初夜編 深い眠りから覚めたなら04

狭い木々の間を、音が反射するように黒い線が駆け抜けていく。ガサガサ葉が擦れ合う音の隙間から、女の笑い声がこぼれている。

 オリヴァ達は、目を上げて、鬱蒼と茂る木を睨んだ。


「一つ聞いてよろしいですか」

「どげんしたん」


 オリヴァの声は低い。先程まで、怯え気持ちを振り絞っていた青年と違っていた。一本筋の通った芯が彼の声と目からチラチラと見え隠れしている。

 

「魔獣を最後に見た場所ってもしかしてここですか?」

「なんでそげん思うん?」

「いえ。エイド先生の化け物退治の依頼。コトウの話。まるで、過去が現実に追いついてきたような気がしたので」


 馭者は、女の笑い声をかき消すように、大声で笑った。馬は、背後からの突然の大声に体を震わせる。馭者は、よじる馬の体を制すように、手綱を強く引いた。彼は、オリヴァに視線を投げかける。彼の顔は泣きたいぐらいに引きつっていた。


「あぁ。そうばい。俺達自警団が見たのは、1週間ぐらい前。お前さん達とこの場所で出会った後、アレはここに出たんや」


 馭者の言葉に、オリヴァはつま先から頭の天辺まで、丸くプルプルとしたものが、一気に駆け上がる。喉にせり上がる四角い硬質な感情がせり上がった時は、泣き言が出てきそうだった。

 オリヴァはベルを抱えて歩いていたあの日、彼らの後ろを化物がヒタヒタと足音を殺してついてきていた。2度の落雷は、彼らを殺す絶好のチャンスであっただろう。雷鳴が二人の叫び声をかき消し、雨垂れは血液を洗い流す。二人は死の淵を歩いていた。そして今、オリヴァはその死の淵に戻ってきた。

 化物は今度こそオリヴァを殺すだろう。この1週間、鶏豚村の住人は誰一人として死んでいない。おまけに、行商の予定も組まれていない。ウェルラン山、トルダート渓谷の観光客をおそうにも、周辺には多くの警備兵が配置されている。バケモノが食料調達するには、リスクが高い。また、トルダート渓谷の観光客がトリトン村方面に迷い込む可能性はほぼない。知名度の低いコトウの物語の観光なんぞまずもって望めない。つまり、バケモノはオリヴァ達を逃して以降、満足に食事にありつけていない。そのせいか、女の声みたいな鳴き声は明るくも殺気に満ちている。


「バケモノは、女の声みたいな鳴き声をしますね。一体どんな野獣ですか?」

「……。野獣やない。あれは、魔獣や」

「嘘……ですよね」


 オリヴァは目を見開いた。

 野獣。それは山野に生息し、人になれない獣。人に危害を加えるが、駆逐は可能である。

 魔獣。それは人をころすけもの。人を屠るため、獣の剣が生み出した獣。一人での駆逐は困難を極める。だが、生息数は少ない。

 スナイル国にも魔獣は生息しているが、王都には縁のない話だ。国内では、魔獣は獣の剣の産物故、屠殺するべきではないという意見もある。だが、まともに相手にされていない。

(当たり前だ)

 オリヴァはなんと話に思っていた。しかし、魔獣の鳴き声を実際に耳にして、彼は思った。そういう輩の声はやはり、耳を傾けるべきではないと。


「教えて下さい。どのような魔獣ですか?」

「……」


 あれだけ、滔々と語っていた馭者の口が閉じられる。オリヴァは、彼に答えを促そうと視線を送ったが、彼の口は開かない。 

 黒い線は、ぐるぐると円を描いている。視覚で線は追えずとも、嗅覚は、線の輪郭に触れていた。ツンと鼻につく刺激臭。刺激というより、どちらかと言えば痛みに近い。オリヴァの手は、自然と目頭に伸びる。だが、彼の手は目頭を抑えることはない。目を強く瞑り、痛みを散らす。そうすることで、ピリピリとした痛みの粒子が涙と共に薄れていく。彼は、顔を数度横にふると、もう一度目を開けた。


「何故、答えてくれないのですか?」


 馭者は何も言わず、頭上を見上げる。

 馬車の上から見える世界。

 空はとても狭い。

 乾季のせいか、木々の色は抜けてくすんだ緑色だ。木々は、乾季の寒さに耐えるよう、互いの枝と葉を重ねる。また、己の生存確率を高めるように、人の尻付近の高さから鋭い枝を伸ばしていた。


「貴方は、試練が必要だが、私には必要ないと言ってくれましたよね」



 木々がしなる。風が揺れているのか、それとも、黒い線がそうさせているのかわからない。黒い線が動く度、オリヴァの目はまた瞬かせたくなる痛みが走る。


「その一言が、とても嬉しかった」


 オリヴァの一人称が変化する。涼やかな彼の瞳が、鋭く馭者に向けられる。頼りなさそうな青年の顔は、どこか一歩引いた冷ややかな顔つきになっていた。薄い唇から溢れる声は丁寧であるが、どこか距離を感じる。

 彼の非難めいた口調に馭者の顔つきが悲しげに変わる。


「きっと、魔獣の正体を言うな。魔獣の正体を知るのも試練の一つと言われたのですよね」

「……」

「仕方のないことでしょう」


 オリヴァの内心は異なる。魔獣を相手にするには、武力と情報が物を言う。口を買いのように閉ざす馭者は、情報の塊だ。何も言わぬ馭者。非難の視線、口調であ叩いても、彼は口を開くことはない。それならば。とオリヴァは別の選択肢を選んだ。

 オリヴァは、馬車から降りた。数歩歩き、振り返るように馭者を見つめる。振り向くと、彼が馭者に見せる表情は困惑・当惑の表情から変化していた。目を細め、口元を緩ませる。上がった頬。諦めの表情はない。どこか、自分の選択に納得した表情である。馭者の顔面に、電気がビリリと走るような痛みが走る。思わず、顔が引きつった。


「逃げて下さい」


 オリヴァの声は、馭者に届く。彼の顔は、青やら白やら感触に染まる。手綱を持つてが震えていた。彼の心理的同様が届いたのか、馬は、神経質そうに振り返る。


「トランには……。必ず戻ると伝えて下さい」


 オリヴァはそう言うと、草をかき分けあるき出す。時折、目を上げては、黒い線を追いかける。彼は、広場から離れ、茂みの中へ入り込んでいった。

 馭者は、何も言えなかった。彼の視界から、一人の青年の姿が小さくなっていく。馭者は、魔獣がどうやって人間を殺すかを知っている。

 魔獣に殺された者は、皆、舗装された砂利道ではなく、人の背丈ほど伸びた茂みの中で屠られているのだ。魔獣の思し召しか、時折、身元がわかるものがコトウの広場に投げ捨てられている。だが、体の大半は発見されていない。

 馭者の脳裏では、青年が無残に食い殺される姿が映る。そして、彼の残した妻 トランが榛色をした赤子を抱きかかえ、途方にくれる姿がある。

 彼の心がぎゅぅっと濡れた布を絞るように締め付けられる。彼の脳内で、短時間であったが、オリヴァと交わした会話、結婚式の風景が思い出される。彼がオリヴァの事を推測し、彼の身に降りかかる災難を考えれば考える程、彼の心臓が悲鳴をあげる。心臓の鼓動一つが、オリヴァに魔獣について告げないことを責めていく。

(でも仕方ない。村のルールなんだ。村のルールを守らなければならないんやん)

 そう言い聞かせるも、馭者の頭には、痛々しいほど強がったオリヴァの笑顔がある。何も知らない無辜なる存在を、彼は間接的に殺そうとしている。その事実に、彼の心臓が早鐘を打つように、責め立てる。


―その一言がとても嬉しかった―


 もう一度、オリヴァの言葉が思い出される。笑いつつ、恐怖に怯える影が、彼の目には映っていた。

 彼の鐘が一際高い音を立てて地面に落ちた。

 馭者は荷台と馬を繋ぐ、紐と添え木を水袋に刺さっている水の剣で断ち切った。突然、身軽になった己の体に、馬は前のめるように数歩よろめく。

 馭者は、馬の背に乗り移る。長い手綱を短く桐、固く縛ると、手に巻きつける。

 戸惑う馬に、間髪入れずに横腹を蹴る。馬は、不服そうになき、体をひねった。

 馬の目と馭者の目が一点を見据える。馬の腹をもう一度ケルト、馬の脚は前に進む。草を分け入る音と、甲高い蹄の音。


「ロサリオッ」


 背後から聞こえる叫ぶような声。オリヴァは思わず振り返る。顔を青白く変え、今にも泣きそうな声が何度も偽名ロサリオを呼ぶ。


「戻れ。そこは危ない」

「えっ?」


 馭者は、突然、体を倒した。上体を地面と平行に倒す。馬が蹴り上げる小石などが飛ぶ。いくつかの小石は馭者の目尻や額にぶつかる。鋭い痛みに、彼の眉間に皺が夜が、決して、態勢を崩すことはない。


「掴まれっ」


 馭者は片手で手綱を握り、反対の手を伸ばす。

 オリヴァは頭上を見上げる。黒い線は葉に隠れて見えない。彼の視線は、頭上から馭者へ向ける。馬の蹄の音が塊のように近づいてくる。彼の足は足を止め、、馭者へ向いた。

 

(予想通り。いや、悪いな)


 オリヴァの顔は一瞬だけ笑みを浮かべる。その一方、今の状態は危険だと考えた。馭者は、馬を走らせたままオリヴァを捕まえる算段であろう。だが、馬の走るパワーとオリヴァの力。このままのスピードで馭者の手を握れば、オリヴァは引きずられることは確実。馭者の体つきは良いが、片手で青年を持ち上げることができるほどの怪力ではない。このままの状態では、オリヴァも馭者も身体的負荷がかかり、負傷につながる。手負いのまま魔獣を相手にするのは得策ではない。


(すれ違いざまに、馭者に抱きつくか。いや、危険すぎる)


 オリヴァの中で選択肢が一つ消えた。残された選択肢は2つ。

 一つ目は、雨の日、自警団と出会ったように、馬の目の前に立ち、実力行使で馬を止めること。

 2つ目は馭者の手をかいくぐり、馬に乗らない。


 である。

 オリヴァとしては、魔獣相手に一人で戦うには心細い。馭者がいるだけでも心細い。そのためには、1の選択肢を選ぶべきだろう。

 だが、馬が止まらなければ、オリヴァは馬にはねられてしまう。


(2つ目の選択肢しか、無いのか)


 オリヴァはゴクリと唾液を飲み込む。オリヴァは馬の走路の延長線に進むことはない。だが、それでも前を見据える。すぅと息を吸い込み、選択肢を絞った。

 馬とオリヴァの距離が近くなる。馭者の表情を捉えるぐらいの距離だ。


 枝がきぃきぃとしなる。葉がカサカサと震える。枝と木の隙間からみしっと軋む音がした。


「速度を――」


 オリヴァの声は馭者には届かなかった。枝が断つように割れる音がした。葉がむし取られる音がこぼれ落ちる音に変わる。落ちたのは、音だけではない。バケモノの重みにたえられない枝がオリヴァの頭上に降ってくる。

 反射的に、彼は自分の頭を抱え、数歩後ろへよろめく。

 枝と共に落ちたのは、黒い毛むくじゃらの物体。バケモノは地面に墜落しなかった。

 ソレが落ちた先は、馬の鼻頭。正確には、馬の頭頂部に臀部から墜落した。馬の絶叫は、生の刻むような声。甲高い叫び声は、ブツリと不穏に途切れる。

 馬の鬣を握りしめたまま、黒い毛むくじゃらの物体はゴロンと転がった。黒い毛の隙間からランと光る2つの目。

 その視線の先にあったのは、一人の男である。

 

 

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