【三十二丁目】「それは貴方が男で、私が女だからでしょうね」

 どこかの薄暗い路地を走っていた。

 もうどれだけ走っていただろう。時間の感覚が全くない。

 息は切れ、足もガクガクする。

 立ち止まりたい。

 立ち止まってしまおうか。

 もう、止まってもいいだろう。


シャラン…


 背後から、金属かねの音が響く。

 瞬間、全身を悪寒が走った。


 何という感情か。


 原初より人の魂に押された烙印。

 かつて、恐れて止まなかった闇への畏怖。

 生命が、その存続の危機に瀕した時に発する警鐘。


 そうだ「恐怖」だ。


シャラン…


 金属かねの音は追い掛けてくる。

 千切れそうな自分の息遣いが、やけに耳について離れない。

 足は動いている。

 動いている筈だ。

 なのに何故、音は離れないのか。


シャラン…


 足がもつれる。

 何かにつまづいたのか、倒れてしまう。

 慌てて立ち上がろうとして、足をつかまれた。

 振り返る先に闇。

 そのまま、身体が引きずられていく。


(嫌…)


 助けを呼ぼうにも、声が出ない。

 前に逃げようと、必死に手足を踏ん張るが、足を掴んだ何かはそれを許さない


(嫌…いや…いやあ…)


 涙が溢れた。

 心臓が鷲掴みにされたような恐怖が、せきを切って全身に毒のように駆け廻っていく。

 身体がまた引きずられた。


 闇が。

 薄く笑ったように見えた。


「い、いやあああああああああああああ…!!」


 自分の大きな叫び声で、覚醒する。

 最初、見開いた目に映ったのは、いつもの見慣れた自室の天井だった。

 早鐘のように暴走する心音が落ち着くのを待って、ゆっくり上体を起こす。


「…夢、か」


 いつもの自室のカーテンから、うっすらと朝日が差し込んでいる。

 寝汗でベッタリとなった身体が、最悪な目覚めを演出してくれた。

 それもこれも、昨夜目にした「アレ」が原因だろう。

 そう。

 私…十乃とおの 美恋みれんは、昨夜兄を尾行し、夜の街に居た。

 そこでちょっとしたトラブルに巻き込まれ、その後…


「…もしかして、アレって特別住民ようかいなのかしら」


 暗い闇を思い出す。

 引きずられていった若者の泣き叫ぶ姿も。

 そして、私に「逃げろ」と言って、踏み止まった少女。

 結局、私は恐怖に駆られて逃げ出し、家に帰るや否や自室にこもって震えていた。

 服もそのままだったから、いつの間にか寝入ってしまったのようだ。

 …あれから、あのマタギの様な格好をした少女は、どうなったのだろう。

 無事に逃げるか、相手を退けることができたのだろうか。

 あんな…あんな圧倒的な恐怖をまき散らすモノから、身を守ることができたのだろうか。


「やだ、酷い顔」


 着替えてから一階に下り、洗面所で顔を洗ってから鏡を覗き込むと、明らかに憔悴した自分の顔が映る。

 まあ、あんな体験をした上に、夢見も最悪だったので、仕方がない。


「おはよう、美恋」


 不意に背後から声を掛けられる。

 この穏やかな声は…兄のめぐるだ!


 背筋、90度。

 髪の毛、良し。

 鼻毛、良し。

 服装、概おおむね良し。

 顔、「ツン」モードへ移行シフト

 迎撃準備完了オールグリーン…!


 ここまで0.05秒。

 宇宙刑事にだって負けないスピードで、一部の隙もない完全体になった私は、フワリと髪をなびかせて、兄へと向き直った。


「おはようございます」


 いつものポーカーフェイスを崩さず、素っ気ない声で挨拶をする。

 兄も寝起きのようで、パジャマ代わりのトレーナー姿だった。

 寝癖もそのままで、眠そうに欠伸をしている。

 子どもみたいで可愛いが、昨日の女性との逢い引きを目にしているので、こちらの心中は穏やかではない。


「…何?」


 じっと見詰められているのに気付いた兄が、不思議そうに聞いてくる。


「別に」


 フイッと顔を背ける私。

 今朝の寝起きの悪さも手伝い、口調がいつも以上に冷たくなった。


「昨日は随分遅かったんですね。楽しい残業だった?」


 つい、辛辣しんらつにそう言ってしまう。

 ちなみにこれはカマ掛けだ。

 私は帰宅後、程なくして寝入ってしまったので、兄の帰宅時間は分からない。

 すると、兄は深刻な表情になった。


「いや…実は職場でちょっとトラブルがあってね」


「トラブル…?」


「うん。うちの先輩が一人、怪我をしてしまって…まあ、大したことはなかったんだけど」


 役場の仕事で怪我人が出るというのは、どんな状況なのか。

 兄は難しい顔のまま、


「美恋、もしかしたら今日も遅くなるかも知れない。だから…」


「はいはい。先にご飯食べて、休んでます」


 溜息混じりでそう答える。

 昨夜の女性の事とか、色々と問いただしたいところだが、兄の表情は真剣そのものだ。

 嘘をつくのが下手な人だから、本当にトラブルがあったのだろう。


「悪い」


 そう言って、私の頭をクシャッと撫でる兄。

 子ども扱いされてるみたいで引っ掛かるが、これはこれで心地良いので、甘受することにする。


「…ああ、そうだ」


 兄は思い出したように、付け加えた。


「くれぐれも戸締りは忘れずにね」


「うん」


「それと…」


 見たこともない思い詰めた表情になる兄。


「夜の間は、絶対に外出をしないこと。いいね」


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「お待たせしました」


 夜。

 人気の少ない喫茶店の一画で、ティーカップに口をつけていた黒塚くろづか鬼女きじょ)は、やって来た人物を認め、立ちあがって一礼した。


「お忙しい中、呼びつけてしまい大変申し訳ありませんでした」


「いえ、お構いなく。忙しいのは事実ですが、こういう時間は作れるくらいには暇ですから」


 注文をとりにやって来た店員にコーヒーを注文しつつ、降神おりがみ警察署の権田原ごんだわら警部補が、そう笑う。


「特に貴女の様な美人のお誘いとあっては、断る理由がない」


「恐縮です」


 世辞に何の反応も示さない黒塚に、権田原の笑みがやや苦笑に変わる。


「…早速ですが、お電話した件についてお伺いしたいのです」


「連続失踪…ですか」


 権田原は頭を掻きながら、笑う。


「…ご存じだとは思いますが、自分は交通課の人間ですよ?ましてや、刑事事件にもなっていない情報なんて、とてもとても…」


「“マムシ”のゴン


 射るように見詰め、黒塚がそう告げると、権田原の表情が一瞬固くなった。


「執念深く捜査を行い、毒を注ぎ込むように下手人げしゅにんをじわじわと追い詰める…そういう由来からついた異名だそうですね。では、随分とご活躍なさったと伺いました」


 注文したコーヒーが届く。

 権田原は一口含んでから、ほぅと息を漏らした。


「…参ったな。どこでそれを?」


「たまたま知人に関係者がいまして」


 黒塚は、涼しげな表情でティーカップを口に運んだ。


「他に『刑事向きだが、正義感が強すぎるのがたまに傷。上手く世渡りしてれば、今頃はもっと上に行けた男』と、丁寧な批評もいただきました」


「はは。手厳しいですな…ま、若い頃の話です」


 薄く笑う権田原。

 だが、目が笑っていない。

 黒塚はそれを真っ向から受け止め、切り出した。


「そんな方が、今回のようにお膝元で起こっている怪事件をご存じない筈がありませんでしょう?」


 無言になる権田原。

 しばし、二人の間に沈黙が降りる。


「…仮にそうだとして」


 権田原は手元のコーヒーに目を落とし、続けた。


「自分に何をお望みで?」


「知り得る全てを教えて頂きたいのです」


 権田原の目線が上がった。

 黒塚の表情は真摯しんしなものだった。

 その真意を探るように、権田原の目線が鋭くなる。


「…自分は警察の人間です。仮に何か情報を握っていたとしても、組織に身を置く以上、分を弁わきまえた言動は守らねばなりません」


「先日、私の部下が連続失踪の下手人と思われるモノと遭遇しました」


 突然の告白に、権田原の目が僅かに見開かれる。


「成り行き上、交戦した後、部下は怪我を負いました。下手人は七人組。首謀者は『SPTENTRIONセプテントリオン』と名乗ったそうです」


「『SPTENTRIONセプテントリオン』…?」


「ラテン語で『北斗七星』という意味です。恐らく、人数にかけているのでしょう」


 再び落ちる沈黙。

 喫茶店のBGMのみが場を支配する。

 しばらく黙った後、権田原は尋ねた。


「…貴女の部下ということは、妖怪ですか?」


 無言で首肯する黒塚。


「妖怪に怪我を負わせたとなると、犯人ホシも…」


「部下の話では“SHICHININ-MISAKI”とも名乗ったそうです」


「“七人ミサキ”?」


「四国や中国地方に伝わる死霊です。場所によっては“七人同行”や“七人童子”という存在もあるようですが」


 伝承にある“七人ミサキ”は主に事故や災害、海で死んだ人間の死霊たちのことを指す。

 その名の通り常に七人組で現れ、これに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまうともされる、極めて凶悪な死霊だ。

 そして、一人をり殺すと“七人ミサキ”の一人が成仏し、替わってり殺された者が新たに“七人ミサキ”に加わることとなる。

 結果“七人ミサキ”の人数は七人から増減することはなく、永劫に彷徨さまよい続け、死を振りまく呪いとして稼働し続けることになるのである。


「死霊ということは…妖怪ではない、と?」


妖怪わたし達からすれば、異質な存在ですね。人間あなた達にしてみれば、脅威という点では同じかも知れませんが」


 変化へんげ付喪神つくもがみ、或いはふるい神や魔物など高次の存在である「妖怪」と、人間の怨念や霊魂が成す「怨霊」「死霊」は、厳密にいえば出自が異なるため、ひとくくりにするのは難しい。

 だが、妖怪が姿を見せた現代では、そうした類が時々現れることも少なくはない。

 中には、人間社会に融け込んでいる事例もある。

 黒塚は、昨夜、摩矢まや野鉄砲のでっぽう)が交戦した様子や相手の特徴を権田原に話した。

 “七人ミサキ”が軍帽・軍服のような服装を身に付けていたくだりでは、権田原も何とも言えない表情をしていた。


「…それが本当なら、警察より坊さんの出番ですな。我々の手に負える相手ではない」


「どうでしょうね。かの死霊達は、古くから在る強力な呪いに括られています。江戸時代以前の高僧ならともかく、霊力が衰えた現代の僧侶では太刀打ちできないでしょう」


 黒塚の指摘に、権田原は間を置いて尋ねた。


「…つまり、その連中を捕まえるのは、人間には無理だと…?」


「厳しいと思います」


「では…妖怪あなた達なら?」


 探るように、権田原が低い声で再度尋ねた。

 黒塚は微笑を浮かべた。


「今回、部下が痛手を負ったのは、多対一だからです。条件が対等なら、或いは」


「………」


「要は“スネークバイト”の時と同じですよ、権田原さん」


 思案顔の権田原に、黒塚は笑みにつやを乗せる。


「我々としては、妖怪でなくともそれに連なる怪異が、犯罪に関わることを望みませんし、放ってはおけません」


 二人の視線がぶつかる。

 やがて、権田原は一つ溜め息を吐いた。


「失礼ながら、貴女は本当は狐狸こりの類ではありませんか?貴女と話をしていると、どうもいつの間にかたぶらかされている気分になる」


「それは貴方が男で、私が女だからでしょうね」


 鮮血をひいたような口紅ルージュが、笑みの形をとったままそう囁く。

 成程。

 確かに若い頃、上司には「女は魔物」と教えられた。

 ましてや、同じ女性でも本物の妖怪なら、男を手玉にとるその手管てくだは人間より上なのかもしれない。


「…私も少し前に得た情報です」


 思わず生唾を飲み込みそうになるのを辛うじて堪え、権田原が語り出す。


「立場が立場なので、あまり派手に動けなかったのですが、確かに連続失踪は発生しており、警察も現状を把握しています」


「何故、動かないのですか?」


「分かりません…ただ、この件に関しては一部の者しか知らず、かん口令も敷かれているようです。その上で『干渉せず』というのが上層部うえの判断のようです」


「しかし、家族などが騒がないのは不自然では?」


 すると、権田原は少し意外そうな顔になった。


「ご存じなかったのですか?失踪した連中のうち何人かは、五体満足で帰ってきているんですよ」


「…初耳です」


 平静を装う黒塚。

 だが、心中は穏やかではない。

 失踪した連中が戻ってきているなら、それは家族も捜索願などは出さないだろう。

 それなら何故“七人ミサキ”は人をさらっていたのか?

 伝承通りならば、り殺してメンバーに加えていくのが筋だが、権田原の話が真実なら、ただ攫い、開放していることになる。


「では、これも知らないんですね」


 権田原は続けた。


「戻って来た連中は、揃って人が変わったようになっている…」


「…どういうことです?」


「言葉の通りです。もっとも、これは裏付けが取れていないので、あくまで不確定情報です」


 誘拐と解放を繰り返す“七人ミサキ”

 人が変わったようになった被害者。

 警察が見せる不介入の態度。


 そのどれもが不可解に満ちている。


「もう一つ」


 権田原は声を潜めた。


「ヨハネス・ゲオルグ・ポラースシュテルンという人物に心当たりは?」


 唐突に出た名前に、黒塚は眉根を寄せる。


「外国人ですね。それも初めて耳にする名前です」


「色々と情報を洗ってみたところ、どうも今回の一件にはその人物が断片的に絡んでいるようなのです」


「どういった人物ですか…?」


「高名な科学者だそうです。第二次世界大戦中、日本に亡命して来たとか」


 権田原の言葉に、黒塚はますます怪訝そうな顔になった。


「ちょっと待ってください。もしや…」


「ええ。既に故人です」


 幾分冷えたコーヒーで喉を湿してから、権田原は続けた。


「私も最初は思わず笑ってしまいましたよ。戦時中の人間が、現代の失踪事件に関わってるなんて、突拍子もない話ですから」


「『最初は』ということは…今は違うと?」


 黒塚の指摘に、権田原が頷いた。


「貴女が話してくれた『SEPTENTRIONセプテントリオン』という連中の格好を聞いて、少し繋がった気がするんです」


「繋がった?」


「ええ」


 権田原は肘をつき、指を組んだ。


「半信半疑でしたが、捜査線に上がった以上、このポラースシュテルンという男についても調べてみました…記録によるとこの人物は当時、ドイツ軍と関わりを持っていたようですな」


「当時のドイツ軍というと…まさか、ナチス・ドイツですか!?」


 黒塚の目が丸くなる。


「そうです。恐らく、敗戦色が濃くなった時に、同盟国だった日本へ渡って来たのでしょう」


 無くはない話だ。

 黒塚は視線で先を促した。


「この男、科学者としては才能が突き抜けていたようで、立場も軍の中でかなりの地位にあったようです。そして何といっても、晩年の彼は科学者としては極めて異端のテーマを追求していた」


「異端のテーマ?」


 権田原が頷いた。


「とあるツテのデータベースに、僅かに残った彼の研究資料がありましてね。古文書みたいなもんでしたが…その中に書かれていたテーマが確か、ドイツ語で『Unsterblichウン・シュテルプリッヒ Soldatソルダート』…」


 そのまま静かに、低い声で告げる。


「…日本語に訳すと『不死の兵士』という意味です」

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