王珣3 弟、王珉の才覚
諸仏典における根本について語る、
とされる論の講義を行った。
その講義が半ばを過ぎたころ、
王珉が立ち上がり、言う。
「完璧にわかった」
そう言って有志の僧を連れ出し、
別室で講義を始める。
いっぽうで僧伽提婆の講義を
聞き終えた、王珣。
隣に座っていた、
「先生、私は未だ僧伽提婆様が
講義くださった内容を
まるで噛み砕けておりませんのに、
弟のやつは、わかった、
と言っております。
やつは果たして、
どの程度の理解なのでしょう?」
法岡道人は答える。
「アウトラインは問題ないでしょう。
ただ、詳細に踏み込むと
どうなのでしょうね」
ところで王珣、
こんなツッコミを食らっている。
「王珣、君の提示する議論は
そう悪くはないと思うのだよ。
だがな、それでは到底
王珉にはかなうまいよ」
提婆初至,為東亭第講阿毗曇。始發講,坐裁半,僧彌便云:「都已曉。」即於坐分數四有意道人更就餘屋自講。提婆講竟,東亭問法岡道人曰:「弟子都未解,阿彌那得已解?所得云何?」曰:「大略全是,故當小未精覈耳。」
提婆の初に至るに、東亭が為に阿毗曇を第講す。始め講の發せるに、坐の半ばを裁ちて、僧彌は便ち云えらく:「都べて已に曉らかなり」と。即ち坐にて數四なる意を有す道人を分け更に餘屋に就き自ら講ず。提婆が講の竟うるに、東亭は法岡道人に問うて曰く:「弟子は都べて未だ解さず、阿彌は那んぞ已に解したるを得んか? 得たる所とは何をか云わんか?」と。曰く:「大略は全て是なれど、故より當に小しきに未だ精覈ならざるのみ」と。
(文學64)
王大語東亭:「卿乃復論成不惡,那得與僧彌戲!」
王大は東亭に語るらく:「卿は乃ち復た論を成せるに惡しからざれど、那んぞ僧彌と戲れたるを得んか!」と。
(規箴22)
世の講義とかでも、大体概論→詳細、の順で話が進められて、概論段階では「あーはァ、フゥン? うん、そう言うもんだよねー?」的に聞けるのだが、詳細に踏み込まれた段階でだいたい????の嵐になる。ここでの僧伽提婆の講義も似たような展開がなされていたのだろう。で、詳細にどんどん踏み込まれるにしたがって王珉は「いやいや、そこまで踏み込むのはさすがにやりすぎでしょうよ、もっとアウトラインを広く知らしめましょうよ」的に席を立った、みたいな感じなのでしょうね。
深く、精緻に踏み込むことはとても重要なことであるとも思うし、一方でアウトラインをある程度踏み込むところまでで止めて、それよりも広めることに意を砕く。これもまた大切なことなのだと思う。と言うよりこのデイリー世説新語のやっていることがまさしく王珉のスタンスなので、一概にかれの行動にツッコミなど入れられない。
別のところで、ここで王珣と法岡道人が懸念しているような「古来より伝わる文章を必要以上にわかりやすく翻訳することには害が大きいのではないだろうか」って声も聞いたことがある。そこには一定以上の説得力も感じている。そりゃそうだわ。「わかった」って言っちゃうのはわかってない人の行動の典型だもの。
けど、世の中には「まず動く」ことも求められる。どっちがいい、悪いという話ではなく、どちらかにいつまでも留まり続けようとするのがヤバい。そういう風には思う。適宜の使い分けができるようにならねばである。
王忱が語るごとく、この兄弟の才覚については「王珉>王珣」と言う扱いだったようである。そうすると法岡道人の言葉は、「王珣どの、変に弟御とご自身を比べ過ぎず、注意深く足元を見て、しっかり歩まれなさいよ」と言うアドバイスのようにも見えてくる。
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