三幕 奥底の魔

第37話 城

 中庭の戦いに背を向けて、グローリーは単身で尖塔に入り、城の奥底へ向かっていた。

 ローブアーマーもソードストールも囮にすぎない。魔物の策は、グローリーこそがかなめだ。


 天井から水滴がしたたり落ち、石の階段は冷たいが、肉体を持たない黒死光グローリーにとって痛痒ではない。

 一定の間隔で灯された松明たいまつが、ゆらゆらと波打つグローリーの薄い影を壁に映す。


 地下室へ影のように忍び込み、目標の場所へたどりつく。

 個室に分かれた地下牢が続く廊下。見張りは戦闘のために出払っていて誰もいない。

 木製の分厚い扉には小さなのぞき穴しかない。壁にかけられた鍵を奪い、グローリーは一つずつ開けていった。

「大丈夫よ……わたし……グロー……リー……」


 しわがれた声を聞き、暗がりで繋がれていた魔物がびくりと体をふるわせる。

 歯と歯がぶつかる音、鎖が石畳の床を滑る音、喉の奥から漏れる嗚咽、そうした音の連なりが地下牢の奥から発せられる。

 奥には、薄い布切れ一枚だけの服を着せられた、幼いマリヤウルフがいた。

 可愛らしい顔立ちをしている。日焼けしつつも染みになっていない滑らかな肌も、人間の少女と区別がつかない。

 狼の姿をしていないマリヤウルフは、夜目がきく瞳と、鋭い犬歯くらいしか人間と差異がない。


 その少女らしい肌に新しい傷がつけられ、虚ろな目をしたマリヤウルフは、血の混じったよだれをたらしていた。

「口を……開けて……」

 グローリーの声を聞き、マリヤウルフはのろのろと顔を上に向け、呆けたように口を開ける。犬歯が抜かれ、歯茎に上下合わせて小さな穴が四つある。

 グローリーは鎖に繋がった皮製の輪を持ち上げた。幸いなことに、足枷は外されていた。

 今さらマリヤウルフが地下牢から逃げられるはずがないと、見張りはたかをくくっていたのだろう。きっと城に残っていた誰かが愉しんでいたのだ。

「帰り……ますよ……あなたの……故郷……」

 開いていた瞳孔に少しずつ生気が戻り、マリヤウルフは無言で首を縦に振った。


 よたよたと産まれたての子山羊のように、尻から立とうとして、あっさり転ぶ。言葉にならないうなり声をあげる。

 それでもグローリーが苦しげな声で応援している内に、人間そっくりに二本足で立つことができた。

 歯抜けの口を宙に向けて見せ、マリヤウルフが笑う。空間に満ちているグローリーも微笑んだように吐息をもらした。

「あと……二匹……」

 マリヤウルフが扉から外に出ると、次の扉の鍵が開けられ、ともに囚われていた仲間が出てきた。

 今度は足枷をはめられていたが、引きちぎっている。グローリーの力で内側から水分をふくれあがらせ、皮の強度を弱めたのだ。

「一匹……」

 鍵穴に最後の鍵を差し込んだ時、声がかけられた。

「そこまでよ、グローリー。栄光の名を騙る邪な魔物……」

 石畳を歩いてくる足音がして、闇に白い顔が浮かび上がった。


 墨のような闇を橙色の光がぬぐいさっていく。

 光が壁を照らし、白い顔の周りにある短い黒髪がはっきり見えるようになった。

 松明をかかげたエイダであった。


 エイダの僧服が、ふいに吹いた強風でめくれあがった。暗い廊下に白い蒸気が爆発的に広がる。予期せぬ出来事にエイダが顔をしかめる。

「行き……なさい……仲間は……後で……」

 しぼりだすようなグローリーの声を聞き、おびえていたマリヤウルフが一声吠えた。鍵のかかった扉の向こうからも呼応する遠吠えがあがる。

 二匹のマリヤウルフが階段に向かって突進した。小さな体は四本足で女僧侶の脇をすり抜けて、階段にたどりついてからは人のように二本足で、よろけながら先へ進む。


 階上から金属を打ち鳴らす音がする。戦斧とナイフが打ち合わされる音だ。

「グローリー殿、早く!」

 ローブアーマーが叫び、逃走をうながす。


 しかし白い煙にうごめく影を前にして、冷ややかな視線を向けてエイダがいった。

「知っている。おまえは影などではない」

 エイダが短く神への賛美をつぶやくと、小さくなっていた松明の炎がふくれあがり、前方の影をかき消した。

 残ったのは、ただの白い煙。浜辺にうちよせた白い波のように、地を這う蒸気が階段へ退いていく。

 グローリーの実体は蒸気の塊。薄くふくらむと透明に近くなり、毛穴や傷に染み込んで膨張すると水ぶくれを作り出す。炎を包み込めば空気を奪って消火する。

 影のように見えるのは、白い体表を動かして、獲物自身の影を操っている目くらましにすぎない。


 エイダは魔物を追い、階段を上がった。白い煙の先で、ローブアーマーとケンプが刃をまじえていた。

 強大な破壊力を持つ戦斧は階段が狭いため大振りできず、二本のナイフを操るケンプが少しばかり優勢であった。

 その戦闘が間断なく続き、マリヤウルフは二匹とも階段の途中で動けないでいる。


 エイダは炎が青く変じた松明を向け、遠い歴史を伝える詩を歌う。かつて退廃の都ソドムを滅ぼした、いにしえの奇跡を口にする。

 どこかから腐った卵のような悪臭がただよい始め、空気が熱をはらんでいく。


 ケンプに向かってのびていた白い煙が、反転して階下の女僧侶へ向かって流れ落ちた。

「ふり……むかず……逃げ……なさ……」

 グローリーは、その言葉だけをローブアーマーとマリヤウルフへ言い残した。

「そう、ふりむくはいつも愚かな女!」

 エイダの叫びとともに、蒸気が一瞬の内に凝固した。白い細かな結晶の粒となり、わずかの間だけ実体を可視化する。

 鼻が高く、頬はこけ、目を伏せるように閉じた、痩せ衰えつつも若く美しい女の姿であった。

 古代ギリシャ時代の衣服キトンに似た格好をして、地面に届くほど長く波打つ髪が扇のように広がっている。


 ギリシャの吟遊詩人オルフェウスが、黄泉の世界から現世に連れ戻そうとした妻。東方の都市ソドムが滅亡する時、逃れようとしたロト一家の妻。

 どちらも好奇心に負けてふり返ったために、死から逃れることができなかった。

 絶望したオルフェウスは異教の神、つまりは魔物を信仰して呪われ、斬首されて川に落とされた後も歌いつづけたという。

 そしてそのソドムを滅亡させた神罰こそ、エイダが加護術で再現した奇跡だ。


 グローリーは両手を広げ、マリヤウルフと女僧侶の間をさえぎっていた。しかしそれは一瞬のこと。

 白い粒はすぐに崩れ、はらはらと階段に降った。それは粉雪よりも細かく、湿り気を帯びた石の階段にふれたかと思うと、見る間に溶けて消えていった。

 それがグローリーの最期であった。


「……往生際の悪かったこと」

 エイダが右腕を押さえて顔をしかめる。

「本当に、不快な戦い……」

 女僧侶の白い手首から指先にかけて、細かな水疱が浮かび上がっていた。

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