むかしむかし、あるところに

 私は、元の名をチュウヤ・イガラシといいます。

 そうです。コソウの街のイガラシ商会は、私の実家です。

 私は長男でしたが、はっきり言って商売の才能がありませんでした。


「客に高い商品を勧めないのは却って失礼だ」

「客が買いたいものを売るんじゃない。こっちが売りたいものを買ってもらうんだ」


 そんな父の言葉の一つ一つが、私には上手く飲み込めませんでした。

 私はどうしても、我を通すということが苦手なのです。


 反面、弟はよくできた男でした。

 今、商会の切り盛りをしているのは弟のツグロウです。

 私は帳面の管理を買って出、弟を補佐する道を選びました。


 彼女と出会ったのは、そんな日々がいくらか続いた、ある夏のことでした。

 このハタガミの里の長を代々務める、イブスキ家の令嬢。

 シオン・イブスキ。

 とても優しい、優しい眼をしたひとでした。


 イブスキ家は男子に恵まれず、シオンは婿を探しているということでした。

 私はチャンスだと思いました。

 元より、家長であるはずの私が番頭の真似事をしているというのは、他の従業員にとっても居心地のいいものではないでしょう。

 そして辺境の里であるハタガミにとっても、隣町の大商会と血縁が出来るというのは悪くない話のはず。


 私は打算を働かせました。

 ええ。私は惹かれていました。

 ひと目見た時から。

 一瞬のことでした。そして、永遠のことでした。

 どうにかあの女と、一緒になりたいと思ったのです。

 そしてその願いは叶えられ、私はこの里に婿入りしました。


 それまでの経験がありましたから、他の者よりは数字に明るかった私は、里の財政を任されました。

 身の丈に合った役割を与えられ、私は幸せでした。

 やがて子宝にも恵まれました。

 アカネとアオイ。

 この世にこれ程の幸せがあろうかと、私は思いました。


 しかし、二人が生まれるのと入れ替わるように、義父ちち義母ははが亡くなりました。

 二人共、もう長いこと内蔵を患っていました。

 まず義父が亡くなり、後を追うように義母がなくなりました。

 これで名実共に、シオンはハタガミの里長になりました。

 私はこの先何があっても彼女を支え続けようと、固く誓ったのです。

 けれどその誓いは、呆気ない程に、ある日消えて失くなりました。


 あれは丁度、二年前。

 雨天と晴天が交互に続き、里全体を、濃い熱気が包んでいるような夏でした。

 私たち家族は、山にいました。

 里の民が立ち入りを許されない山の禁域の、その境界をほんの少しだけ奥に入ったところに、イブスキ家のものしか入ることができない小さな畑があるのです。

 そこで採れる、珠のような夏蜜柑を里の人たちに先んじてこっそりと食べるのが、イブスキ家の昔からの楽しみでした。


 今でも思い出せます。

 薫る風と、柔らかな木漏れ日。鮮やかな空。

 はしゃぐ子供たちの声。

 そして、轟く雷鳴。


 それ・・は、農具をしまっている納屋の前にありました。

 最初は野犬かと思いました。

 ぐったりとして動かない、その薄青い獣は体中から血を流しているようでした。

 周りには、大小様々の岩の破片が転がっています。

 私は上を見上げました。

 納屋の後ろは切り立った崖になっています。

 この獣は、そこから落ちてきたのでしょう。

 禁域の山から。


 俄かに恐ろしくなった私をすり抜けて、妻が獣に駆け寄りました。

 そして顔色を変え、獣の治療を始めたのです。

 私は止めました。

 それは恐らく、魔獣の仔であろうと思ったのです。

 その額には、小さな瘤のような角が見えました。

 関わるべきではない。

 けれど妻は、聞く耳を持ちませんでした。

 傷を洗い、消毒と止血を施しました。

 子供たちは、固唾を飲んでそれを見守っています。


 やがて、獣の緑色の眼が開きました。

 獣は暴れました。

 獣に人の治療行為など理解できるはずがありません。

 獣の眼には、妻は、今正に自分に危害を加えようとしているようにしか見えなかったのでしょう。

 噛み付きました。

 左腕でした。

 妻は苦悶の声を上げ、私は必死に獣を引き剥がそうとしました。

 しかし、私が引けば引くほどその牙は妻の腕に食い込み、次から次へと血が溢れてきます。

 子供たちもパニックを起こし、獣にむしゃぶりつきました。

 その手には、岩の欠片が握られていました。

 がつん。

 がつん。

 獣の頭が打ち据えられ、やがて二三度痙攣すると、獣は再び、ぐったりと動かなくなりました。


「ああ。何ということを……」

 妻はそれを見てついに気を失い、子供たちは血に塗れた手でその身体にしがみついて泣きじゃくりました。

 しばし呆然とする私の耳に、あの音が聞こえたのです。


 遠吠えと、雷鳴。


 天から降り注ぎ、地を震わす、あの、……あの恐ろしい声が。

 私は逃げ出しました。

 妻を背負い、子供たちを引きずって、転がるように山を降りました。

 その背にべったりと張り付くように、いつまでも、いつまでも遠吠えと雷鳴が聞こえていました。


 その時獣に噛まれた傷が原因で、妻は儚くなりました。


『あの獣を、怨んではいけません。彼はただ、生きたかっただけなのだから。同じなのです。人も、獣も、みな同じ』


 それが、彼女の最期の言葉でした。

 アカネとアオイは、それ以来、口を閉ざしてしまい、一度も笑わなくなりました。


 私に残されたのは、音もなく、空っぽの、他人の家だけでした。


 私は里長などではありません。

 愚かで、罪深い、簒奪者なのです。

 この里から、妻を、シオンを、失わせてしまった。


 そして今度は里全体を危険に晒している。

 あの雷獣は、きっとあの獣の親なのでしょう。

 奴は復讐者なのです。

 咎負いは、私です。

 私が悪いのです。

 子供たちが岩で獣を打ち据えた時、私は止めませんでした。

 私が悪いのです。

 私が、全て……


 ……。

 …………。


「どう思いますか、ジンゴさん?」

「どう、とは?」


 イブスキ家の廊下を渡りながら、暗い顔をしたセイカがジンゴに問いかけた。

 話の途中で嗚咽を漏らしたチュウヤに使用人の老人が手をかけ、セイカは踏み込んだ話をさせてしまった非礼を侘び、部屋を辞した。


「私は、彼が何か悪いことをしたとは思えません。不幸は時に、降りかかる場所を選びませんから……」

「何の話をしている」

「ですから、チュウヤ殿が今回の件に責任を感じる必要はないと……」

「あの話の中で、非が何処にあったかということならば決まっている。不用意に魔獣に近づいた里長の亡妻だろう」

「あなたという人は……」

 セイカの瞳に胡乱な火が灯る。

「だが、それは全て過去のこと。そもそも俺は騎士でも傭兵でもない。問題は、今の現状にどう落とし前をつけるかだ」

 眉間に皺を寄せたまま、セイカが答える。


「それは、もう、かの雷獣を討伐するしかないでしょう。話を聞く限り心の痛むことではありますが……」

「ふむ。どうやってだ」

「救援要請をしましょう。こちらに被害を出さないためには、大隊規模で挑むしかありません。流石にこの現状を知らせれば、騎士団も動いてくれるでしょう」

「だから、どうやってだ」

「それは、………ああ」

 セイカの肩が落ちる。

「そうでしたね。ここは遠文も出せないんでした。それでは、外から救援が来るのを待つしかないでしょう。流石に今頃は、イマリより先にも情報が届いているでしょうし」

「…………そうだな」

「今、何か溜めませんでした?」

「さあな」


 そこで、廊下の先から、なにやら賑やかな声が聞こえてきた。

「あ、リーダー。お疲れ様です」

「探しましたよ」

「早く行きましょう」

『曙の貴妃』のメンバーの少女たちが、顔を明るくしてセイカを迎えた。

「どうしたの、あなたたち?」

 浮き足立った彼女らに戸惑うセイカに、小弓使いの少女――ミドリが言う。

「里の広場で、スムージー祭りが始まったんですよ!」

「捨てちゃう夏蜜柑を処分しよう、って」

「よかったら私たちも、って、さっきヒカ、……コノエさんが」

 矢継ぎ早にまくし立てセイカの袖を掴む少女たちに苦笑し、セイカはやんわりとその手を離した。


「折角だけど、遠慮させてもらうわ。イブスキ家の資料で、あの雷獣のことを調べてみようと思って……」

「作ってくれるのはヨルさんですよ?」

「分かったわ。行きましょう」

「流石リーダー!(ちょろい)」

「行きましょ行きましょ(ちょろい)」

「(ちょろいなー)目標、森国のスイーツ!」


 嵐のように消え去った少女たちの背を呆れたような目で見送ったジンゴは、廊下の窓越しに山の稜線を眺めると、ふと思いついたように懐に手を遣り、何かを取り出した。

 それは、手のひらに収まる程の大きさのお守りであった。厚い紙を折られて作られたその簡素なお守りをしばし矯めつ眇めつし、再び懐にしまい込むと、踵を返してその場を歩み去った。

 その口から、ぽつりと言葉が漏れる。


「分からん。俺には、分からん……」


 その呟きを聞いたものは、いなかった。


 ……。

 …………。

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