眩しくて目を逸らしていた
バルの街を出て、急ぎメリィ・ウィドウへと帰る道すがら、ヨルは昔のことを考えていた。
今となっては遠い昔、自分がまだ
萄也の父は毅い人間だった。そして、善良な人間であった。
自分には厳しく、人には優しく。
誰彼構わず分け隔てなく接する人柄は近所でも評判であったし、萄也の母も、そして弟たちも彼を慕っていた。
けれど、当然そうでない人たちもいた。
彼らは父を侮り、蔑んだ。
それでも、父は彼らを恨まなかった。
そう。
萄也がどれだけ父の愚かさを罵ろうと、父は決して萄也を怒らなかった。
時にはむっつりと、時には困ったような顔で、ただ萄也の話を聞くだけだった。
萄也には眩しかった。
父の生き方は、高潔で、誇りと共にあった。
人を赦し、人に恚らず、人を愛するその生き方は、萄也の目を眩ませた。
萄也は家を離れがちになった。
彼が膨れ上がった借金に押し潰されるように脳溢血で倒れた時、今際の際に遺した言葉は、それまで彼を支えてくれた妻に対するものでも、彼を慕ってくれた下の子供たちに対するものでもなく、何故か萄也に宛てたものだった。
「お前は強い男だ。お前は正しい男だ。どうか、自分に恥じない生き方をしてほしい」
意味が分からなかった。
自分が強い? 道場の稽古で、毎日のように泣かされてた自分が?
自分が正しい? 父を罵り、家から逃げた自分が?
心臓を杭で打たれたような気分だった。
溢れ出した涙が、自分の父に対する本当の思いを教えてくれた。
そして死ぬまで、いや、一度死んで生まれ変わってからも、萄也が、そしてヨルが、その言葉を忘れたことはなかった。
「くそ。何で今こんなこと……」
今、道を急ぐヨルの顔には、確かな焦りがあった。
ラジーブから突然変異の魔獣の話を聞いたヨルは、その後すぐに街を出た。
その魔獣が『囁く者の森』に入ってしまった場合の危険についてはラジーブも直ぐに了解してくれた。
大丈夫なはずだ。
ヨルにとってはお使いに寄っただけの街。
ヨルは騎士でも傭兵でもないのだ。後のことは彼の仕事だ。
自分がやるべきなのは、急いで自分の街に戻って街のみんなに注意を促すこと。それにしたって、街の近辺でこの時期の件の森にわざわざ踏み入るような人はいない。
大丈夫なはずだ。
なのに、何故かヨルの脳裏にはあの無鉄砲な聖騎士の姿が張り付いて離れなかった。
あの場所は各種の素材の採取場所としては重宝する森だ。
もしもあいつが、また何某かの採取依頼を受けて、そうと知らずに森へ踏み込んだら。
いや。
そうなってもジンゴが、アヤが止めてくれるはずだ。
だから大丈夫。
自分は早く帰ればいい。
なのに。
何だこの焦燥は。
あの夜、カラオケで夜遊びをしてた自分を呼んだ、泣きじゃくる母からの電話が頭をよぎる。
分かっている。
似ているのだ、ヒカリと萄也の父は。
暖かく、朗らかで、真っ直ぐで、目が眩む。
自分が多大な労力を支払ってようやく街のみんなに受け入れてもらえた所を、たかだか一ヶ月であっさり街の仲間入りを果たしたあの少女に、ヨルはどうしても前世の父を思い出さずにいられなかった。
二人共、自分が努めてそうあろうとした生き方を、ただ自然のままに生きている。
羨ましくて、妬ましかった。
何であんたたちはそんな風に生きられるんだ。
俺が前世で真っ当に生きるのに、どれだけ苦労したと思ってるんだ。
ようやく街の人に受け入れられ、かねてからの念願の気楽な暮らしを手に入れたヨルの元に突如顕れたその少女に、彼の心は揺さぶられた。
そして彼女が自分を敵視しているのをいいことに、ヨルは和解を放棄し、彼女を遠ざけた。
(これじゃおんなじだ。折角ウルに新しい人生をもらったってのに、俺はまた同じことを繰り返そうとしている)
その焦燥に突き動かされるように急ぎ街へと帰ったヨルを迎えたのは、最悪の予想が的中した知らせだった。
……。
…………。
「何で誰も止めなかったんですか!?」
街に帰りしな、入口広場で屯していた女性たちから話を聞き、思わず大きい声を出してしまったヨルに、みな気まずそうな顔をする。
「ごめんねえ。そんなに危ないことしようとしてるって、知らなくて……」
ヒカリに地図の相談を受けた魔族の女性が恐縮して言う。
言葉に詰まったヨルに、後ろから声がかけられた。
「ド阿呆。あの小娘に採取のイロハを教えなかったのはお前の手落ちだ。他人に責を押し付けるな」
薄汚れた作業着に身を包んだジンゴが鋭い視線でヨルを見る。
「………そう、だな。そうでした。すみません」
頭を下げるヨルに女性たちも困惑する。
「だ、大丈夫よ、ヨルちゃん。ほら、アヤちゃんが迎えに行ってくれたから、直ぐに帰ってくるわよ」
その言葉を受けて、ヨルはさらに渋面を作った。
「いえ、そっちのほうが問題かもしれません。どうせアヤさんのことだから、酒代のツケ代わりに行かされただけなんですよね? そんな気のない説得であの聖騎士が折れるとも思えませんし、アヤさんも一旦森に入っちゃえば聖騎士と一緒の方が安全だとか考えて、ひょっとするとそのまま採取を手伝ったりしてるかも……」
「……そ、その洞察力はちょっと恐いわよ、ヨルちゃん?」
その時、通りの奥から、がやがやとした一団がヨルたちに近づいてきた。
「待って待って待って駄目だってシャオレイさん!」
「うるさいね、止めるんじゃないよ!」
「そんな体で無茶だってば!」
「あんたの無駄肉ついた体よりは千倍マシだよ小娘が!」
「このクソババア!!」
朱色の軽鎧に身を包んだリス系獣人の老婆と、彼女に食い下がる数人の女性たちの姿であった。
「シャオレイさん!? そんな格好でどうしたんですか?」
驚いたヨルに周りの女性たちが助けを求める。
「ああ。丁度良かった、ヨル君。お願いだからこのおばあちゃん止めるの手伝ってよぉ」
「あの、一体何が……」
そこでヨルは、自分が街を離れている間にヒカリがシャオレイの元に通っていたこと、そしてシャオレイの家の桜の古木を蘇らせるために春光丹を作ろうとしていること、そしてそれを偶然聞いてしまったシャオレイが、ヒカリを助けるために森に行こうとしていることを知った。
その話を聞くうち、ささくれだった自分の心が徐々に凪いでいくのを、ヨルは感じていた。
ああ。
やっぱりそうだ。
あの少女は、親父とおんなじだ。
人を愛し、自分を顧みない、あの尊敬すべき父親と。
なら、自分のやるべきことは一つ。
今度こそ、絶対に死なせない。
ヨルはしがみつく獣人の女性を引き剥がそうと躍起になっているシャオレイに近づくと、しゃがみこんで問うた。
「シャオレイさん。シャオレイさんが今から森を目指して、どのくらいあれば着きますか?」
「ちょ、ヨル君!?」
何か不穏なことを言い出したヨルに獣人の女性が目を剥く。
「ふん。急いで一刻半ってところだね」
常人の足で歩いて半日かかる道程に対し、シャオレイはこともなげに言った。
ヨルが柔らかく微笑んで言う。
「俺の魔法なら、半刻で着きます。ここは俺に任せてもらえませんか」
「ナマ言うんじゃないよクソガキが」
「あいつは便利屋見習いです。言ってみれば、ウチの従業員です。今回の不始末の原因は俺にあります。どうか、責任を取らせてください」
二人の視線が交差する。
シャオレイの灰色の瞳を、ヨルは真正面から覗き込んだ。
「助けられるんだろうね」
「任せてください。ただ、そのためにシャオレイさんにお願いがあります」
「何だい」
「血を吸わせてください」
「はぁ!?」
「今の俺じゃ、森にたどり着くだけで魔力が切れちゃいます。あいつを助けるには、もっと強い魔力が要ります」
シャオレイが困惑して言う。
「そりゃあ、わかるが……。獣人の魔力なんて大した足しにならんだろう。それもこんな老いぼれの……」
「魔力ってのは、魂の強さですよ。シャオレイさんの魔力が弱いわけないです。あいつを助けるには、それが必要なんですよ」
当然、そんなわけはなかった。
本当に単に魔力の補給を目的とするのなら、獣人から十人分吸うよりも魔族やエルフから一人吸うほうがよほど効率がいい。
歴戦の勇士であるシャオレイがそんなことを分からないはずはない。
シャオレイは察した。
この子供は、自分の想いを血に乗せて森に運ぶと言っているのだ。
その漆黒の瞳をシャオレイは真っ直ぐ見返し、にやりと笑った。
「いいだろう。好きなだけ吸ってきな」
それを見た周りの女性が我先にと手を挙げる。
「ヨル君、私のも吸ってって!」
「私もヒカリちゃん助けたいわぁ」
「街のみんなも呼んでくるわね」
街の広場が俄かに騒然とする。
ヨルは苦笑して立ち上がった。
「そんなには吸ってけませんよ。聖水足りなくなっちゃいます。取り敢えず、ここにいる6人分あれば大丈夫です」
「いや、もう2人分吸っていけ」
興奮する女性たちを宥めにかかったヨルに、それまで成り行きを静観していたジンゴが口を挟んだ。
「……ジンゴ?」
腕を組んだジンゴが鋭い視線をヨルに放つ。
「俺も行こう」
「ええ!?」
「災害級の魔獣が、下手をすると2体いるのだろう? 死に戦に臨むわけではないのだ、戦力は大いに越したことはあるまい」
「そりゃそうだけど、俺の魔法でお前を運ぶのは無理だ。スピードを優先させるなら、俺が単身で行くしか……」
「だから、もう2人分吸っておけと言ったのだ。こいつを使う」
ジンゴはそういって、懐から2枚の紙片を取り出した。
そこに刻まれた複雑な紋様と文字の羅列を見て、ヨルの目の色が変わる。
「まさか……完成してたのか」
「ふん。今しがたな」
ジンゴの狼のような風貌が、獰悪な笑みを浮かべた。
……。
…………。
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