初夜編 サヨナラになる前の遊戯02


 オリヴァ達がやってきたのは村の集会場。かつては、御堂として利用されていた場所である。木で作られた長椅子も上質な赤絨毯も、現在は強い陽の光を浴び、色が抜け変色している。あまり活用されていなかったのだろう。長椅子の上には大きなホコリが落ちている。指先を這わせれば、ベルの指先に白いおしろが付着していた。

 ニクラスはそのような汚れも気にせず、腰を下ろす。オリヴァ達も互いの顔を見やると、渋々ホコリを払い、長椅子に腰を下ろす。


「いいぞ」


 ニクラスはその場にいる全員に声をかけ、人払いをさせた。兵士たちは短い返答の後、足音を揃え、集会場を後にする。ドアが切なそうに軋む音を立て、ガタンと閉じた。その音を聞くと、二クラス場立ち上がり、オリヴァ達の隣に座り直した。


「いや、本当に遅れてしまって申し訳ない。もう少し早く到着する予定だったのだがね」


 彼は背もたれにもたれかかると、大きく息を吐いた。その後、背筋の力で軽く跳ねると、背筋をただし、オリヴァを見つめる。


「本当はきちんと挨拶をしなければならなかったのだが、村人の前故、改めて挨拶をさせて欲しい」


 そういうニクラスは先程までの顔つきとは異なり、無邪気で年相応の好青年の笑顔を浮かべていた。


「ニクラス・シュリーマン。ハシム様の筆頭侍従を任せられている。君とは、近い立場だ。俺の事は、ニックと呼んでもらえると嬉しいな」


ニクラスは手袋を脱ぎ、オリヴァに手を差し出した。筆頭侍従に駆け上がったこの男の手は、マメだらけで男らしい分厚い手をしている。

 オリヴァは渋々といった具合で二クラスの手を握り返した。


「オリヴァ・グッツェーです。いつ頃、ハシム様の筆頭侍従に?」


二クラスは笑顔のまま手に力を込めた。小柄な体躯に似合わず、その力は強かった。


「君たちが発った後だよ。内々には決定していたのだが、任命は遅れてしまってね」

「えぇ。私も現在驚いているところです」


 ニクラスはしばしの間口を閉じる。そして、彼の表情を値踏みするかのように、口を開いた。


「無名の貴族が筆頭侍従になることは不愉快ですか?」


 二クラスの声のトーンが変わった。オリヴァから手を離すと、上品に手を膝の上に置いた。いかにも、貴族らしい振る舞いである。


「自分で言うのもなんだが、グッツェー家のような名家ではない。しかし、貴君の家よりシ我が家には歴史がある。歴史だけではない。ビメジン領域内での内通者の捕獲と自白。その他問題を抱えるイカガワシイ地域においての国家反逆行為の防止など。我が家の伝統と私の功績。ハシム様は、私の功績を認めてくださり、王直々に、筆頭侍従としての職責を与えて下さったのだ」

「それはそれは。私の記憶が正しければ、シュリーマン家は武官の家系。武官の家系から文官たる筆頭侍従への転籍は、大変な苦労を伴ったことでしょう」

「あぁ。君の言う通りさ。まぁ、でもそこは考えようさ。に出来て、私に出来ない道理はない。私は、君と違い、実績があるのだから、苦労はしても、やれない事はないさ」

「期待しておきますよ。私のような立場ですら聞こえなかった武功を武器に、武官がどうやって狒々ヒヒ共とどうやって付き合っていくか。観物です」

「意外だ。グッツェー家のご子息であり、であらせられた人が、耳が遠いとは……」

「いいや。君の勲功とやらが、実は、声にならぬ程小さいからでは? ハシム様のみ聞こえたのであって、他の者に聞こえたのかどうかは定かではあるまい」


 オリヴァの答えに、ニクラスは大声で笑った。腹を抱え、子供のように足をバタバタと地団駄させ笑った。目尻に浮かべた水滴を拭い取る。ヒーヒーと呼吸を整え、高い天井を見つめる。呼吸を整えては笑い、呼吸を整えては笑いをいくつも重ね、ようやく落ち着いた頃、彼はオリヴァの言葉に返答した。


「君も、なら、キルク様のお立場も理解しているだろう。共王という歪な形。一つの王冠を二つに割り、一つと主張している。綻びができるだけであっという間に壊れてしまう王冠さ。国を守る二人の王を守りたいのであれば、私と君は昵懇の仲になっておくべきではないかね」


ニクラスは再びオリヴァの手を握った。


「オリヴァ・グッツェー。信頼で握ったこの手で、君を殴らせないでおくれよ」


ニクラスはそう言うと、オリヴァの手を離し、その場から離れた。オリヴァは、二クラスが握った手をじっと見つめる。「国のあり方」「王のあり方」キルクの存命を主として考え、目を伏せていた問題が曝け出された。筆頭侍従に戻るということは、伏せていた問題に真正面から向き合う勇気が必要なのだ。


「ねぇ、おりんりん」


 ずっと口を閉ざしていたベルがようやく口を開く。彼女の声に、オリヴァは顔を動かした。彼女の顔は真剣そのもの。オリヴァ達の会話は、彼女が口を出す問題ではない。しかし、思うところがあったのだろう。彼女は一瞬、口を開いたが、ためらい、また口を閉ざす。

「ベル」

「何?」

「すまない。一人にしてくれないか?」


 そう言うと、オリヴァは立ち上がり、集会場の一番奥にある壇上に向かい歩き始めた。


「大丈夫。必ず馬車に戻る。少し、考え事をしたい」


 オリヴァは振り返り、少しはにかんだ表情を浮かべて言った。ベルは目を大きく見開く。一瞬、オリヴァの隣に人が立っているのが見えた。誰? と思い、目をこする。手が汚れている事も忘れ、彼の隣に人物を確かめるようもう一度目を開く。しかし、彼女に目に映るのは、一人の男だけだった。


「頼む。ベル」


 ベルは立ち上がり、扉へ向かう。しかし、彼女は引っかかった。平穏ならざるオリヴァを一人残すことがたまらなく不安なのだ。


「私、扉の前で待っているから!」


 ベルはオリヴァを見ずに言った。カツカツと足音を響かせ、扉を開く。眩しい光の中へベルは消えて行った。活気ある太陽の光が差し込む部屋。光と影の境界をはっきりと示す御堂の中。彼は、頬に手を当てる。冷たい頬が、人並みの体温を帯びていた。






「ねぇ、おりんりん」


 ベルが口を開く。オリヴァは「なんだ」と返し、彼女の言葉を待つ。


「おりんりん、もう一度ほっぺたに触らせてよ

「嫌だ。人の目玉に爪を突き刺す女に誰が触らすものか」

「だから、してないってそんな事」

「いいや、した。すごく痛かったんだぞ。場所が場所だったら、本気でお前を怒鳴りつけるところだった」

「何言ってるのよ。今、怒鳴ってるじゃん」


 ベルはオリヴァに指差し、呆れたように言い返した。

 オリヴァは口を引きつらせ、何も言い返せない。それどころか、ベルはオリヴァのスネをガツンと重たい靴のつま先で蹴り上げた。痛みで飛び跳ねたい衝動。オリヴァは再び目に涙を浮かべる。


「で。触らせてくれるの? どうなの?」


 オリヴァは唇を噛み締める。目を細め、渋々といった具合で頬をベルに差し出す。頭の中では、またベルに爪を立てられるのでないか。という思いが先走り、ぎゅっと目を瞑る。しかし、あのときの痛みは再び訪れなかった。馬車が大きく左右に揺れても、彼女の手は頬のみに収まっていた。


「目を開けなよ」


 ベルの声を合図に、オリヴァは瞑っていた瞼を開く。呆れ買ったベルの声は、不安げな表情に変化していった。


「変な事を聞くけど、おりんりんって元は色白?」

「いや、違う」


 オリヴァはベルが触れた頬に自分の指を這わせた。触れている実感はない。そこには、頬の肉というにはいささか歪すぎる。黄色みがかった肌色にべったりとへばりついた肉。それがオリヴァの頬肉だ。ぶよぶよと不気味な感触を帯びた肉。


「この肉は、魔獣の肉だ」


 オリヴァの空いた頬に這い出た肉。生まれた肉の瞬間を彼女は見ていた。頭の中では理解している。彼の頬に触れた事で、その意味も知っている。だからこそ、彼女は彼に聞きたい。何故、彼はそう断言できるのか。


「魔獣といっても、あれは人間で、女だ。聖職者崩れ。俺の目の前でも、聖剣書の言葉を言ってやがった。しかも、専門的な話だな」

「ちょ、ちょっと待って。人が魔獣になるなんて話、聞いたことがない。魔獣は、獣の聖剣より出でし生き物。後天的な魔獣なんて――」

「あぁ、私も未だに信じられない。だが、四つん這いで木の上を走り、素手で人の体を引きちぎる。それどころか、こうやって人の肉まで喰いやがり、生き血まで啜る。こうなりゃ外見がどうであれ、化け物。人間じゃない。人を殺す気満々の化け物とくれば、もう魔獣といっていいんじゃないか?」


 自嘲気味に笑い、オリヴァは再び口を開く。


「あいつの心臓を食らった事で、私は、魔獣の記憶の一部を見た。その記憶を見て、私はこいつは魔獣である事は理解した。その代償でいくつかの記憶まで持っていかれた」

「記憶……だけ?」

「まさか。心臓には血液が残っている。血液は、魂の記憶。血液に魂が宿っているから、私はほんの一部。あいつの魂を取り込んでしまった。あいつが私の魂に食らいつき、私はあいつを拒絶する。あいつが食らいつき、侵食した魂の領域がこの頬の肉って事さ」


 そういうと、オリヴァは自分の頬を軽く叩いた。


「あの魔獣は生きている」


 オリヴァは断言した。


「これからは、わからない。あいつの侵食が進めば、頬の肉は広がっていく。万が一、あいつが、私の魂をすべて食い尽くしてしまえば」


 オリヴァは、そこで口をつぐむ。オリヴァの頭の中では侵食された己の姿がはっきりと描かれていた。色白の肌と燃えるような緋色の瞳。聖剣書の言葉を口ずさみ、笑いながら人を素手で引きちぎる姿。真っ先に魔獣が引きちぎりたい人間は、オリヴァの近くにいる人間術である。


「ベル」

「何?」

「私がもしもそうなってしまった場合は――」


 ベルは息を飲む。けれども、そういう事なのだ。魔獣の心臓を食らうことは、魔獣の力を得、魔獣の魂を引き受けること。人ならざる力で、頬の傷を修復しても、それは、人から魔獣へ変貌する序章にしか過ぎない。ベルは、彼が心臓を食らった意味を表面しか受け入れなかった。仕方あるまい。当の本人ですらそこまでの理解しか及ばないからだ。一方で、食らった者としての覚悟は受け取った。


「分かった。キルク様に全てを託す」

「ありがたい」

「そして、あの方が無理な場合は、私が引き受ける」


 それだけいうと、ベルは立ち上がり、彼の隣に座った。そして、彼の上半身を引き寄せ、膝の上に頭を置く。土と血と汗の匂いが混じる衣服。これは、トリトン村の匂いだ。


「あんたがこうなったのは、私の責任。あんたが、魔獣に堕ちた場合は、私が責任をもって生き長らえたことを忘れられるよう、必ず殺す」


 ベルの力強い言葉を聞くと、オリヴァの体に睡魔が襲ってきた。重くなる瞼。力の入らない体。駄目だ。と自分に言い聞かせる。だが、体はもうすでに限界を超えていた。


「おやすみなさい。おりんりん。良い夢を」

「硬い膝枕で見る夢は悪夢に決まってる」


 

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