2月11『Declaration of war』

「お兄ちゃ~ん、ゴメンってばぁ」

「おう」

「お願いっ、コッチ向いて? ね? お兄ちゃん」

「おー」

「おーとか言って見てくんないじゃぁーん! もぉー!」


『もぉー』って何だよ。

 俺が悪いのか。


「昨日のチョコのことはホントにごめんなさい! 冗談だったの! 思ったよりお兄ちゃんが大丈夫そうだったから調子に乗っちゃったの!」

「おー、べつにいいぞ」

「それって別によくないやつじゃぁーん」


 分かってんじゃん。

 許してねぇんだよ。

 お前は冗談のつもりだったのかもしらんけど、俺には苦痛以外の何でもなかったんだよ。

 最初のだってを 我慢しながら食べたんだよ。

 なのにから調子に乗っちゃった?

 は?


「甘いお酒だし、チョコと相性の良いやつだったからこれならお兄ちゃんも平気だと思ったの。お兄ちゃんに嫌がらせしようと思ったんじゃないんだよぉ」

「おう、もう大ぞう夫だぉ。気ぃしてぁいって」

「じゃあコッチ向いて? ね? もうしないから。……お兄ちゃぁ~~んお願いぃ~~~~」


 ベッドにうつ伏せになって、顔を壁に向けて妹を視界から消す。

 返事は壁に返しているようなものだ。

 端から見たら俺は壁と会話しているように見えるだろう。


「もうホントにしません。バレンタインにも普通のチョコフォンデュ作る。お願い。バレンタインは一緒にチョコフォンデュ食べよ? もう材料は買っちゃってるし、チョコだから賞味期限は長いけど、せっかくお鍋まで用意したんだからバレンタインにお兄ちゃんと一緒に食べたいんだよぉ。フォンデュ用のファウンテン鍋2つも買ったんだよ? 使わないと勿体ないでしょ? それに、バレンタインは会社に有給もらったの。お兄ちゃんとバレンタインを二人で過ごす為に。そんなの別に要らないって思うかもだけど、バレンタインとチョコなんてホントは関係ないとか思うかもだけど、女の子には大事な日だったりするの。お兄ちゃんは別に興味ないって言うかもしんないけど、ゆかは楽しみに計画して準備もしてるんだよ? いや、これもゆかの我が儘でしかないのは分かってるけど、でも、せっかく色々考えて準備もしたから、愉しいバレンタインにしたいって思っても変じゃないでしょ? バレンタインデーっていうのはただのキッカケで、お兄ちゃんとイベントっぽいこと、ゆかはしたいんだよぉ。ねぇ、だからコッチ向いてよぉ~~。お兄ちゃんてばぁ~~~~ねぇ~~~~」

「…………」

「お兄ちゃぁん……」


 いや、俺も妹にここまで言わせて許さないってことはねぇんだけど、怒りとは別に、俺が本当に不快だったってことはちゃんと解ってもらいたいって思ってんだよ。

『自分がされて嫌なことは誰かにするんじゃない』ってことだ。 


「怒ってぁねぇぉ」

 俺は妹を見ないまま言う。

「……お兄ちゃん、怒ってないの? じゃあ」

「ぅ快だったんだぉ」

「……うん。ごめんなさい」

「酒は本とぉににがてぁんだぉ」

「ごめんなさい」

「きのうぉ吐きそぉぁのがまんしてたんだぉ」

「……ごめんなさい」

 首を上げて振り返る。

「ゆぅしてやぅ」

「……うん」

「チョコもいっしょぃ食うぉ」

「お兄ちゃん……ありが……と」

「#ぁくぁぉ__泣くなよ__#」

「ぅん……」


 ずずっ、と妹が鼻をすする。

 妹の目からは涙がぽろぽろと零れ落ちている。

 はぁ、と俺は溜め息を吐いて、うつ伏せのまま右手を伸ばし妹の手を握る。

 ベッドの脇に膝を付いて座り、肘だけをベッドに付いて祈るような姿勢で俺を覗いていた妹の手を上から包むように握って、1回、2回、軽く握って手を離し妹の頭に手を伸ばす。

 数往復、妹の頭を撫でて、俺はもう一度溜め息を吐く。


「はぁ、もぉ怒ってねぇかぁ。ぁくぁって」

「……うぃ……」


 そう言ってやっても妹の涙は止まらない。

 顔を伏せて泣く妹から、ぽたぽたと涙は床に零れ落ちて、雫はフローリングに当り小さく音を立てる。


「ごべんなざい……」

「おう」

「お兄ぢゃんと愉じいバレンダインじだぐて」

「ぁかったって」

「うぃ」

「ぁみだ、拭いてやぅかぁ顔上げぉ」

「やだ……ぜっだい変な顔なっでるがら……」

「だいたいいつも変ぁ顔してぅぉ」

「ひどいぃ……うぅぅ……」


 ずっ、ずずっ、ずっ、と妹は鼻を数回すする。

 泣き止もうとしているのが何となく分かる。

 それでも止まらないのだろう、ぽた、ぽた、と音が止まない。


「……うぅ」


 妹は一度泣き出すとなかなか泣き止まないのを俺は知っている。

 親父とお袋が死んだ時もそうだったから。

 可愛がられていた妹はそれはもう泣いた。

 朝も昼も夜も夜中も明け方も関係なく泣いた。

 その時俺はずっと側に居たから知っている。

 俺と同じベッドで、俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくっていたのだから。

 寝ていても、着ているものがびしょびしょになって起こされる。

 着替えて背中をさすってやりながら頭を抱いてやって眠り、また服が濡れて起きる。

 何度も何度もそれを繰り返したから、悲しい時にちょっとやそっとじゃ泣き止まないのを俺は知っている。


 妹の頭から手を離すと、ビクッと妹の身体が震えた。


「お兄ちゃっ」


 ぽん。ぽん。

 俺は、俺の隣を軽く叩く。


「……えへ……お兄ちゃん、すき……」


 妹がもそりとベッドに登り、俺の隣に寝そべる。

 うつ伏せのままの俺を両腕で抱き、俺の右肩辺りに顔を押し当て、腕に強く力を込めた。

 少しだけ苦しい。

 日常生活をこなせるくらい上半身は鍛えているが、健常者に力いっぱい抱き締められると、自分の身体が弱くなっていることを自覚する。

 右肩に押し当てられた妹の頭を横目で見つめる。

 薄い茶色の髪がふわふわととても柔らかそうで、何となく顔を埋めたくなる。

 俺も妹のことは言えないな、と小さく溜め息を吐いて、首に力を入れて頭を上げ、肩に押し当てられて微動だにしない妹の頭に俺の右耳辺りをぐりぐりと擦り付けるように押し当てる。


「……ふっ、ふふっ」


 くぐもった笑い声が聞こえた。

 構わず俺は頭を擦り付ける。

 ぐりぐり、ぐりぐり。


「ふふふっ、お兄ちゃん、ぐりぐり、くすぐったい」


 くぐもった声が聞こえる。

 頭を離す。


「止めちゃやだ。ぐりぐりして」


 ぐりぐり、ぐりぐり。


「ふふ、くすぐったい。ゆかそれ好き」


 はぁ。

 可愛い妹に違いないのだが、たまに暴走してやり過ぎる。

 俺は舵を取ってやれる体力も、妹の愛情を受け止めてやれる器も持っていない。

 たまにポーズをとって叱ってやるくらいしか出来ない。

 いつか、暴走した妹が一線を飛び越えてしまわないかを恐れている。

 愛情故に、まだ心が幼い故に、甘えることと愛を履き違えてしまわないかを恐れている。

 俺が何も教えてやれない故に。

 今、妹が俺に向けている愛が、妹を幸せにしないものだと説いてやることが出来ない。

 しかし受け入れることも出来ない俺は、愛される喜びと、踏み越えてはいけないその先にある過ちの分水嶺に立っている。

 踏み越えてはいけない境界線に、既に足を掛けている。

 過ちを犯さないことが、俺に出来るだろうか。

 妹を不幸にしないと、俺は言い切れるだろうか。

 本当の幸せと、過ちという不幸を、俺の物差しで計った幸福で妹を幸せにしてやれるだろうか。

 何もない、何も出来ない俺は妹に道を示してやれるだろうか。

 妹はその道を信じて歩んでくれるだろうか。


「お兄ちゃん……好きだよ」


 ほんの少しだけ俺の肩から頭を離し、少しだけ鮮明になった声が聞こえた。


「お兄ちゃん、好きだよ」


 妹は繰り返した。


「愛してるの。お兄ちゃん」


 これは何度目の告白だっただろうか。

 それとも、初めての宣戦布告プロポーズだったのだろうか。

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