迷い
メリィ・ウィドウの属している聖国は、正式名称をアシハラ聖国という。
公称としては軍ではないものの、大陸各国に大きな影響力を持つ『聖王教会』を擁する、大陸唯一の宗教国家である。
ほぼ円形に広がる国土の、丁度中心より北部に寄った位置にある首都―聖都ヘイアン。
碁盤状に伸びる大小様々な通りが並ぶ古都の一角に、大きな聖堂があった。
ヨルがメリィ・ウィドウの街に帰り着いた日から、四日程前のことである。
豪奢な装飾に満ちた講堂の奥にある一室で、数人の男たちが円卓を囲み座っている。
その室の入り口に、青白い顔をしたハズキが立っている。
円卓の、2時の位置に座る男が、おもむろに口を開いた。
「では、報告を聞こうか」
「はい……」
ハズキは俯き、両手を前で組んだ。
居丈高な口調でハズキに視線を投げかける男―モンド・サイオンジ。
自分の実の父親の顔を、まともに見ることも出来ずに。
『ヒカリ・コノエの不正を暴き、これを証せ』
それが、ハズキがそもそも請けていた命令であった。
名門貴族コノエ家の令嬢が、中央の目の届かぬ場所で暗躍し、次期勇者の座を奪取しようと画策している。これは現勇者候補筆頭を擁するサイオンジ家に対する明確な政治的攻撃である。
ヒカリ・コノエは大陸各地で他国の名士に売名行為を働き、架空の武勲を建てることで自身の地位の地盤を固めている。
指導を理由に彼女に接近し、これらの事跡の証拠を掴むこと。
これがハズキに与えられた使命であり、今は、その報告を行う場であった。
いや。
報告、ではない。これは、手続きだ。
ハズキには分かっていた。
ヒカリは、政治闘争に巻き込まれたのだ。
確かに、サイオンジ家を排し、ヒカリを勇者候補に擁しようという動きがあるのは確かだろう。そのために、汚い行為があったことも確かなのだろう。
けれどそれに、ヒカリは関わっていない。
あの無垢な少女には、一切関りのないこと。
そしてそんなことは、この場の誰もが承知していることなのだ。
だからこれは、報告ではない。
モンドが黒と言ったものを、みなが黒く塗りつぶすための場。
そしてハズキは、それに最後の一筆を加える役。
ハズキの頬を冷たい汗が流れ、膝が小さく震えだした。
彼女を擁立する動きが勢いを得てしまえば、ハズキの兄は、そしてそれを擁するサイオンジ家の力は失墜する。
務めを果たせ、と、ジンゴは言った。
『ヒカリさん、あなた、また無報酬で仕事を引き受けましたね?』
数日前、メリィ・ウィドウの街に到着した日に、自分がヒカリに告げた言葉がハズキの胸に黒々とした熾火を燻らせていた。
あの時の、あの、少女の顔。
嵐のように渦巻く迷いの中で、小さく灯ったジンゴの言葉を必死に握りしめるようにして、ハズキは震える唇を動かした。
まず初めに、ヒカリ・コノエが政治的な工作を企てているという証拠は見つからなかったことを、はっきりと告げる。
この報告に分かりやすく気色ばんだ幾人かの貴族たちから目を逸らすように、ハズキは報告を続けた。
ヒカリが報酬も貰わずに魔獣を討伐し、他国の人民を助けたこと。
聖水の製造を無料で施していたこと。
本来の任務からかけ離れた業務行動で、聖騎士の職制を損なっていること。
その他いくつかの違反行動を、ハズキは読み上げていく。
そして、最後に。
「ヒカリ・コノエは……」
(実直にして勤勉で、努力を惜しまず、それによる正しい力を身に付けており)
「怠惰で、不勉強、聖騎士としては甚だ力不足であり」
(勇気と優しさを兼ね備え、自らの危険を顧みず、仲間のために戦う意思を持ち)
「短慮による愚行で徒に周囲の人間を危険に晒し」
(誰にでも分け隔てなく接し、周囲からの確かな信頼を得ており)
「悪しき魔族や野蛮な獣人族とも友誼を結び、我が聖国の品位を貶め」
(聖国の未来を担うに足る人物であり)
「とても勇者候補などと呼べるものではなく」
「ただちに……」
ハズキの言葉が、途絶えた。
円卓を囲む男達の間に、白けた空気が流れる。
「どうした」
モンドが、その先を促す。
「ただ、ちに……」
ハズキの手が、色を失うほどきつく握りしめられ、ぽたぽたと、雫が落ちた。
「ただちに、現在の任を剥奪すべきであると、具申致します……」
「結構。退出して良し」
その、絞り出されたハズキの言葉を聞くや否や、モンドは冷たくそう言い放った。
ハズキは一礼もそこそこに、踵を返して、室を飛び出した。
扉の閉まる音から数秒。
座した一同に弛緩した空気が流れる。
「いやはや。いい報告でしたな」
「まったくまったく」
「まあ、一時はどうなるかと思いましたが」「これであのク……老人方を黙らせられますな」
がやがやと賑わう一同をぐるりと見渡すと、モンドはおもむろに立ち上がり、先ほどハズキが立っていた場所へと歩を進めた。
磨き抜かれた大理石の床に、涙の雫が落ちている。
モンドはその上に唾を吐き捨てると、掃除しておけ、と、部屋の隅に侍っていた聖騎士に短く命じ、座に戻った。
……。
…………。
「本当に、よかったのか?」
古びた小さなテーブルに置かれた瓶子と焼いた茸を乗せた皿を挟み、二人の男が向かい合って座っていた。
焚かれた香は鈍く甘く、脳を痺れさせる。
そこに油と炭の匂いが混じり、澱んだ空気を緩やかに攪拌している。
聖都の一角にある宿屋、その地下階に作られた酒場。
「何がだ」
全身を黒づくめの衣装に包んだ、眼光鋭い男―ジンゴが、透き通った酒の注がれた酒器を口に運び、問い返した。
それに相対する男は、答えに窮するように視線を逸らす。
金と銀の合間のような髪をさらりと伸ばし、頭の後ろで結び。
端に小さく皺の寄った切れ長の目は灰色。
藍鉄色のシャツに鈍色のジャケットを合わせ、ぴっちりと着こなしている。
白の騎士団第二分隊隊長-キリヤ・キサラギ。
手の中の酒器を見つめ、躊躇いつつも言葉を紡いだ。
「今頃、貴族院の連中に、ハズキ・サイオンジが報告を上げている頃合いだろう」
「そうだろうな」
「そうなれば、ヒカリさんに何かしらの処分が下ることは間違いない」
「うむ」
「……本当に、よかったのか?」
「おかげで俺は、サイオンジ家から、さらに篤い信頼を得ることができた。研究施設への立ち入りを許されたのだ。ここまで来るのに、一体何年かかったと思っている」
「それは……」
「あの日、逆恨みの鬼の残党からわざわざハズキの命を救ってやった時、これでサイオンジ家に近づけるかもしれないと言ったのは、お前だっただろうが」
キリヤは深く息を吐き、テーブルに肘をついた。
「俺は、後悔しているよ、ジンゴ」
「何がだ」
「…………お前は、ジンゴだ」
「?? 何を言っている」
「お前は、メリィ・ウィドウの街の、曖昧屋・ジンゴだ。俺のやるべき事に、お前はもう関係ないはずなんだ。それを、俺は、お前が失った柵にお前を捕らえ、今のお前の暮らしを毀損しようとしている」
「くだらん」
「なに!?」
思わず、キリヤが顔を上げる。
ジンゴの口元には、微かな笑みがあった。
「お前の言う通り、俺はジンゴだ。俺は、俺の生きたいように生きる。それがゲンジとの唯一の約束だった。今はそれがたまたま、お前の道と重なっているだけのこと。お前が気に病んだところで、俺の生き方になんの影響があるものか」
その言葉に、キリヤはしばし声を失い、やがて、諦めたように再び視線を逸らした。
「お前は、迷わないんだな」
「迷うだけの心が残っていないだけのことだ」
「変わらないな、そういう所は。昔から変わらない」
「何度も言わせるな。お前の知る男など、とうの昔に死んだ。俺は、ジンゴ・ミヤマ。ただの、曖昧な男だ」
……。
…………。
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