初夜編 深い眠りから覚めたなら21

「リーゼロッテ様。俺の話を聞いてください」


それは、リーゼロッテがトリトン村に来て、雨季と乾季の巡りを1度体験した時の出来事だった。




御堂の祈念式の終了後、コンラッドの下には、彼女の講話を聴きたい。という村人の意見が多く寄せられた。つまり、彼女の祈念式は成功したのだ。

 日に日に大きくなる村人の声。聞かぬ存ぜぬのスタンスであったコンラッドも、村人の声に押され、彼女に週1回から月1回、御堂で講話会を飛来して欲しいと依頼することとなった。聖女は、領主の依頼を断る理由はどこにもない。彼女は、「喜んで」と、講話会開催を受諾した。

 そうして、トリトン村では、週1回のペースで、講話会が開かれるようになった。御堂が開かれ、講話が始まると、多くの村人が参加する。

 開催した最初の回は、領主が、村人の願いを受け入れたことが俄かに信じられず、最初は参加者は数える程度であった。けれども、回を重ねるごとに、彼女の講話会は本当に開催されている。という話が広まり、今では数多くの村人が参加している。

 そして、彼女の講話が終わると、村人は彼女の前に列を作る。村人は、彼女が語る聖剣書の話しで疑問に思った事を投げかけたり、大いなる意思の存在について、彼女に問いただし、またある村人は日常生活での悩み、夫婦間のトラブルなどなど。個人な悩みを曝け出す。彼女は、可能な限り、彼らの疑問や悩みに丁寧に対応した。

 丁寧に対応するに従い、必然的に時間がかかる。長い待ち時間に、村人は誰も文句を言わない。もちろん、最後尾に立つジェフもだ。

 ジェフは、他の村人とは違い、聖剣書の疑問を投げかけたり、個人的な悩みを打ちあけたりはしない。ただ、「素敵な講話をありがとうございます」とだけ告げる。それだけの為に、彼は長い時間待つのであった。


「リーゼロッテ様」


 だが、今日は彼の様子はいつもと違っていた。

 乾期は深まり、日が落ちるのが早くなった。傾く夕日が、御堂内を濃い橙色に染め上げる。伸びる椅子の影。二人の細長い影は椅子まで伸びる。まるで、二人で仲良く座っているようだった。


「ど、どうされましたか? ジェフさん」


 リーゼロッテの声は上ずっていた。シンと静まり返っている御堂内。燭台のジリジリと空気を焦がす音がよく聞こえる。

 リーゼロッテの頭の中では啓示のように、が予感されていた。

 燭台の火の揺らぎに習い、ジェフの顔の陰影がユラユラと境界をなくしている。光のような強い眼差しがリーゼロッテを捉えると、影のように彼女の心が不安定になる。

 いまだかつて、経験した事がない出来事が待ち構えている。そう思うだけで、彼女の脚は、自然と一歩後ろへ引いてしまう。


「リーゼロッテ様。私と一緒に村を出ませんか?」


 彼の言葉が、御堂に響き渡る。ドクンと彼女の心臓は強く鼓動し、口元まで這い上がってくる。飛び出しそうになる心臓を押さえるよう、口元を両手で押さえた。

 彼女は、彼の申し出に慌てて首を横に振る。たったそれだけの動作で、心臓は痛いぐらいに暴れ回る。そして、痛みの余に、彼女の目尻から温かいものがこみ上げてきた。


「この村は閉鎖的だ」


 突然、彼は吐き捨てるように言った。


「外から来た。それだけで貴女を馬鹿にする人がいます」


 リーゼロッテは目を瞑り、首を横に振る。彼女は、自らトリトン村へ行きたい。と申し出た時。その瞬間から、村人に馬鹿にされることを覚悟した。自分の人生が潰えるまで、人々に馬鹿にされる事は分かっていた。馬鹿にされる事で、誰かが、憤慨するだろう。だが、彼女は憤慨に寄り添う事はしない。寄り添ってしまえば、一番最初の時に立てた【トリトン村で使命を果たす】という誓いが澱み濁ってしまう恐れがあったからだ。彼女は、ジェフの言葉を首を否定する。違う。違う。と言葉を紡ぎたくも、声帯は、感情とは違う言葉を作ろうとする。


「外から、来た。何故それだけで馬鹿にされないといけないのですか」


 ジェフは重ねて言った。


「貴女は、この村の聖剣書の言葉を伝えようと、毎日講話会の練習をしている。村人に講話会に来てもらえるよう、村人に受け入れられるよう、ココの人たちが嫌う汚物の清掃作業に積極的に参加してくれている。誰も出来ない教育や、誰も知らない遊びを子ども達に伝えている。対価を求めず、この村に尽くして、捧げて、働いて。村の一員になろうとしている。貴女を、俺は素敵だと思うし、尊敬している。だから、そんな貴女を馬鹿にされるのは許せない。だから、この村は、見捨てるしかない。その為なら、俺は……俺は――」


 リーゼロッテの両目から、ボロボロと珠のような涙が溢れ出す。怖いと思っていた啓示は、冷たいものではなく、心を温かくするものであった。

 彼女の村での行いは、聖女として当たり前の事である。聖職者が赴任地で「行うべき」とされている奉仕活動の一環である。彼のためではなく、自分がしたい。自分が行いたい。と思ったことを、したまでだった。誰かに褒められたいとも、認められたいとも、微塵も思っていない。「あそこにリーゼロッテがいて、手伝いをしてくれた」そう誰かが評価すれば、彼女は良いと考えていた。そう思っていたのだが、彼女の行動を評価していたのはジェフだった。

 彼女の心がジンと傷むように熱くなる。


(嬉しい)


 褒められて嬉しいと思ったことはない。行動を褒められても、「義務」であるから、喜びすら感じられなかった。

 彼女は、彼の言葉を求めた。ジェフを見つめ、彼の視線をもっと心臓に刺すように。言葉で心を解すように、ねだった。

 今までに感じたことのない、痛みを彼女は希う。

 

。俺は、貴女の事が好きだ」


 彼の声は響く。それは、聖女の胸にだ。彼女の心臓が、再び高鳴る。聖女の頭は、一瞬何も考えられなかった。


「リーゼロッテ」


 男は、女の名前を呼び、口元を覆っていた手を乱暴に払う。彼女の口元は曝け出された。だらしなく、緩んだ口元。白い顔は、赤く染め上がり、足は興奮でガクガクと震えだす。


「うぅっ……」

「リーゼロッテ」


 不意にジェフが顔を近づける。ムワッと立ち込める男の香りに、彼女は思わず、「ひゃぁぁぁぁん」と情けない声をあげ、顔を背けてしまった。ジェフの顔は、リーゼロッテの肩の上に載っている。顔と顔が離れていても、脳みそを撫でるような色気に、心は激しく揺さぶれらてしまう。


「ダメです。ジェフさん。それ以上は。もう、それ以上言わないで!」


 何かを間違えてしまえば、ガラガラと崩れ落ちてしまいそうな薄氷の上に二人は立っている。薄氷が壊れぬよう、女は震える。


「無理だ。限界だ。もう、何もかもが限界なんだ!」


 薄氷を壊すべく、男は身悶える。声のない感情と感情のぶつかり合いに、薄氷は振動する。荒々しい二つの息の継ぎ目。ボロボロと滴り落ちる涙。息と落ちる涙のせいで、薄氷のヒビは深く刻まれていく。


「好きなんだ。リーゼロッテ」

 

 誰もいない御堂。ジェフと二人だけで、愛の囁きを聞く。

 それは、夢物語だ。聖女は“清純”でなければならない。誰かを好きになり、誰かに好かれる。これは許されても、好きという意思の合致は許されない。だから、彼女は、ジェフの事が好きという感情を夢物語だと思い込み、故意に落ちることすら心に蓋をした。けれども、こう、生々しい感情を当てられてしまえば、どうしようもない。心の蓋は壊れた。夢物語は橙色の現実となる。薄氷は、熱と感情と共に砕け散る。キラキラと輝く氷の破片は、高く跳ね上がると二人の身体を傷つけ、突き刺していく。

 現実は、息苦しく、瞼が重く、頭は痛い。心臓は脈打つだけで痛いのだ。悲鳴を上げたくなるほどにしんどい。

 痛みも苦しみも。すべてから逃げ出してしまいたいのに、逃げ出せない。彼女は気づいてしまった。


 現実痛みは、甘美の味がする。


「リーゼロッテ」

「ジ、……。」


 彼女の声は震えていた。


「わ、私は、な、なんと応えていいか、分かりませんが……」


 リーゼロッテは天井を見上げる。白い喉仏が震えた。


「手を……」

「手を?」


 リーゼロッテは、視線を戻す。ジェフとリーゼロッテ、二人の視線が重なる。相変わらず、彼女の声は、泣き声のままだ。けれども、彼女は、頬をより紅くし、潤ませた瞳で男に強い痛み現実をねだる。


「手を握ってください。私の気持ちが消えないように。私を離さないように、握って……ください」


 リーゼロッテの笑顔に、ジェフは、力強く細い手を握り締める。絡まる指先。引き寄せた女の体を誰にも渡さぬよう、厚い胸板を押し付ける。

 片手だけではあったが、細い身体を独占ひとりじめすることは容易な事。ジェフは、何度も、彼女の名前を呼ぶ。彼女という存在が、彼女の心がどこか遠くへ消えないよう、己の下へ留まるよう、何度も何度も名前を呼んで聞かせる。そして、彼女の名前を呼ぶ度に、上半身に、生暖かい液体が滲んでいった。


「リーゼロッテ」


 もう一度、彼は彼女を読んだ。「はい」と小さく篭った声が返される。

 二人の声は、互いにしか聞こえないほど、小さく、か細くなっていた。頬を重ね、と息をねだるように、彼女は次の言葉を求める。


「村を出よう。リーゼロッテ。俺達の事を知らない土地で、一緒に暮らそう」

「それは……。いい夢ですね。ジェフ」

「夢ではないよ。俺も、君も、大工のジェフでもなく、聖女リーゼロッテでもない生き方をするんだ。」


リーゼロッテはもう一度、熱っぽい吐息を漏らす。


「ならば見せて。ジェフ。私に、そんな未来を……」

「約束する。ここではないどこかで。必ず君を幸せにする。」

 

 もう一度、二人の視線が絡む。鼻頭と鼻頭は重なった。けれども、 唇は重ならない。唇と唇が触れるか触れないかのわずかな距離のためらい。口から溢れる男の熱っぽい吐息に当てられ、彼女は、呟いた。


「この村を出たら続きをしましょ。私に、夢を見せてくださいな」


 彼女は、聖女のプライドを捨てなかった。燭台の光が、二人を照らす。二つの影は、どこかの椅子の上で一つに重なり合っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る