第73話 看板娘の残してくれたもの



 二年後。六月。


 とし子さんが死んだ。


 梅雨真っ只中の肌寒い夜。享年十七歳という、驚異的に長い一生を終えた。


 四年前に腫瘍しゅようが見つかり、その後少しずつだががん細胞はとし子さんの体を蝕んでいた。しかし、死因は癌ではないだろう。犬の十七歳といえば高齢も高齢、超高齢だ。いつ亡くなってもおかしくない歳。とし子さんは藤崎の献身的な看護、介護によってここまで長生きを続けていたのだ。


 とし子さんは藤崎の家で、しかも藤崎の腕の中で息を引き取るという、最高の状態で亡くなったのだそうだ。しかし、そんな長生きをし、大往生をして、さらに最高の状態で亡くなったという話を、俺達が素直に喜べる筈もなく……。特に藤崎にとっては初めての愛犬の死。当然のことながら、藤崎はその話をする度に泣き崩れた。俺に報告する深夜の電話で泣き、会って泣き、何度も何度も繰り返し泣いていた……。


 ──


 その日、楓は俺からその連絡を受けると、すぐに藤崎に電話をした。


「藤崎さん? 聞いたよ……」

「楓さん……とし子、さんが……死んじゃ……うぅぅぅぅ」

「うん……聞いた。あのさ、とし子さん……まだそこに居るかもしれないから、今すぐにお別れを言ってあげて」

「え……。ここに……ですか?」

「うん。すぐに居なくなっちゃうから、急いで。それからそれが終わったら……電話頂戴。相談したいことがるから……」


 楓はそう告げるとすぐに電話を切ったそうだ。

 楓は覚えていた。俺が話した、俺が死んだ時の話を……。


 十五分後、藤崎から電話がかかってきた。


「終わった?」

「はい……。お礼と、お別れをきちんと言いました……」

「うん、良かった。……あのね……こんな時に悪いんだけど、さ……。とし子さんのお葬式、うちでやらせてもらえないかな?」

「……レンコンさんで……ですか?」

「うん。とし子さんはさ、ずっとうちの看板娘で……沢山の人に可愛がられてた子なんだ……。だから顔なじみの人も多いの。それで……もし、藤崎さんが良かったらなんだけど。とし子さんを知っている人全員に、お別れを言わせてあげたいの……どうかな?」

「……はい。そうしてあげてください……。お願いします……」


 次の日。


 俺と楓は仕事が終わると車に乗り、藤崎の家に行った。

 今日も雨が、まだ明けそうにない梅雨の長雨が続いていた。


 藤崎の家につくと田辺が居た。俺達は居間に通され、とし子さんの亡骸と対面した。今ではあの頃の面影はなく、やせ細って肋骨の浮き出た身体には、ほぼ筋肉らしきものが付いていない。ずっと寝たきりだったのだ。藤崎は大学で得た知識を活かし、空さんと相談を繰り返し、自宅での看護を続けていた。その甲斐あって、引き取られてすぐに見つかった癌の進行を遅らせ、四年間という長期間の闘病生活を続けていたのだ。


 俺と楓は、とし子さんの亡骸に両手を合わせ、頭を垂れた。

「楽しかったよ、ありがとう……」

 楓は頭を下げ、目を閉じたまま呟いた。


「笑って逝ったのか……とし子さんらしい……」

 俺はとし子さんの顔を見て、思わず口から漏らした。

 とし子さんはいつものように笑って目を閉じていた。

「うん……とし子さんらしいよね……。これさ、間違いなく楽しかったよって……言ってるよね」

 楓の頬に、ひとつぶの涙が伝っていた。

「だな……」

「触っていい?」

 楓は藤崎を見た。

「はい。もちろんです」

「うん……」

 楓はそう言うと、横たわるとし子さんの頭を両手で抱え、そこに自分の頭を寄せた。そのままとし子さんの額に自分の額を合わせて目を瞑った。


「お疲れ様……次の一生も、素敵な人と巡り会えますように……」


 楓はそう言うと、ゆっくりと手を離した。楓がいつもやる、動物を送る言葉だ。

「それ……俺にもやったのか?」

 俺は楓の耳元で言った。

「え……? ……うん」

「そっか……じゃ、入れるか?」

「うん、入れよう」


 俺達は全員でとし子さんの身体を抱え上げると、葬儀屋さんから預かった棺桶にそっとおろした。棺桶の中の赤い布団にとし子さんのグレーの体が美しく映えていた。


 ──


「じゃ……お預かりします」

 俺達は駐車場で傘をさし、とし子さんの入った棺桶を車に積み込み終えると藤崎のお母さんを残して全員車に乗り、窓を開けた。

「宜しくお願いします」

 藤崎のお母さんが頭を下げた。

「あの……。少し長くクラクションを鳴らしてもいいですか?」

「え……?」

「いえあの……お別れのクラクションを……。お別れを、とし子さんに知らせてあげたいんです」

「霊柩車が出発する時にやる、あれです」

 楓のつたない言葉に、俺が重ねて説明をした。

「あ……はい。お願いします」

 お母さんは微笑んだ。

「じゃ、行きます」

「はい……」


 パァァァァァァァァァァァァァァァーーーーーーーン……。

 出棺を告げるクラクションは、雨音を響かせる夜の闇に長く響き渡った。


 楓が頭を下げると、お母さんは深く頭を下げて俺達の車を、とし子さんの骸を乗せた車を見送った。


 ──


 レンコントに到着すると、俺と藤崎と田辺の三人でとし子さんの棺を持ち、中へ運んだ。

 とし子さんの葬儀会場は一階。サロンの隅に作った。と言っても人間のような大きな祭壇があるわけではない。ただ、長いテーブルの上に棺桶が置かれ、その左右に葬儀屋さんから借りたぼんぼりが立てられ、明かりが灯された。動物の施設なので線香は無し。ただ、その代わりに一冊のノートとボールペンが置かれた。


「ノート?」

 楓がノートを置くと、藤崎が不思議そうにそれを見た。

「うん、これがお線香の代わり」

「……どういう意味ですか?」

「藤崎、お前が一番だ」

「一番……?」

「うん。これはね、とし子さんへの思いを綴るノート。最後に一緒に焚き上げるんだよ」

「あ……贈る言葉を書くんですか?」

「うん。一番近い人から書くの」

「わかりました。じゃ……」

 藤崎はノートに思いを書き始めた。


「蒼汰、棺桶から出さない?」

 藤崎がノートに思いを書き始めると、楓は俺を見た。

「出すのか?」

「うん……だって、せっかくの笑顔が見えないよ。ねぇ、藤崎さん?」

「あ、はい。私もそう思っていました」

 藤崎はノートを書きながら言った。

「じゃ、出すか?」

 俺は田辺を見た。

「おう、そうしよう」

「よし」


 俺と田辺がとし子さんの体を持ち上げ、楓は棺桶の中の布団を取り出すと、テーブルの上に置いた。その上にとし子さんの身体を置く。


「あ、良いな!」

「良いね!」

 田辺が言い、藤崎が同意した。

「これ……こう、顔をこっちに向けちゃ、ダメかな?」

 楓は空中で両手を左に回転させた。

「ああ、顔を正面にか?」

「うん。みんなとし子さんの顔に触りたいと思うんだけど……どう思う?」

 楓は藤崎を見た。

「はい、そう思います。やりましょう」

「うん」


 楓と藤崎はとし子さんの下の布団を持ち、回転させてとし子さんの顔を正面に向けた。


「うん! とし子さんはこうでなくちゃ!」

「そうですね!」

 楓と藤崎は笑った。やっと、笑うことが出来ていた。


 誰もがとし子さんの笑顔を見ると笑う。

 この子は間違いなく、「人を笑顔にする天才」だ。

 死してなお、天才だった……。


 ──


 次の日から二日間、とし子さんのお別れ会は開催され、五十人近くの人が集まった。


 これは、レンコントでは日常の出来事。特別なことではない。誰かが亡くなればここに祀られ、時が来ると火葬されて埋葬される。ただ、五十人が集まるのは珍しい。普通はスタッフとボラさんを入れても多くて十五人。関係者だけの密やかな葬儀が行われ、そのままいつの間にか片付いている。そんな感じが当たり前。


 ところがとし子さんのお別れ会には五十人が繰り返しやってきては、ノートに言葉を綴り、とし子さんをなでて帰っていった。本当にそれだけの為に来た人もいれば、自分のペットをサロンや動物病院やしつけ教室に連れてきたついでにお別れをしていく人も居た。それでも五十人は多い。それ程までにとし子さんは可愛がられていたのだ。


 そしてもう一つ、珍しい特徴があった。


『本当に有難う! 次の一生が楽しみだね!』

『悲しいけどありがとう、お疲れ様! そして次の一生のために、おめでとう!』

『また、いつか何処かで会える日を楽しみにしているよ!』


 と、楽しそうなメッセージが残されたのだ。

 これまでのお別れメッセージはどうしても暗い、悲しむメッセージが多かった。死を悼むのだから当然っちゃ当然なんだが、何故かとし子さんへのメッセージは楽しそうな、明るい……どちらかと言えば『楽しそうに努めて書いた』と思える様なもの。そして、とし子さんがみんなをそういう気持ちにさせていたのではないか? と思える様な、そんな明るく、楽しげなメッセージが並んだ。


 まるで転校する生徒を明るく送り出す、寄せ書きのようだった。


 ──


 こうして二日間のお別れ会を終え、火葬されて遺灰がお寺に運ばれると、レンコントのお墓に埋葬された。これは「みんなと一緒がいい」という、藤崎の思いからそうされた。


 一通りの葬儀が終わり、とし子さんの遺灰が墓に埋葬されると墓を閉じ、俺達は手を合わせた。


「あれ、こっちの立派なお墓って……」

 藤崎は隣りにある俺の墓を指差した。楓がそのまま隣の墓に線香を手向けていたのだ。

「あ、これは私の愛猫のお墓」

「楓さんの?」

「うん。結構有名な猫だったんだよ。知らないかな?」

「え、有名?」

「うん。小鉄って知らない? もう、二十年以上前だけどね……」

「あ……知ってます! あの、テレビとか、映画に出てた猫ですよね?」

「うん、あの子のお墓。ね?」

 楓はそう言うと俺を見た。

「あ……ああ……」

 俺にどう返答しろと!?

「え、小鉄って……楓さんの猫だったんですか!?」

「うん。……実はね……今のサロンも、あの建物も、全て小鉄のおかげなんだ……」

「知らなかった……そうなんですか……」

 そりゃ知らなくて当然だ。俺達が生まれる前の話だし、楓が飼い主なのは秘密だ。

「うん。今、私がこうしていられるのは、全てこの小鉄のおかげ。小鉄が居なかったら出来なかった事なんだよ……だから、本当に感謝してるの」

「それって、お金……って意味ですか?」

「お金もそう、知識もそう、経験も。全てにおいて、小鉄無しでは成し遂げられなかったことばっかり……。今の私は小鉄が作ってくれた……育ててくれたと言ってもいい……それ程大切で、大好きだった猫。……でもね、何も言わずに、私が寝ている間に死んじゃったんだ……」

「そう……なんですか……。それは、悲しかったでしょうね……」

「うん……悲しかった……。でもね……」

 楓は俺を見た。

「楓……」


「それ以上に悔しかったの! どうして何も言わずに死ぬかな!? え!? ねぇ、どうしてそういう死に方をするのかな!?」

 楓は両手で俺の頬をつまむと思いっきり引っ張った。


「痛い! 痛ででででででで! かえへ! やへろ! いはい、まひへいはい(痛い、マジで痛い)!」

 俺はされるがままになっていた。

 いや、それは説明しただろ!


「楓……さん?」

 藤崎は突然俺の頬をつねり、変な言いがかりで詰め寄る楓と、頬をつままれて喋ることすらままならず、抵抗すらしない俺を、不思議そうに見ていた。


 その後、藤崎への説明に困ったのは言うまでもない。

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