに、私達は深い尊敬と感謝の念を抱いております」


 その艶めいた微笑みに、居並ぶ男性陣の相好が緩む。

 鉤野は内心舌を巻いた。

 今も昔も男はプライドの高い生き物だ。

 「相手から一歩引いて、頼りつつ、持ち上げて掌で転がす」…この女がこうして時折見せる男心操作術は、悔しいが本当に参考になる。


「同時に、私達は失敗は出来ませんし、致しません。皆様のご期待を裏切らない結果のみをご報告させていただければと思います」


「ハッハッハッ…まあ、堅苦しいやり取りは後にしましょう、烏帽子さん」


 そう口を挟んだのは、楯壁土建の代表である楯壁 守弥もりやだ。

 今日も爽やかな笑みを浮かべつつ、白い歯を光らせる。


「今日は何か用事があって、僕達を呼んだのでしょう?」


「はい。では早速ですが、こちらをご覧になってください」


 そう言うと、烏帽子は手元のタブレットを操作する。

 それと同時に、窓のブラインドが降り、天井からプロジェクターが出現する。

 そして、反対の壁際に出現した白いスクリーンに、洋上に浮かぶどこかの島が映し出された。


「これは我が社が所有する太平洋上のとある無人島です。面積はこの降神町と同規模。気候は日本内陸より多少温暖な感じです。無論、領海内にあり、本土からはそう離れてはおりません」


「とても奇麗な島だな。でも、この島がどうかしたんですか?」


 「株式会社 MEIAメイア」の社長である青年が、そう問い掛ける。

 最近、父親が退陣し、後継者となったばかりの若者だが、経営手腕を含め、評判は悪くない。


「繰り返しになりますが、現在『K.a.I』の運営は好調そのもの。世論やマスコミも好意的にも取り上げて頂き、順風満帆です」


 烏帽子は全員を見渡しながら、続けた。


「ですが、私達はそこにいつまでも胡坐あぐらをかくつもりはありません。特別住民ようかいの皆さんがより高いレベルで人間社会に適合できるよう、更なるサポートを行うためのステップアップを視野に入れた、次のプロジェクトに踏み込みたいと考えております」


「次のプロジェクト?」


 突然飛び出した言葉に、一同がざわつき始める。


「それとこの島に何か関係があるというのかね?」


 五稜の問い掛けに、烏帽子は頷いて見せた。


「『K.a.I』は、参加している妖怪の皆さんからもから高く評価されておりますが、彼らのアンケート結果やメンタルチェックの統計データを見ますと、見過ごすことのできない一つの課題が見つかりました」


「課題?」


「はい。それはいわゆる環境から来る『ストレス』の増加です」


 その言葉に一同が再びざわつき始める。


「『K.a.I』には、妖怪達の心身のケアには十分な施設やサービスが揃っていると思うが…」


「そうです。機材もスタッフ…いずれも最優のものが配置されている筈ですぞ」


「皆様の仰るとおりですわ…ですが、彼らは『妖怪』です。見た目こそ人間と変わりませんが、根本的に人間とは異なる生き物なのです。人間にとって快適である環境が、彼らには逆の場合すらあるのです」


 烏帽子は再度タブレットを操作する。

 それに合わせて映像が切り替わり、島の中の風景が映し出された。

 そこに映し出された映像に、一同は困惑した様に顔を見合わせる。


「烏帽子君…これは?」


「これは島の中の風景を取り込み、CGで加工して作ったイメージビジュアルですわ」


「イメージビジュアルはいいが…何だね、この田舎の風景は?」


 顧問の一人が指摘したように、スクリーンにはCG処理されたのどかな里山風景が映し出されている。

 未舗装の道路に田畑や水車小屋が見える村落。

 美しい山野や湖沼、険峻な冬山に南方を思わせる熱帯雨林ジャングルまでが次々と映る。


 操作を続けながら、烏帽子は説明した。


「時代設定は江戸時代以前の日本。北は蝦夷えぞから南は琉球りゅうきゅうまで、かつての日本の古き姿を再現しました。勿論、全て古文書や文献、歴史資料を参考に忠実に作っております」


「…これが妖怪達のストレス問題の解決になると?」


 別の顧問の問いに、頷く烏帽子。


「そうです。彼らをこの島に迎え入れ、万全の環境で受講してもらうのです。先程も申し上げた通り、最新鋭のリラクゼーション設備でも妖怪達のストレス解消は望めません。もともと日本古来の自然の中で生まれ育ってきた彼らには、それら人工的な設備が逆効果になっている可能性すらあります」


「成程。それでこうした昔の日本の姿を再現し、妖怪達の心的負担を軽減するという訳ですか」


 合点が言ったように楯壁が言う。


「素晴らしい!確かにこれなら妖怪達も今より満足がいく環境で過ごす事が出来る…そう思いませんか、鉤野さん?」


 隣りに座っていた楯壁から不意にそう振られ、鉤野は一瞬言葉に詰まる。

 集中する視線に、鉤野は一瞬戸惑った後、


「そうですわね…確かに、妖怪わたし達には懐かしく馴染み深い風景ですし、ストレスの軽減にはなると思いますが…」


 慎重に言葉を選ぶ鉤野に、烏帽子は屈託のない笑みを向ける。


「鉤野さん、気になる点があれば遠慮なく仰ってください。貴女は数少ない特別住民ようかいの顧問です。妖怪達の代表として、ぜひともご意見を参考にさせていただきますので」


「え、ええ…では、お言葉に甘えてお伺いしますが、この島に妖怪を迎え入れるとして、移動後の彼らの扱いは?この町で展開しているセミナーの方はどうなりますの?」


「無論、妖怪の皆さんの特性に合わせた住居や生活設備を環境を損なわないように整備いたします。必要なら現在の一部の設備は移転を行いますし、スタッフも同様です。ストレスが軽減される自然豊かな環境で、誰にも邪魔されることなく、妖怪の皆さんが勉学に打ち込めるよう、最大限の配慮を行う予定ですから」


「…そうですか」


 無言になる鉤野。

 彼女は、その胸の内に、不安が沸き立つのを感じた。

 「K.a.I」が運営され二カ月。

 その顧問に収まりながら、鉤野は未だに「muteミュート」の真意が読めないでいた。

 飛叢ひむら一反木綿いったんもめん)にはああ言ったが、彼女が「K.a.I」に参加を決意したのは、会社のためというよりも、妖怪なかま達のためだった。

 きっかけは突然だった。

 妖怪ながら、一企業のトップとなって人間社会で仕事をしている鉤野に、「K.a.I」の協賛企業を募集していた「muteミュート」が接触してきたのである。

 「muteミュート」は彼女の実績を買い「K.a.I」の顧問に迎え入れる事を告げて来た。

 鉤野は悩んだ末に、自分の経験が他の妖怪達の良い道筋になれば…とその要望に応じた。

 その結果、余裕が無くなり、勤勉に出席していた降神町役場のセミナーには顔を出せなくなってしまったが、妖怪である鉤野のアドバイスも功を奏し「K.a.I」は人間・妖怪共に好意的的な形で世間に迎え入れられたのだった。

 全ては順調だ。

 が、鉤野は一方で得体の知れない「muteミュート」の方針に、不安を抱き始めていた。

 「K.a.I」自体の運営は、表向き何の問題もない。

 過剰なまでの「妖怪保護」の彼らの方針は、逆に妖怪である鉤野が感心する程だ。

 が、全く実態が見えない「muteミュート」の会社体質や国からの金の動きに、鉤野は普通ではないものを感じ始めていた。

 今回の計画も、確かに妖怪達に対し、最大限の配慮が盛り込まれている内容ではある。

 だが…馴染み深く、過ごしやすい環境の中とはいえ、外界から隔離された島で、彼らはどう変化していくのだろうか。

 そして、最終的に人間社会に戻ることが出来るのだろうか。

 そんな懸念を抱く鉤野をよそに、烏帽子は一同に呼び掛ける。


「この“プロジェクト・MAHOROマホロ”は『muteミュート』日本支部が総力を挙げて取り組む大計画です。各顧問の皆様に置かれましては、今後もぜひご賛同の上、ご協力いただきたく思います」


 お互いに牽制するように顔色を伺い始める顧問達の中で、楯壁が立ち上がった。


「いいでしょう。我が楯壁土建は、人妖合一の社会確立の為、今後も協力させていただきますよ」


 そう宣言すると、


「よかろう。五稜グループもこれまで通りの協力を便宜する。何より、妖怪共を孤島に集めるというのが良い」


 不謹慎な発言と共に、五稜がニヤリと笑う。

 それに続き、幾つもの企業が協力を申し出る中、「muteミュート」への疑念がわだかまりとなり、鉤野は名乗り出ることに逡巡していた。


わたくしはどうしたら…)


 そんな中、


「…少し考える時間が欲しいな」


 MEIAメイアの若社長がそう切り出す。

 鉤野がハッとなり、一同が沈黙する中、烏帽子が若社長を見やる。


MEIAメイアは、この計画に何か疑義でもおありですか…?」


「いや、そう言う訳じゃない。でも、いささか性急すぎる気もするし、持ち帰って熟考させてもらいたいんですよ。僕なりにね」


 そう言うと、若社長は少し悪戯っぽく笑った。


「それくらいの時間はもらえるよね、烏帽子さん?」


「…勿論ですわ」


 にこやかに笑いながら、烏帽子は頷いた。


「では、今日のところはこれまでにいたしましょう。ご賛同いただいた皆様には更なる感謝を。そして、未だに答えを頂けていない皆様も、ぜひご検討くださいませ」


 ブラインドが上がり、室内が明るくなると、烏帽子は一礼した。


「良い返答が聞けることを期待させていただきますわ」


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 退室し、悶々としながら廊下を歩んでいた鉤野は、楯壁に呼び止められた。

 何となく一人になりたかったが、相手は別会社とはいえ、大切なビジネスパートナーだ。

 無碍むげにも出来ず、鉤野は楯壁と並んで歩きながら雑談に応じた。


「…顔色が良くありませんね。それに酷くお疲れのようだ」


 共に歩を進めながら、不意に楯壁が労わるように視線を向けてくる。

 顔を見詰められていたと気付き、鉤野は恥じらうように長い髪を撫でつけ、それとなく顔を隠した。


「最近、色々と仕事が立て込んでいまして。きっと、そのせいですわ」


「それは良くない。商売繁盛は結構ですが、身体を壊しては元も子もないですよ」


 生真面目な表情で楯壁が言った。


「人間より丈夫な妖怪でも、休息や息抜きは必要でしょう。どうです?今夜、美味しいものでも食べに行きませんか?行きつけの店で、美味しいイタリアンの店を知っているんです」


「『MISTRALミストラル』」


 鉤野が呟くと、楯壁は目をパチクリさせた。


「驚いたな。何で分かったんです?」


「…何となく、ですわ」


 鉤野がアンニュイな笑みを浮かべる。

 そして、丁寧に頭を下げた。


「折角ですが、今夜はもう予定がありますので…」


「そうですか…それは残念です」


 予定は嘘だった。

 言える訳がない。

 「今まで交際して来た男性と、その店でことごとく破局したから行きたくない」などと。

 オーナー兼シェフの織部おりぶは知己だし、彼の手による芸術的な料理はとても魅力的だが、こんな心身の状態で、ゲンの悪い店に男性と行くのは避けたい。

 鉤野は溜息を吐いた。


「また溜息」


 ハッとなって楯壁を見る鉤野。

 楯壁は苦笑した。


「会議中も何度も吐いてましたね。幸せが逃げてしまいますよ?」


「…見ていらしたんですか?」


「そりゃあ、ずっと隣りに居ましたし」


 鉤野は恨めしげにじろっと楯壁を見上げた。


「女性の顔をこっそり盗み見るなんて…あまり良い趣味とは言えませんわよ?」


「酷いな。僕だって盗み見る女性は選びますよ」


 悪びれる様子も無く、楯壁が笑う。


「鉤野さんなら、一日中…いや、きっと一生見ていても飽きないです」


 さらりと掛けられた一言に、鉤野の胸の奥で何かがトクン、と跳ねる。

 胸の内を悟られまいと、鉤野は素っ気なく顔を逸らした。


「お上手ですのね。その台詞を掛けたのは私で何人目ですの?」


「目下、6人目でしょうか」


 そう言うと、楯壁は抗議の声を上げようとした鉤野の前へ回り込んだ。


「…ですが、妖怪では貴女が初めてです」


 不意に。

 真剣な目で見下ろされ、抗議の言葉を思わず飲み込んでしまう鉤野。

 改めて見ても、楯壁は美男子だった。

 背も高く、モデル並みにスラリとしている。

 細身に見えるが肩幅はしっかりとあり、抱き締められることを妄想する女性はきっと数多いだろう。

 家柄も良く、財力もある。

 そして、何よりも気配りができ、優しい。

 端々で女性慣れしている感じがあり、プレイボーイに見られがちだが、露骨な部分は無く、さり気ない所作が鉤野に好感を抱かせていた。


「…光栄ですわ」


 ふと笑いながら、鉤野は胸の内で誰かに向けて呟いた。


(…まったく。少しは見習って欲しいものですわね)


 そんな鉤野に、今度は楯壁が溜息を吐いた。


「やれやれ…また駄目でしたか」


「?」


「先日の彼と何か一悶着あったんじゃないですか…?」


 不意に話題を変えられた鉤野が、目をしばたたかせる。


「先日の、彼…?」


「ホラ、体験入学で来たイケメンの」


 途端に鉤野の顔が暗くなる。

 頭上にどんよりと雷雲が湧いたような感じだ。

 楯壁の耳には、ゴロゴロ…という雷の音まで聞こえてきそうだった。


「…別に何もありませんわ」


「そうですか?何か言い合いになっていたような…」


「別に!何も!!ありませんわ!!!」


 走る稲妻を背景に「くわっ!」と牙を剥く鉤野。

 楯壁はクスリと笑った。


「成程。何も無かった。そうですか」


「そうですわ!あんなトウヘンボクの甲斐性無し!風にあおられて電線にでも引っ掛かればいいんですわ…!」


 ざわざわと鉤野の髪の毛が逆立ち、その毛先が鉤状に変化し始める。

 “針女”の本性を目の当たりにした楯壁は、両手で「どうどう」と落ち着かせるように鉤野を宥めた。


「ハハ…僕とはだな」


「ええ。ホントに楯壁さんの爪の垢でも煎じて無理矢理にでも一気飲みさせてやりたいくらいですわ!ガロン単位で…!」


「そういう意味ではないんですけどね」


「えっ?」


 思わず聞き返した鉤野に、楯壁は続けた。


「さっきの会議」


 再び話題を変えられ、鉤野は腑に落ちない顔になる。

 構わず楯壁は歩きながら言った。


「意外でした。貴女が答えを躊躇ためらうなんて」


 そして、鉤野を見やる。


「あの計画に何かご不満でも?」


「…いえ、別に」


「そうは見えませんでしたよ?烏帽子さんも同感だったと思います」


 楯壁の言葉に、鉤野は無言になる。

 「muteミュート」への不信感は、誰にも言えるわけがない。

 それを相談できる相手もいなかった。


 いつもなら、鉤野の傍には仲間がいた。


 無邪気な釘宮くぎみや

 陽気な三池みいけ

 毒舌だが心許せる沙牧さまき

 どうでもいいあまり


 そして…


 残る二人の顔を思い出して、鉤野の胸は締め付けられた。

 その気は無かったとはいえ、結果的に裏切る形になってしまった年若い公務員の青年。

 それでも彼は、仲間として鉤野の身を案じてくれている。

 これまで彼が何度も見せてくれた、妖怪に対する分け隔てない素直なあの優しさに、今の状況ではたまらなくすがりたくなる。


 そして、もう一人。


 共に居ながら、喧嘩が絶えず、それでもお互いに嘘偽りない言葉かんじょうをぶつけ合ってきた男。

 それは、何人もの男性と交際して来た鉤野にとって、全くの異分子だった。

 だが、いつでも剥き出しの気持ちを見せてきたこの男には、鉤野自身も剥き出しの自分を見せることが出来た。

 それは鉤野にとっては今までに無い経験だった。

 だが、あの日。

 男のその背中が自分に振り返ることは無かった。


 言えない。

 今更、あの二人にどう顔向けしろというのか。


「少し思うところがありまして」


 沈黙の後、鉤野ははにかんで続けた。


「環境によるストレスが妖怪に多いなら、今回の計画による急激な環境の変化で、人間社会に馴染みつつあった皆にどういった影響が出るのかが心配でして…」


「ああ、成程!」


 ポン、と手を打つ楯壁。


「流石は鉤野さん。僕にはそこまでは配慮できませんでした」


 うんうんと頷きながら、楯壁が屈託なく笑う。


「それじゃあ、今度二人で烏帽子さんに進言してみましょうか。計画の進捗しんちょくを焦り過ぎないように、ってね」


「…ええ」


「では、今度僕の家にいらしてください。シャトー・オー・ブリオンから取り寄せたとっておきのワインがあるんです。一緒に乾杯しながら、説得方法を練りましょう」


「え、ええ…?」


 めげない楯壁の明るい笑みに気圧され、思わず頷いてしまう鉤野。

 見惚れる程のハンサムフェイスが、子供のようにあどけない笑みを浮かべる。


「やった!約束ですよ?」


 無邪気に喜ぶ楯壁に、鉤野は思わず微笑を浮かべる。

 一方で、少し困惑気味に尋ねた。


「…あの、楯壁さん。お誘いいただけるのはとても嬉しいのですが、何故そこまで私を気に掛けてくださるんですの?」


「決まっているじゃないですか」


 楯壁はニッコリと微笑んだ。


「一度でいいから、心の底から笑う貴女を見てみたいからです」

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