欺瞞編
巨星のルビイロ
オリヴァ・グッツェーは自分の現実を理解出来ずにいた。彼の計画では、すでに仕事を切り上げて自室ですやすやと眠っているはずだった。
(なのにどうして、俺は盤上遊戯などせねばならんのだ)
平静を装う素振りを見せながら、首を垂れ机の上に置かれている白と黒の格子模様の盤を見つめる。
夜の見廻り、部屋の主に手招きをされホイホイと足を運んだ先、待ち構えていたのは苦難の境地。気づけば、盤上遊戯の相手をしていた。
寒さが厳しくなり始めた乾期。風邪をひかぬよう薄い服を制服の下に着込んでいるが、それでも寒さが服の内側から肌を刺す。
凍てつく寒さは、季節性のものだけではない。目の前に鎮座している老年の男から発せられる威圧感。豪胆な覇気。彼の威厳を増長させる豪奢な寝室。
強大な者を前に、弱者は畏怖し、ビクビクと身体を震わせるしかなかった。
「何をしておる。早く打たぬか」
強者は弱者を慮ることはしない。有無を言わせぬ口調にオリヴァの身体が再び震える。
(そんな事を言ったところで、俺はこの遊戯を今日、今、初めて知ったんだ)
彼は心の中で毒づき盤に穴を開ける如く睨む。自陣に展開されている盤上の六種類十六個の駒の内一つを動かそうと盤に手をかざした。だが、決めきれずに手は駒ではなく自分の腕を掴み上下にさすってしまった。
駒を奪い合い、王が奪われれば負け。ルールは単純。しかし、興味のない遊戯だ。おまけに、この遊戯でオリヴァの負けは確定している。勝てる相手ではない。面白さよりうんざりする思いが勝っていた。
彼にルールを教え、初めての対戦相手は
(あー。どうしてこうも面倒な事ばかり押し付けられるのだ! せっかくの王の寝室。このような機会。このような珍しい場所、こういう時でなければ見れないのに。ゆっくりと見たいのに、どうして俺はこんな戯れに付き合わないと……)
オリヴァは諦めた気持ちで駒を進めた。
彼が差した一手を王は鋭くにらみつける。老年期に入った王は、年を感じさせぬ気迫がある。おそらくは、木の棒が一本背中に入っているかのような姿勢の良さ。決して頬杖などつかず、細い顎に指をやり静かに考え込む姿。彼の所作一つ一つに王らしい威厳を感じ取ることが出来た。
「坊主、いつもの小坊主はどうした。休みか?」
長考のさなか、王は口を開く。
「いつもの小坊主」本来、今宵の見廻りはオリヴァの仕事ではない。
王の居住するエリアには決まった見廻り担当がいた。それが前述の「小坊主」である。若いが性格も家柄は良く、将来も有望視されていた。
「陛下、恐れながら申し上げます。彼はハシム王子に無礼を働きました。加えて彼に謀反の疑いがあり……。王の信頼を裏切る彼が許せぬ。とのことでハシム王子が直々に処刑致しました」
淡々としたオリヴァの口調に王の眉毛が上がる。
「なんと、ハシムが……。ハシムがやったのか?」
「はい。私はそう聞いております」
オリヴァは俯きながら言った。落胆した声色から王がどのような表情をしているのか察することが出来た。彼の落胆ぶりはその顔色が更なる拍車をかける。
土気色の顔。眉間の間に刻まれた三本の深い皺。悲しみのせいか吐き出す息は内臓が腐ったような腐臭である。
若き頃は“戦鬼”の二つ名を戴き戦場を駆け抜けていた人物の顔色がたった一人の死を悼むなど、かつての戦鬼らしくはなかった
「何故、何故あの小坊主が謀反などと……」
王はサイドテーブルに置いている瓶を手に取り、吸い口を直に口に付けて、液体を一気に煽る。
王の震える声は、酒浸りすぎたせいの震えか、それとも愛人の死を悼んでのことか、オリヴァには分からない。感情を押し殺すように酒を煽りる王の姿をオリヴァの眼球は追い、すぐに俯いた。
(何故。理由は簡単ですよ。ハシム王子は貴方の趣味を知りたいだけなのです。その為に若い兵士を殺した)
オリヴァの答えを裏付けるよう、殺された
ハシムがあえてオリヴァを指名した理由は父親の
(自分の父親に愛人がいるかを確かめる為に殺されたあの兵士もつくづく運がない。だが、ハシム王子もハシム王子だ。無実の者に無礼・謀反と言いがかりをつけるなど王子にあるまじき……。いや、あの
イヴハップ王の長男 ハシム王子。色黒の四角い顔。王と同じブロンドの髪は短く刈られている。太い首から丸太のような腕と足。胸板はやせぎすのオリヴァの胸板が二枚合わせても足りないほど分厚い。凶暴な顔つきは父であるイヴハップ王の好戦さを引き継いだ証である。また、性格も同じである
「無念。だが、死んだ者は皆、樹の聖剣の下へ旅立つ。人は皆死ぬ。いづれは会えることだろう」
その言葉はオリヴァではなく亡くなった兵士と自分に言い聞かせているようだった。奥歯を強く噛みしめ震える手で
「寂しいのぉ。あの小坊主は、毎夜毎夜、見廻りの度にわしの盤上遊戯によく付き合ってくれた。最初は経験が浅く、わしの相手にはならなかったが、今では手馴れてきて良き好敵手となってくれたわ。本当に、惜しい人物を亡くしたわ」
(そうですか。だが、俺にとっては他人の話だ。興味はない)
オリヴァはあえて「残念です」と話を合わせ駒を置いた。
「お主は、始めたばかりでわからぬであろうが、盤上遊戯は面白いぞ。差し手一つ。それだけで人の在り方を教えてくれる。あの小坊主は最初から最後まで純粋で真面目で繊細な差し筋だった。それゆえ、楽しくて相手のし甲斐があったのぉ」
(所詮は遊戯。戦術を模した遊戯で量れるものなどたかが知れている。差し手一つ。わかることはその人物の浅い部分だけだ)
王はオリヴァの差し筋をじっと見つめる。二手、三手。王は先を読んでいた。その姿を見て、長考に入ったと思いオリヴァはフッと気を抜いた。
視線を盤から高い天井に視線を移す。パステル色で描かれた天井絵が掲げられている。一枚絵ではなく、複数の絵を繋ぎ合わせて一つの天井を作り出している。何かの物語化。と考え込んだ矢先王の身体がグラリと揺れた。そして、小物がガチャガチャと倒れ耳障りな音を立てる。盤にうつ伏せとなった王の姿があった。
「イヴハップ王」
オリヴァは叫び慌てて、王のもとへ駆け寄る。
「王、王、如何されましたか。 今、人をお呼びいたします」
オリヴァの声に呻くような声を上げる。顔は伏せたまま、手が中を書く。オリヴァは手を貸すと、王は腰からゆっくりと上体を起こす。
「い、や。良い。あやつらを呼ばなくともよい」
握った手がオリヴァの肩にかかる。「近ぅ寄れ」荒い口調にオリヴァは王の近くへ寄る。
「お主……のぉ」
イヴハップ王はつむった目を開き、オリヴァを見る。まどろむような眼はすぐさま獲物を狩る肉食獣の鋭さに変わった。
死角となった反対の手。空気を切る音の後、オリヴァの咽喉仏に短刀が突きつけられていた。
「お前、……、手加減しただろぉ?」
(いつ、どうやって短剣を? いや、謀った!)
肩の肉をえぐり取らんばかりの握力。土気色をした顔に埋め込まれた落ちくぼんだ金色の目。王はオリヴァを捕獲し、舌なめずりしながら息を吹きかける。
「この盤上遊戯は戦争だ。お前は、戦場において手加減をし、命を潰すのか? 良いか、戦争において手加減とは、戦場の命全てを侮辱する行為だ。例え遊戯であろうとも、これは駒の命のやり取り。それをわし相手に手加減するなど……。お前は、わしとここの全ての命を侮辱したいのか?」
オリヴァは声を出せなかった。短剣の切っ先が咽喉仏に突き刺さっている。
「のぉ、何か言わぬのか? 不敬であろう」
王の手に力が入っているのが見て取れる。切っ先が進めばオリヴァの命の保証はない。彼は慌てて頸部をのけぞらせ、頬肉越しに謝罪した。
「も、申し訳……ございません」
王は不敬なる者の謝罪をすぐに受け入れなかった。揺らめく燭台の炎が空気をあぶる。不敬者の咽喉に纏っていた水分まで奪い取っていく。一手の長考のように王は丹念に時間をかけてオリヴァの顔を見る。王は口の端を歪ませると、仕方なく短剣を咽喉仏から離して床に放り投げた。
「良い。ワシを騙す大罪に気づいたのならば、不敬は不問としてやろう」
王は満足したように椅子に腰かけ直す。そして、盤上を一瞥すると全て凪払った。摩耗したアイボリー色とコークス色の駒が分厚い朱色の絨毯の上に転がり落ちる。
「拾え」
王の命令は絶対だ。オリヴァは机 床に散らばった駒を拾い、記憶に従い駒を置き直した。だが、駒の置き場所が間違っていれば、王は容赦なく全ての駒を払い落す。
(くそったれ)
心の中で吐いた暴言が零れぬよう平静の仮面を被り駒を拾い直す。
(前任者は素直だった? そうだ。王のような権力者を前にすれば皆、素直になる。履き違えるな。あの殺された兵士は素直だったのではない。王に恭順だったんだ)
拾っては凪払い。このやり取りが三度程続いた後、
(手加減をして命を捨てる馬鹿にはなりたくない)
遊戯初心者のオリヴァは戦手練れの王に挑んでも結果は見えている。彼ができるのは少しでも遊戯を長引かせること。その為に、彼はゲームの要である「王」を守り通した。王を守る為ならば、他の駒を容赦なく切り捨てていく。どうやれば「王」を守れるか、必死に 必死に 必死に考え、とうとうオリヴァの駒は王と宰相の二つのみとなってしまった。ほぼ勝ち目のない結果に王の口角が上がる。
「なるほど主の為なら、他の駒を簡単に捨てる手法か……」
王の言葉に何も返さない。彼は、自分が捨てた駒も奪った駒も、駒の意味を何一つ理解していなかった。
「お前の差し筋から、他者を顧みぬ身勝手さが見える。人望はないとは言わぬが、薄い。故に他者を捨て、王を守るためなら自国すら軽々に滅ぼす。非常に傲慢な戦法だな」
王の声にオリヴァの顔がゆっくりと上がる。直接顔を見てはいけない。と言い聞かせられてきたが、この時ばかりは王の真意を確かめたかった。
「それがお前の性格か? のぉ……」
王の顔には軽蔑と侮蔑に満ち満ちていた。ニヤリとイヤらしく笑うと傍に置いていた瓶を手に取り、そのまま口に流し込んだ。
「主の為なら国を滅ぼしてもかまわない。そう思われる主はさぞかし不幸だのぉ。まぁ良い。今宵、わしの相手をした褒美に名を聞いてやろう」
オリヴァは背筋をただし、王に身分と名を明らかにした。
「イヴハップ王の第二子息キルク王子の筆頭侍従、オリヴァ・グッツェーでございます」
自分の身分に偽りがない事を示すべく、彼は鈍色のメダルを王に差し出した。王はメダルの真贋、もとい身分に興味はないようで「知らぬ。が、故に傲慢か」と鼻で笑った。
(待て、イヴハップ王、その言動は失敗だ。貴方は、自分の息子の側近を知らないと言っているのと同じだ)
オリヴァはメダルを制服の下に仕舞い込み首を垂れる。
(俺は、貴方から直々に筆頭侍従に任ぜられた証としてメダルを戴いた。王からメダルを賜る。即ち、権力中枢に座すことを許した証なのだ。俺の顔を知らなくとも名を忘れただと。このことは、この王宮内の権力中枢を把握していないと言っていることと同じだ。俺は、特別だ。キルク様の筆頭侍従。王子の幼少期より寝食を共にした若者が権力の中枢の一端を担っている。この特殊さを知らぬとは…)
「もうよい。部屋を出ろ」
王の命令に従いオリヴァは椅子から立ち上がる。一礼をし、背を向けた。退出する間際、チラリと王の姿を目で追う。
(意外と、王の冠は脆いかもしれない)
王は背筋を正し、盤上をじっくりと見つめ思考に耽っている。オリヴァは目を細めその姿を焼き付け、部屋を後にする。手に持った燭台はユラユラと揺れ彼の気持ちを表しているようだった。
それから数刻の時を経て、また違う人物が見回りに来た。王は顔を上げ、いつものように盤上遊戯に誘うとした。
「おい」「わしの相手をしろ」そう紡ぐはずの口を閉じ、顔を伏せてもう一度盤を見る。王と宰相のみが残されて負けた陣。歩兵・騎兵・剣兵を失い勝利した陣。
(引っかかる。何かが引っかかる)
王は難しい表情を浮かべ立ち上がる。長いこと座り続けた為、足腰に力が入らずすぐに立ち上がれなかった。やっとのことで立ち上がっても右へ左へとフラフラと揺れ動く。王の身体を案じて駆け寄った兵士は長身の金髪。亡くした好敵手によく似ていた。
「王、如何されましたか!」
彼は好敵手の幻影を振り払うよう手のひらを泳がした。
「厠だ」
そう言い、傍にまとわりつく兵士を振りほどく。「付いてこなくてよいぞ」「聞き耳を立てるな」と念を押し、おぼつかない足取りで厠へ向かった。
(気になる 気になる 気になる 気になる)
彼は用を足しながら残した盤面を思い出す。
主を守るため、他者を切り捨てる手法。あの傲慢な戦法を彼は好まない。だが、好き、嫌いで戦争に勝てるほど現実は甘くない。
スナイル国の隣国ヨナン。両国は帰属地問題で長年戦争状態にあったが、近年ようやく停戦協定を結ぶことが出来た。
しかし、停戦協定を結んでいても彼はいかにヨナンを出し抜き戦争に勝利するのかを常に考えている。
「わしは勝たなくてはならぬ。我が国が勝てば、ヨナンに人質となった者達を取り返すことが出来る。皆が平和が訪れ全て、全てが元通りになるのだ!」
王は厠の壁を強く叩いた。すると彼は不思議な感覚に襲われた。身体全体から力が抜け、宙に浮いたような錯覚に陥る。身体だけではなく思考も混乱し、現実の戦場と盤上遊戯がグルグルと頭の中で駆け巡り溶け合ってしまった。濁りゆく瞳は現実から離れた夢を見る
「あぁ。なるほど。あの小童のやり方に一つ付け加えれば! あの聖剣があれば!」
王は床に倒れこみ、回らない舌を必死に動かしスナイル国の勝利を口にする。
「まだ死ねぬ。見つけた! わしは見つけた! ヨナンに勝てる方法を! ヨナンを。ヨナンからアレを!!!!!!!」
王の手が夢へ伸びる。見つけた光を掴もうとする手は空を掴み、小便臭い床に落ちていった。
イヴハップ王 スナイル国の巨星が地に堕ちた。
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