初夜編 深い眠りから覚めたなら33
ロバと医者は、夜の村を駆け、誰もいない表門から外に出る。とても奇妙な組み合わせだ。
エイドが言うには、リーゼロッテを村の中で送り出すことは叶わないらしい。彼女を信奉する者はいるが、それ以上に彼女を軽蔑している者が多い。この点を無視し、彼女を送り出せば、村は親リーゼロッテと反リーゼロッテ、その他に分類される。不用意に対立構造を構築すれば、村の人間関係は今まで以上におぞましさを増す。コンラッドな不用意な村の対立を防ぐため、外でリーゼロッテを送ることにした。
と、エイドは走りながら説明したがロバの耳には入ってこない。運動不足のこの男は、軽い悲鳴と荒々しく血の臭いがする息を吐き出し、ろれつの回らない舌で話すのだ。ロバの耳に聞こえるのは、「あっ。待ってく、くひぃ」「は、はやひ……」「こ、こけりゅ」という言葉ぐらいだ。
走り続けて、ようやくコトウの広場へ出る。
流石にロバの息も上がっていた。隣の男は、顔を真っ青にし、膝から下をガクガク震わせてえづき、透明な液体をダラダラと流すのであった。
広場の中心には、夜空を遮るものはない。夜空の光は白く澄んでおり、人が横たわっている姿もはっきりと見えた。
アヌイはエイドから離れ、横たわっている人物の顔を確認するべく傍に寄る。
その人間は、見たことのない白いワンピースを着ていた。血管が透き通るほど白い肌をしている女性。黒く長い髪は、放射線状に広がっている。紙と同じ色をした短めの睫毛を風が撫ぜた。とても満ちたり、穏やかな表情である。まるで、胸に手を当て、寝ているようだった。
「ンエエ」
ロバは主人の周りをグルグルと歩く。時折、彼女を起こすよう、彼女の頬に舌を這わせるも、舌先からは、温かさを拒絶する冷たさと強張った皮膚の硬さしか戻ってこない。
主人は死んだ。
そう思わせる首の傷。致命傷となった一周に渡る首の深い傷は糸で縫合されている。一方、細かな引っかき傷のような跡はパックリと口を開け、こちらを覗き込む。
傷口とアヌイの視線が重なると、傷口は訴えかけてきた。
どんなに鳴いても
どんなに舐めても
どんなに噛んでも
主人が、優しく手を伸ばし「アヌイ」と声をかけてくれることはもう二度とないと。
「ンエエエエ」
アヌイは反抗するよう、もう一度鳴いた。その意味を知るのは、ロバだけであろう。
「お別れは十分ですか?」
ロバの頭上から声がする。エイドは呼吸を整え、頬を赤くしていた。アヌイを後ろへ追いやると、腰に下げている剣の柄を握り締める。シャララと金属がこすれる音が響く。刀身が月夜に照らされて顕となる。空気を裂くよう、剣をブンと斜めに薙ぐ。黒い線を描くと、アヌイと同じ目の高さまで下ろされた。アヌイは、緋色の目を瞬かせる。エイドが手にした剣は、“剣”ではなかった。亡骸を弔うことすら不適切な形状である。
まず、剣の刀身は黒く、柄から半ほどまでしかない。そこから先はポキリと折れ、小さなサビの塊が密集し、球体の中に小さな目のような斑点が見えている。
この剣で主人をどう送り出すのか。そのような事を考えていると、エイドが剣を持つ手を振りあげる。ロバは振りかざした剣の動きと同じ速さで頭を動かした。
ズンッ
と圧し掛かり、埋もれる音が響く。
アヌイは、信じられない表情でエイドを睨んだ。
振りかざした剣は、リーゼロッテではなく、アヌイの背中を穿っていた。突如として身体の向きを変えたエイド。アヌイは、彼の動きを予見することすら出来なかった。ズブズブと体内に埋もれていこうとする剣。見えない重石に潰されるよう、ロバは、腰からゆっくりと地面に沈んでいく。
それでも、必死に立とうと前脚でもがく。ガッガッと土を掘る両脚をエイドは横から容赦なく蹴り上げた。
強烈な横からの力に、前脚は斜めに倒れ、アヌイの身体は完全に地面に伏した。
ロバは叫び声を上げぬよう歯を食いしばる。アヌイは後ろを振り返ることは出来ない。ジュルリ ジュルリと自分の内側が吸い上げられる違和感。痛みを感じない恐ろしさ。見てしまえば、心はあの剣と同じようポッキリと折れてしまう。恐怖に負けぬよう、弱弱しい自分を必死に鼓舞するのだ。
「おぉ。えらいですねー。動物だから喚くと思ったのですよ」
エイドは柄に力を込め、刀身をギュルリと音を立てて捻るようにしてまわす。アヌイの顔はプルプルと横に震えた。
「あなたの主人は立派な人でした。聖剣書の話を伝える。それは非常にすばらしいことです。ですが、できれば、可能であれば私達の村ではなく、別の村であればよかった」
エイドは刀身を上下に抜き差しする。こみ上げる感情を推し留めるよう、ロバは頭を地面に付け、ヒーヒーと荒い呼吸を漏らす。
「光なき場所に光を。光なき者に光を。その言葉を信じてこの村に来た。と笑顔でコンラッド様に言った時、あの方の表情を聖女さんは覚えてますかね?」
アヌイは荒い呼吸を漏らすのみで何も返さない。エイドはもう一度、柄を反対方向に回した。
「まるで、この村を無知な村であると言いたいのか。この村を未開の地と言いたいのか。額面どおり、聖剣書の言葉を呟いて、受け取った人間の事を何も考えない。どうして我々はあんな小娘に無知蒙昧と馬鹿にされなければならないのか。愚弄されなければならないのか。あぁ。思い返しても非常に不愉快だ」
エイドはわざとらしくコンラッドの口ぶりを真似する。
「そう思われても、仕方ないですよね」
全く似ていないモノマネに気を良くしたのか、彼の口調は早くなる。
「私はね。常々思っていました。出会った時から憎んでいました。あの聖女の存在をね。自分が純粋無垢に大いなる意思の言葉を伝えている。自分の信じるがまま説く姿を愛し、いかに自分が大いなる意思に愛されているのか誇張する。都合が悪くなれば、大いなる意思や聖剣書の言葉を盾にして目を背けて逃げ出す。そのような彼女の姿が出すね。私は非常に気に食わない」
アヌイは鼻でせせら笑った。エイドはロバの反応に口角を緩め、もう一度柄を捻じる。
「お望みらしいのでもう一つ言ってあげましょう。私はあの聖女がね、『平等』という言葉を口にするのも気に食わない。聖剣書の教えは平等らしいですがね。えぇ。平等? 良い言葉ですね。実に結構。素敵。聖剣書のお題目にはピッタリです。ですが、私達の村では口にして欲しくない」
エイドは、柄から手を離し、夜空に向かって吼えた。ボロボロと涙を流し、リーゼロッテへの怨嗟を絶叫と共に語る。ロバとエイド以外、聞いているのは横たわる当事者のみ。
「平等なんかを蔓延らせてしまえば、どのような運命が待っているかお分かりですか? 平等が蔓延ってしまえば、誰が村を治めます。誰が国を統治しますか。平等が蔓延してしまえば、統治することは出来ない。なぜかって? 当地に必要なものは、権力。権力という優位性なのです。権力なくして統治は不能。不平等ゆえ、統治が出来、人々は平穏な生活を送れる。権力者と受益者。この圧倒的な格差なくして、何が為せようか。あぁ。あの女こそ無知だ。何も知らない。このような事すら知らない。あったとしても認めることはしないでしょう。自分の信じるもの以外何も受け入れない。そんな女だ。ただ、愛らしい無垢な姿を撒き散らせばよいとしか考えていない。愛らしい無垢な醜態を撒き散らし人を不愉快にさせる。そんな女に。私達は振り回され続けてきたんだ」
エイドはアヌイの背から剣を抜き、もう一度横っ腹を蹴り上げた。アヌイの背が地面に付き、ゴロンと無防備な胸部と腹部が顕になる。
「人に恋するまでは許してやった。だが、村を捨てる覚悟を決めていた。あの女の為に、村はどれだけの労力を費やした。あの女のために、どれだけ配慮をしたとおもってるんだ。それを考えずに。何も考えずに……」
エイドはブツブツと小声で文句を漏らす。もはや、何を言っているのか全く聞こえない。顔を伏せ、ひとりごちていたが、ガバッと顔を上げると、今度は顔を輝かせ、陽気に口を開く。
「そのクセにコンラッド様の女にもならない。だから、仕方ないですよねっ。村のクソ虫でも、役に立ったことはいっぱいありまぁーす。し」
エイドは笑っている。アヌイの目をチラリと見ると、予備動作なく、心臓目掛けて剣を突き刺した。
「えぇ。役に立ったことはいっぱいありまぁーす」
アヌイは痛みからのがれるように身体をよじる。そうする度、サビの塊がプチプチと音を立てながら、弾け、黒い液体を吐き出してロバの毛や身体を汚していく。
刺す部位が異なれば、違和感も異なるのだろう。先ほどまでは、背中から吸い取られる違和感であった。今度は、侵入する違和感だった。
一体、何が侵入しているのか、皆目見当がつかない。視界が濁り、夜空は黄色に。月は緑。星は黒く輝く。目の前にはエイドがいるはず。だが、「エイド」が誰かおぼろげになってきた。ロバが目を瞑ると、砂嵐がジャリジャリと走る。砂嵐の隙間から、マルトと2つの顔を持つヒヒの姿があった。
(ナニ? コレ? キモチワルイ? あぁ。そんなものを。みせないで……)
アヌイは目を閉じ、動きを止める。エイドは額から零れる珠のような汗を拭い、アヌイの胸に刺さっている黒い剣を抜いた。
「そういえば、あなたの名前を聞いていませんでしたね」
エイドは溜息を漏らし、白い布で黒い剣を拭う。鞘に剣を収めると、反対の腰に差している柄を握り締めた。
「一応伝えておきますよ。今から聖女の旅立ちです。アナタ、眠るには少し早くないですか」
青年の声の後、金属がこすれあう音がした。ロバの耳がかすかだが、ピクリと動く。
空気を焦がす音が聞こえる。鼻にツンと突き刺す異臭。とても焦げ臭く放っておけば真っ黒になってしまうだろう。
プスプスと音がする。パチパチと音が弾ける。
ボスン ボスンと 膨れていた空気が弾け飛ぶ音がした。
眠りの狭間でアヌイは音を聞いた。音の意味が分からない。異臭の意味も知らない。だが、ロバは最後に呟く。それは、ロバに残された最後の理性。
「リー……ゼロッ……テ」
ロバは意識を閉じた。
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