今のわたしにできること

 早鐘を撃つ己の鼓動が、アヤの頭蓋に響いていた。

 全身を巡る血が熱く滾っているのを感じる。

 右の拳に、甘い痺れ。

 微かに残るその感触を、アヤは心の奥底で噛み締めた。


 届いた。

 この拳が。

 あの人に。


 七年前のあの日。

 文字通りに手も足も出なかった自分。

 日頃の稽古で、どれだけ手を抜かれていたのかを痛感させられたあの時から、ずっとずっと、この瞬間を夢見てきた。

 沸き上がる歓喜に膝が崩れ、涙が溢れそうになる。

 それを必死に堪えて、アヤは再び腰を落として、構えを取った。


 そうだ。

 ここまでは・・・・・届いた。


 なら、この先は・・・・


「強くなられましたな。お嬢様」


 左の頬に拳の痕を残したテンヤが、穏やかな声で言った。

 その体を静かに赤の魔力が巡っていくのを、アヤは五歩分の距離を超えて感じ取った。


「ここが稽古場であったなら、『本日はここまで』と、私も言えましたものを……」

 残念そうな言葉と裏腹に、その表情には、隠し切れない喜悦が見て取れた。


「あら、なんならご褒美の一つや二つ、くれたっていいのよ?」


 それとは逆に、不敵な台詞を放つアヤの頬が、緊張に引き攣っている。

 思わず下がりそうになる足を、必死にその場に留めているだけで、魂を擦り切れさせそうなほどのプレッシャーを感じていた。


「然らば、此処は戦場いくさばなれば」

 テンヤの赤銅色の髪が鮮やかな赤に染まっていく。

「我が拳の真髄を以て、その報いと致しましょう」


 テンヤの口が窄まり、深く深く息を吸い込んだ。

 吸った呼吸の分だけ、テンヤの体から放たれる熱気が増していくようであった。

 やがて、満々と湛えた気を鼻から噴き出すと、それは真白い蒸気となって虚空に立ち昇っていく。


(……来たわね)

 アヤの頬に、冷や汗が一筋。


「毒蛇を喰らいて護法と為す――」


 紡ぐ言の葉にさえ、灼熱が宿って。


 右足を大きく掲げる。

 震脚。

 右の掌を腹の前で天に向け。

 そこに、左の拳を縦に振り下ろした。


 づん。


 衝撃が地を走り、大気を震わせる。


「――咲き誇れ。『孔雀明王・紅嵐ぐらん』」


 ぼう。


 テンヤの全身が、焔に包まれた。

 赤の魔力の奔流が吹き荒れる。

 天を突くような火柱に、目が焼かれる。


 ごうごうと燃え盛る焔の柱が、徐々に人型のシルエットを取り始める。

 そこから、声が。


「お嬢様。どうかこの先、一瞬たりとも気を抜かれませんよう」


 炎塊が、かき消えた。


「くぅっ!」


 いや。

 アヤの頭上に、特大の熱気。


 アヤの両足が全力で地面を蹴り、後ろに跳ぶ。

 その一瞬後。


 ごしゃぁっっ!!!


 アヤの立っていた地面が、爆ぜた。

 耳を聾する轟音と衝撃波が空中のアヤを襲い、その体を撥ね飛ばす。

 優に1メートルは陥没したであろう地面から、白煙が立ち昇る。

 それが赤い旋風に切り裂かれたのを見て、アヤは着地も待たずに拳を撃ち鳴らした。


「舞え! 『芳心――」

「遅い」


 その胸に、真っ直ぐに正拳が撃ち込まれた。


 辛うじてガードが間に合うが、アヤの体が宙を20メートル、ほぼ水平に吹き飛んだ。

 地面を転がって勢いを殺すのに、もう7メートル。

 土塗れになって立ち上がったアヤの両腕が、だらりと垂れ下がる。

 大量の汗を流しながら荒い呼吸を繰り返すアヤの、それでも眼光鋭く放った視線の先、悠然と歩みを進める、その立ち姿。


 四肢の先に、燃え盛る炎塊。

 その皮膚すらも赫灼の光を放ち。

 身に纏うは焔の衣。

 背中には、満開の緋華。


『孔雀明王法』


 五色の魔法の最高峰たる『季』の魔法。

 個人で一個大隊に匹敵し、時に天候にさえ影響を与えると言われる暴威が、今、アヤ一人にその矛先を向けていた。


 ごうっ!!


 突撃。

 瞬き一つすら許さない速度で距離を詰められる。

 腕でのガードはもう出来ない。


「うっ……『逸れ』!」

 即座に右へ跳躍。


 並木の一本、その枝の上に着地する。

 自分が今しがたまで立っていた地面が黒焦げになっている。

 その中心からは、既にテンヤの姿はない。


「『焦慮沁雀しょうりょしんじゃく』!」

 アヤが両足に炎を燃やしたのと、その足元に鈍い衝撃が走ったのは同時。

 眼下、テンヤの拳が自分が足場としている樹の幹にめり込んでいるのが分かる。


 再び跳躍。


 ぼっっっ!!!


 一瞬で、樹木が灰燼に帰した。


 その熱風の煽りを受けて空中でバランスを崩したアヤが、転がるように着地する。

 そこへ、太陽のような拳が襲い掛かる。

 迎え撃った蹴りが、為すすべなく弾かれる。


「うああっ!」


 その勢いに逆らわず体を回したアヤは、懐から小袋を取り出し、投げつけた。

 それは赤く輝くテンヤの顔に当たる前に熱で焼け崩れ、中に詰まっていた揮発性の液体に引火した。


 ぼん!

 黄色い炎をばら撒いてテンヤの視界を隠す。

 テンヤが腕を軽く振るってそれをかき消した時、既にアヤは七歩分の距離を開けていた。


 テンヤの赤い皮膚が、顔の部分だけ人の色を取り戻していく。

「逃げてばかりですかな、お嬢様?」

 一歩、一歩、踏み出す度に、地面に焦げ跡が広がっていく。

「私を倒して頂けるのではなかったので?」


 両腕をだらりと垂れ下げ、魔法の火を灯していた両足も今は頽れ、白い煙を上げるのみ。

 ぜいぜいと苦し気な呼吸を繰り返すアヤの顔が、持ち上がり。


 にやりと、嗤った。


「ええ。この勝負、あんたの負けよ。お師匠」

「……は?」


 その言葉に顔を顰めたテンヤは、ようやく気付いた。

 今まで全身を魔法で覆い固めていたために遮断されていた、街全体を覆う寒気――陰の魔力の波動が、明らかに薄れていることに。

 吸血鬼の少年は、既にここでの目的を終えていた――。


「『夜の王』は成った。隠形で奔る吸血鬼には、誰も追いつけないわ。たとえ『孔雀明王』でもね」

「成程……私としたことが……」


 そうだ。

 そもそも、彼女の目的は時間稼ぎであった。

 テンヤは唇を噛み締め、空を仰ぎ。

 アヤは、両足を踏みしめ、立ち上がった。


「そう。私の仕事・・は、ここまで」

「お見事です、お嬢――」

「さあ、こっからが本番よ、お師匠」

「…………なんですと?」


 荒い呼吸を吐き、それでも両の眼に不敵な光を宿した教え子が、テンヤの目には初めて、得体の知れない怪物に映った。

 両腕はまともに動かず、体力も擦り減り、もはや力の差も歴然。

 それでもなお、その瞳には揺るぎがない。

「……まだ、続けるおつもりですか?」

「ええ、勿論――」


 その時。


「アヤちゃん!!」


 アヤの背後から、声が響いた。

 アヤはテンヤから目を離さない。それでも、その声の主は、背中越しにはっきりと分かる。


「頑張れ! アヤちゃん!」


「……カズエさん」

 それは、二年間、一緒に新聞を作り続けてくれた女性だった。

 振り返る必要はなかった。

 その若草色のゆったりとした三つ編みが風に揺れているところも、運動が苦手な彼女が、息を切らして駆けつけてくれた様子も、手に取るように分かる。


「アヤ!」

「アヤちゃん!」

 次いで、ばたばたと、何人もの女性の足音が。


「何やってんだい、アヤ! 昔の男だからって手ぇ抜いてんじゃないだろうね!?」

 汗と土に塗れたアヤの顔が苦笑する。

「……勘弁してよ、シズクさん。相手、騎士隊長よ?」

「男なんてタマ潰せば一発よ、アヤちゃん!」

「それは最初にやったわ、セルカさん」

「気合よぉ、アヤちゃん。き・あ・い!」

「ヨーコさん。そう言ってこの前、お鍋焦がしてたでしょ」


「アヤちゃん!」「ファイトー!」「あんたならやれるわ!」「負けちゃダメよ、アヤちゃん!」「そんな奴ぶっ飛ばしちゃえ!」「勝ったらお酒あげるから!」「ていうかツケまだ残ってるからね!」「頑張れ、アヤ!」「アヤ!」「アヤちゃん!!」


 アヤの背中が、熱くなっていった。


「みんな、ありがとね。……なんか一個おかしな台詞が聞こえたけど」


 たった二年。

 けれど、アヤにとっては、一生で一番価値のある二年だった。

 背中にかかる声。

 その一人一人の顔を思い描く。


 そして。


『アヤさん』

 夜空の月のように優しい声。


『アヤさん』

 光り輝く太陽のような声。


 今は、聞こえるはずのない、その二つの声も。


 みんな、大好きよ。


 そう、小さく呟いて。


 アヤは口を窄め、体の奥底に向けて、深く息を吸い込んだ。

 己の肺腑をふいごに見たて、内なる焔を滾らせる。

 静かに鼻から噴き出した呼気が、白い蒸気となって立ち昇っていく。


(今なら分かるわ。どうしてヨル君が、いつもいつも強くいられたのか)


 だらりと下がった腕に、赤い力が取り戻されていく。


(ねえ、ヒカリちゃん。わたし、あなたが憧れてくれたカッコいいお姉さんに、なれてたかしら)


 ゆっくりと、右足が持ち上がり。

 震脚。

 右の掌を腹の前で上に向け、

 そこに、左の拳を縦に打ち下ろす。


 づん。


 衝撃が地を走り、魔力の波動が大気を震わせた。


 その挙動に、テンヤの眼が大きく見開かれた。

「馬鹿な……」


 桜色の髪が、眩い赤に染まっていく。


「毒蛇を喰らいて護法と為す――」


 紡ぎ出す言の葉に、灼熱の魂を乗せて。


 さあ、叫べ。

 高らかに。



「凛と立て! 『孔雀明王・桜火おうか』!!」



『情熱』を表し。

『加護』を司る。


 赤く、赤く。

 熱く、熱く。


 その魂を燃やして。


 焔の女神が、花開いた。


 ……。

 …………。

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