中編

色は匂えど

 落葉樹の森であった。

 樹々は空に走る亀裂のように黒々とした枝を晒し、その足元に朽葉色の絨毯を敷き詰めている。

 南の空から照る銀色の陽が、そこに僅かに残る霜を濡らし、光の粒を零している。

 長年の人の行き来によって踏み固められて出来た、路とも言えぬような路を、二人の男が歩いていた。


「何か思い出しますか?」

「ううん。全然だねぇ……」

「そうですか」


 さくさくと枯葉を踏みしめて歩く二人の口調は、どこかのんびりとしている。

 先を歩くのは、顔を殆ど隠す防寒着から、黒い瞳を覗かせた長身の少年―ヨル。

 その二歩分後ろを歩くのは、灰青の瞳と、微かに零れる薄い金髪を陽光に輝かせる、こちらも長身の男―トーヤ。


「ああ。そういえば」

「お。どうしました?」

「何となくなんだけど、こんな路を誰かの背中に負ぶさって運ばれていたような気がするよ」

「それは…………俺が運んだ時の記憶でしょうね」

「だよね」


 トーヤがメリィ・ウィドウの街で年越しをしてから、数日のこと。

 ヨルがトーヤの発見で中断した薬種の素材の採取に改めて行こうとした時、トーヤがそれに付いて行くことを申し出たのであった。

 最初は固辞したヨルだったが、その頃にはトーヤの体力もすっかり回復していたし、何より、彼が倒れていた現場を見せることで、失われた記憶を回復する一助となるのではと街の人たちに勧められ、動向を許したのである。


「そういえば、マーヤさんが僕に着物作ってくれるって言ってるんだけど……」

「あああ……」

「どうしよう。元旦の日のことで気を使わせちゃってたら、却って悪いことしたかな」

「大丈夫じゃないですか? 狙い通りっちゃ狙い通りだし」

「ええ?」

「カヤノさんたちが仕立てた服、実は今のマーヤさんのトレンドから微妙に外してるんですよ。ちょっと前の流行なんです。多分あれを見て、今の好みド真ん中の服を着せたくなったんじゃないですか? 遠慮しないで貰ってあげてください」

「あはは。流石だなあ、ヨル君は」


 採取用の森を、時に黙々と、時にはぽつぽつと言葉を交わしながら、二人は歩いていく。

 樹々の葉はすっかり落ち切り、骨のように尖った細い枝から、冬の陽が斜めに差し込んでくる。

 やがて巨大な倒木の前に到着したヨルは、トーヤを発見した場所まで彼を案内したが、やはり彼の記憶の筋に引っかかるものはないようであった。


「まあ、仕方ないですね」

「うん。採取を済ませちゃおうか」


 実のところ、ヨルもトーヤも、大して期待はしていなかったのだ。


 ここ数日、ヨルとトーヤは生活を共にしていたが、彼に記憶の戻るような兆候はなかった。

 丸で思い出すことなど何もないかのように、トーヤは自然体で振る舞い、ヨルもすっかりそれに慣れ切っていたのである。

 二人はあっさりと気持ちを切り替え、再び倒木の根元まで引き返すと、朽葉の中にわずかに茂る草の群から、鈴のような赤い実を採り、腰に提げた篭に仕舞って行った。


「これが、消毒の薬になるの?」

「ええ。ちょっと精製にひと手間かける必要はあるんですけど、セルカさんに頼めば、そこから先はやってくれますから……」

「ふうん」


 どこか楽し気な様子で細い茎を手折るトーヤの横顔をヨルがちらりと伺うと、彼はふと手を止めて、手の中の赤い実をじっと見つめ出した。

「トーヤさん?」

「不思議だなぁ」

「え?」


 トーヤは顔を上げると、首を巡らせ、色彩を失った冬の森を見渡した。

「他の草や木はすっかり葉っぱを落としてるのに、この草だけが赤い実をつけてる」

「ああ。それは……」

 競争相手がいない時期に実をつけることで繁殖力を高めている。

 ヨルがそんなことを口にする前に――。


「きっとこの実には、この時期に実をつける、きちんとした理由があるんだろうね。そしてそれを、自分でちゃんと分かってるんだ」

 トーヤはうっすらと微笑みを浮かべ、慈しむような目で掌中の赤い実を見つめた。

「……ええ」

「この実にとってはそれが当たり前のことで、森にとっても当たり前のことなんだろうね。この実はきちんと森の一部で、ある意味では森そのものなんだ」

「…………」


 灰青の瞳に光を宿して唄うように言葉を紡ぐトーヤを、ヨルは「また始まった」と思いながら苦笑して見た。


 この不可思議な青年には、どこか浮世離れたところがある。

 始めは記憶を失ったせいで情緒が不安定になっているのでは、と考えもしたのだが、どうやらそれだけとも言えないようなのである。


 例えば、街に小雨の降った、ある日のことである。


「全く、朝はあんなに晴れてたってのに、一体空の何処にこんだけの雨があったんだかねぇ」

 氷のように冷たい雨粒を拭い、畑作業を中断させられた街の女性の一人が恨みがましくそう独りごちると、同じく小屋に引っ込んでいたトーヤが、雨空を見上げてこう答えたのだ。


「きっと、雨は生まれた端から降ってくるんですよ」


「あん?」

 まさか答えを返されるとは思っていなかった女性がきょとんとした目でトーヤを見ると、トーヤはぼんやりと空を見つめたまま楽し気に言葉を続けた。


「お湯を沸かすと、蒸気になって空気に溶けるじゃないですか。ああやって空気に溶けた水が空の上へ上へ昇って、昇り切るとまた水になって落ちてくるんですよ。それが雨なんです」

「へえ……」

「地面に落ちて染みていったり、池に落ちて溜まったり、川に落ちて流れたり、植物に吸われたり動物に飲まれたりしても、結局また何処かで空気に溶けて空に昇って行って、また降ってくる。何処かに雨の元があるんじゃなくって、そうやってぐるぐる空と地面の間を行ったり来たりしてるんですよ」


「成程ねえ……」

「雨だけじゃないです。この桑だって、蚕に食べられて、絹になって、服になって、人に着られて、捨てられて、燃やされて灰になって、また地面の一部になって、そこに別の木や草が生える。みんな、ぐるぐる回ってるんですよ」

「はあ……」


 最初に問いをかけた女性だけでなく、その場にいたもの全員が、ぽかんと口を開けてそれを聞いている。

「トーヤは、……なんていうか、考えることが変わってるねぇ」

「そう、でしょうか」

「雨宿りしてるだけでそこまで考える奴はいないよ」

「あはは」


 その時のやり取りを思い出したヨルは、改めて目の前の不可思議な青年の横顔を、まじまじと見つめた。


 まさかトーヤが、水循環や森林生態学の知識を有しているわけではないだろう。

 だが、トーヤの素朴な言葉には、ものごとの本質をそっくり掬い取るような明るさがある。

 その、灰青の瞳で。

 雨粒一つ、草の実一つから、彼は世界を透かして見ている。


 仕事の覚えが早いこともそうだ。

 食堂の手伝いにしろ、畑の手伝いにしろ、彼は一度教えたことはすんなりと覚えるし、すぐに自分のものとして身に着ける。

 単に要領がいいというのでは片付けられないその仕事ぶりに、街の人たちは「まるで知っていたことを思い出してるみたいだ」と、あるいは「何も知らない子供が知識を吸収しているようだ」などと評していたが、ヨルはまた違った見方をしていた。


 トーヤは、世界を演繹している・・・・・・・・・――。


「ヨル君?」

 不意にかけられた声に、ヨルは弾かれたように顔を上げた。

 いつの間にか黙考していたヨルを、不思議そうな目でトーヤが見ている。


「どうかした?」

 こちらを覗き込むトーヤの視線に、ヨルは自嘲するような笑みを浮かべて小さく頭を振った。

「いえ、何でも。すいません。ぼおっとしちゃって」


 二人の篭には、それぞれ半分ほど赤い実が盛られている。

「ああ、このくらい採ればいいでしょう」

「そう? じゃあ、帰ろうか」

「そうですね」

 

 篭に蓋をして立ち上がると、再びヨルが先頭に立ち、来た路を歩きだした。

 陽は少し西に傾き、樹々の影が長く伸びている。

 刺すように冷たい空気の中を、二人はしばし、黙々と歩いた。


 やがて道の半ばまでを歩いたかというころ、そういえば、とトーヤが前を行くヨルに問いかけた。

「ヒカリさん、ていう子は、いつ帰ってくるのかな」

「ヒカリですか? さあ、親父さんがいつ解放してくれるかによるでしょうけど。まあ、月半ばくらいには帰ってくるんじゃないですか?」

「そうか。一度会ってみたいな」

「多分、気が合うと思いますよ」


 自分の後ろを歩くほのぼのとした青年と、あの能天気な少女の遣り取りを想像したヨルが柔らかな笑みを浮かべる。


(いや、ひょっとして、あっさり仕事を覚えたトーヤさんに嫉妬するかもな。それでまた俺にあたるんだろうな。全く……)

 そんなことを考えていたヨルに、トーヤはくすりと笑みを零した。


「いいのかい、僕と気が合っちゃって?」

「はい?」


 思わず振り返ったヨルに、トーヤは彼にしては珍しい、悪戯っぽい目を向けた。

 数秒使い、その視線の意図を察したヨルが、慌てて首を振る。


「いやいやいやいや、何言ってんですか。俺とヒカリは、別にそういうんじゃ……」

「ふうん、そうかい? でも、街の人たちの話じゃ――」

「何を聞いたか知りませんけど! 大体、俺は吸血鬼で、あいつは聖騎士ですよ? そんな仲になるわけ、が……」

「ヨル君?」

「とにかく! 俺とあいつはそういうんじゃないですから。安心して仲良くなってください!」

「あっはは。分かった分かった。そんなむきにならなくても」

「トーヤさん……」


 防寒着から覗く顔を赤らめたヨルが再び前を向いて歩きだした、その時だった。


 ぴゅいぃぃぃぃぃ。


 鳥の鳴き声が、聞こえてきた。


「「ん?」」

 足を止めた二人の真横の木に――。


 さくっ。


 青い紙で折られた鳥の嘴が、深々と刺さった。


「これは……」

遠文とおぶみですね」

 唖然とするトーヤに片手を挙げて、ヨルはそれを幹から引き抜き、解いて広げた。


「へえ、そんな魔法があるんだ」

 感心するトーヤもヨルの肩口からそれを覗き込み。


「「んん?」」


 二人揃って、首を傾げた。


『教会ノ人間来ル。様子ガオカシイ。暫ク戻ルナ』


 ……。

 …………

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