初夜編 眠り蕾01

トリトン村へやっていて7日目。本日が潜入最終日である。ベルは最後の朝を他人の家で迎えた。

その家は、トリトン村の中では立派な家の作りをしている。堅牢な石壁。連なる波を連想させる瓦。嵌め込みの窓ガラスには、防犯の意味を込め魚の鱗に似た簾がかかっていた。

 家の主は、卓袱台の前で正座し、ズズズと音を立てて白湯をすする。口を離すと、白湯はふらふらとした白い煙を立たせた。口を尖らせ、白湯の表面に息を吹きかけると、煙は身体を倒し、一瞬姿を消す。だが、すぐに姿を現し、またゆらゆらと不安定にゆらめくのだ。

 彼は息を吹きかけようと口を尖らす。けれども、口元を解すと、湯呑みの淵を見つめた。


「お前さん、意外と朝早いんだな」


 独り言を漏らすような声に、彼の背後に立つベルは大きなアクビをしながら答えた。


「寝てないんですよぉぉぉ」


 彼女は、目を半分伏せ、ボリボリと頭をかいた。


「緊張して眠れんかったんか?」

「いやいや。私が貴方に緊張する理由がどこにあるんですかぁ」


 今度は猫がするかのように大きな口を開け、顔を洗うようにゴシゴシと顔全体をこする。口元をモゴモゴと動かし面倒くさそうに彼の隣に座った。


「お疲れさんやったなぁ」

「いえいえ」


 口を尖らせ、台の上に身体を乗せる。伏せた姿勢のままベルは口を開く。


「私だけじゃとてもとてもぉ。あの屋敷から逃げ出せませんよ」

「いいや。嬢ちゃん。あんたが動かんくて誰が動くんや。俺やって動けんわ」

「それもこれも、親方のお陰です」


 彼女の一言に彼は嬉しそうにはにかみ、照れを隠すように彼女の背中を叩く。バンバンと背中から音がするだけで、腹部の内側から鈍痛が走る。彼女の服装は昨晩と異なっている。少し大きめの白シャツと茶色パンツ。シャツの下の腹部には、包帯が巻かれている。近くに寄るだけで塗布されている薬の匂いがプンと漂う。こうやって背中を叩くことで、薬草独特のにおいがドッドドッドとあふれ出る。むせ返るような匂いに、ベルは「げぇ」と声を漏らすのだ。


「よーやったわ。」


トリトン村の親方は大きな体を震わせて軽い笑みをこぼした。顔に刻まれたケロイド状の刃物傷。彼の風体は、存在するだけで、彼の勇ましい経歴を物語る。身体だけではない。いくつもの戦場を掻い潜った経験から、人物を図る嗅覚も優れている。ベルの事を「嬢ちゃん」と言っているが、もちろん、ただの小娘とは思っていない。彼は彼女から漂う「少年兵」の匂いをしっかりと感じているのだ。


「親方」

「なんだ?」


 ベルは伏せていた顔を上げる。ハァと息を漏らすと、遠い壁のシミ その一点を見つめ、口だけをカクカクと動かした。


「この村の水は透き通っていて美しいですね」


 脈略の無い切り口である。ベルはカチンと歯と歯をぶつける音を立てた。


「そうさな。魚がすむには窮屈すぎる」


 親方は答え、続けざまにベルに問いかけた。


「ウェルラン山には」

「赤い花が咲く」


 妙な会話だった。室内を沈黙が支配する。ふぅーと細長い溜息をベルが零し、親方は首を縦に降った。二人の顔から緊張の色が和らいでいく。そして、噛み締めるように言葉を漏れた。


「よーやったな。トラン」


 彼の一言に、ベルの表情は鼻息と共に綻ぶ。腹の底から長く深い溜息を吐くと、彼女は、親方の顔を見た。彼もまた、同じ表情を浮かべている。彼は大きな手で彼女の頭を激しく撫でた。

 トリトン村の親方。彼は、ベルのアテンドである。 

 コンラッド邸からの脱出劇。

 領主の目を盗み、脱走するためには、服の用意 警備の自警団の配置把握。逃走経路の把握。最低でもこれらをクリアしなければ、領主宅から逃げ出すことは出来ない。そして、これらの事を行うのは一人では困難を極める。何らかの伝手が必要だ。その伝手が、親方である。親方とベルは今回初めてバディを組んだ。初対面の為、符牒を用いて互いを確認した。例えば、先程の会話。あれも符牒の一つである。幾度も符牒を重ね、トランと親方。という確証を得て、二人は計画実行に辿りついたのだ。



 まず、親方は、ベルがコンラッド邸に足を踏み入れた事を確認すると、空いている客間に毎夜ごと女性用の衣服と火の剣のカケラを用意した。そして、彼女が分かるように、ドアノブに傷つけた。

 脱走開始の目印は、衣服がなくなったかどうかである。衣服が無くなれば、脱走開始。ベルの合図を受け取り次第、親方は当番警備兵の配置を変更する。決して1階フロアに行かぬよう誘導するのであった。しかしながら、親方は逃走開始時から、大きな懸念を有していた。エイドの存在である。彼は彼女がコンラッドへ足を踏み入れて以降、足しげく邸宅に通っていた。神経質に執務室へ赴く後姿を何度も見かけている。理由を尋ねようにも、彼は言葉をはぐらかすのみで真意を伝えない。彼の行動に不信感を抱いた親方は、ベルにエイドの行動を伝えようとしたが、その機会はなかった。彼女はコンラッドの支配下にあるのだ。彼が領主寝室まで足を運び、ベルに会うなぞ、愚の骨頂に他ならない。故に、彼は、彼女に願うしかなかった。エイドと遭遇しても必ず掻い潜り所定の場所へ来るようにと。


「そいでもなぁ」

「はぃ?」

「お前さん、本当に無茶やりよる」


 彼女は一瞬、何のことだが理解できなかった。だが、彼の発言の意図を理解すると、心底詰まらなさそうに「あぁ」と口を開いた。


「別に無茶という程無茶ではありません」


 ベルは王都を発つ前、「アテンドはトリトン村自警団の団長」「村への侵入は団長を通じて行う」。方法は「病人の搬送」という事を伝えられていた。つまり、彼女は何が何でも、親方に会う前、体調不良にならなければならない。上手いこと発熱し倒れこんだが、後味は最悪だった。好きでも無い男に抱かれ歩く行程。衣服を着用しても、雨で服は肌に付着している。薄い布越しに感じる体温。生々しい温かさとほんのりと香る汗臭さ。オリヴァから醸しだす異性の香りは汚臭ほかならない。彼女はオリヴァに担がれた時の居心地の悪さを思い出し「はぁ」と深い溜息を漏らす。


「体調を崩す事も体調コントロールの一つですからね」


 頬杖を付き、彼女はもう一度深い溜息を漏らした。


「せやけど、トラン。無茶しすぎばい」

「はいはい。気をつけます」

「その無茶があったきん、その腹の傷があるんやろ」


 親方の一言でまた腹の傷が疼いた。


(この傷は、仕方の無い傷)


 ベルは軽く奥歯を噛み締め、腹を撫でる。仕方が無いと言い聞かせるしかない。ベルの脳裏にはエイドの顔がよぎった。彼は理性的な医者ではない。何か得体の知れないものに取り付かれ、狂喜しているように見えた。彼は何を望んでいたのだろう。「私が領主だ」その一言から、彼は、コンラッドを蹴落とし、領主になる事を願ったのか。それとも、オリヴァへの執着が度を越したせいなのか。彼女は判断しかねた。だが、彼女の前に見せた彼という存在は、この村で醸成された負の遺産の成果物である。そう彼女には見えるのであった。


「怪我はしましたけど。得るものはありました」

「得るものっち?」

「親方。物語病 って知っていますか?」


 ベルは天井を見上げ、少し小意地の悪そうな表情を浮かべ、彼の顔を見つめるのであった。

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