第71話 回想の残滓。


 一方の由月は田島を蛍光灯の下に置き、顔色を確認すると、引き留めた吉沢を振り返る。


「座ってください。包帯を取り替えましょう」

「これなら大丈夫よ? 出血も納まったし」

「見ておきたいの」

「研究? 本当に熱心なのね、アナタは」


 由月は壁に沿って並べられた木箱を引き摺り、吉沢の姿を隠す様に並べ直す。

生々しい傷痕を人目に晒さない為の木箱のブラインドだ。

由月は膝をついて吉沢の包帯を解くと、目を細める。


「酷い……」


 大きな歯形がハッキリと分かる程の深い傷。

傷口に貼り付けたガーゼは真っ赤に染まり、握れば血が絞れそうだ。

統也は兎も角、由月の目までは誤魔化せなかった事に吉沢は溜息をつく。


「悪いわね……外の化け物が騒がしいのは、私の所為」

「鎖骨にヒビが入っています。喋らなくて結構です」

「傷は深いみたいだし……もう、駄目かしらね……」

「自衛隊では、そんな諦めも教え込まれるのかしら?」

「まさか」

「そう。それなら何の心配もいりません」

「……アナタは、不思議な人ね?」


 由月は救急箱から新しいガーゼと包帯を取り出し、吉沢の手当てを始める。

傷口を圧迫しないよう、それでいて確りと。

慎重な由月を見やり、吉沢は力無く笑う。


「初めてアナタを見た時は、何て冷たそうな人だろうと思ったけど」

「その見識に誤りは無いかと」

「でも違った。アナタ、とても優しい」

「その見識には些かの誤りがありようです」

「N県へ向かう時、私は怖くて仕方が無かった。

 何で挙手しちゃったのかって、後悔したくらい。

 だって、連れて行くのは素人と子供で、たった3人で守れるものかって……

 でも、アナタの冷静さと『生き延びて欲しい』と言う言葉に目が覚めた」

「……」

「どうして? どうしてそんなに強くいられるの?

 こんな状況なのに、アナタが動じているようには見えないわ?」


 無神経だと言いたいのでは無い。

平静を装える由月の強い精神力に、吉沢は疑問を呈してならないのだ。

由月は目を伏せる。



「私は……強くなんかない」



 由月が思い返すのは、世界に変調が訪れた初日の事。

早朝から大学の研究室に詰めていた所、外の騒がしさに窓から顔を出せば、恐ろしい光景が目に飛び込んで来たのだ。

そこには、自殺する者・次第に蘇える者・生きたまま食われる者・気が狂れたのか、奇声を発して走り回る研究生の姿で溢れていた。まさに地獄絵図。


『教授も皆も、どうしかてるぞ! あんな化け物を捕らえて研究しよう何て!

 大川、俺達だけでも逃げよう!』


 室内に留まるのは、由月と男性研究生の2人ばかり。

死者を捕獲する為、研究室を飛び出した教員や研究員・学生達は混乱の渦中。

既に何が何だか分からなくなっている。

男は震える由月の手を掴み、大学を出るよう迫る。


『で、でも、何処へ?』

『警察に連絡がつかないのも気になるが……兎に角ここは危険だ!

 車で移動しながら、安全な場所を探すしか無い! 大丈夫、お前は俺が守ってやるから!』

『は、はい、』


 研究室は二重扉になってはいるが、この騒ぎに身を置いてはいられない。

傍らにある頼り甲斐に由月は頷くと、男に手を引かれるがまま研究室を駆け出す。

だが、階段を駆け下りようとした所で男の足は失速。

由月の手首にかかる男の握力が、徐々に強まる。


『せ、先輩、どうしました? 早く逃げましょうっ?』

『――』

『ッ……先輩っ、痛いですっ、』


 手首がヘシ折れそうだ。

由月が腕を振り解くと、男は眉を吊り上げて睥睨を強める。


『……何だよ……何でいつも俺を拒むんだよ、お前はぁ……』

『な、何を言っているんですか、先輩、』


 男は由月を力任せに突き飛ばす。

悲鳴を上げる間も無く廊下に倒れる由月を見下し、男は奧歯をギリギリと噛み鳴らす。

白目は真っ赤に充血し、とても正常とは思えない。


『臆病者のお前を面倒みてやってんのは俺なのに……何でそうやって俺を避けるんだ!?』

『せ、先輩、こんな時に何を……? いつ私が先輩を、』

『そうやって誤魔化すな! お前はいつも俺の助けを拒むじゃないか!

 俺はこんなにもお前の事が好きだって言うのに、気づかない何ておかしいだろ!!』

『……し、知らない、そんな……だって、』

『あぁあぁ!! うるさいうるさいうるさいうるさい!!

 お前は俺の物だ!! 絶対に誰にも渡さない!!』


 前触れも無く人格を変える男の狂気に、由月は腰を引き摺って後ずさる。

然し、男に長い髪をわし掴まれ、引っ張り戻されてしまう。


『逃がさない! 逃がさないからな!』

『いッ、痛い、先輩っ、離してくださいっ、』

『お前は俺のモノだ! やっと俺のモノになったんだ! ハハハハ!!

 お前の体は顔と同じで奇麗に出来上がってるんだろぉなぁ! 楽しみだなぁ!

 身包み剥いで、……そうだ! 内臓を掻き出して剥製にしよう!』

『!?』

『ずっと奇麗なままだ! ずっとずっと奇麗なまま、俺の側にいるんだ!』

『ッ、いやぁあぁあぁ!!』


 男の顔を引っ叩き、髪を解放させると、由月は全力疾走。

研究室に逃げ戻り、1枚目のドアを体当たりで閉め、施錠する。


『開けろ! 大川! 開けるんだ!!』

『うぅ、うぅぅ……いやぁぁ、あっちへ行ってぇ!』

『大川! お前には俺が必要なんだ!! 由月、由月ぃ! ここから出て来い!!』

『どうして……どうしてこんな事にっ、』


 何が男を変貌させたのか解からない。一瞬で発狂したとしか思えない。

由月は耳を塞いで蹲るも、男は執拗にドアを叩き、叫び続ける。



『由月! 由月! 由月由月由月由月由月由月由月由月由月ぃいぃいぃいぃ!!』


『やめてぇ!!』



 男の妄執を間近に、時間と共に陽は傾き、恐怖に流した由月の涙も頬の上で乾く。

数時間に渡ってドアを叩けば男も流石に疲れたか、口調ばかりは弱々しくなる。


『……なぁ、由月、開けてくれよ……さっきは怖がらせて悪かった。

 ごめん……ただ、好きなんだ。一緒にいたい。由月にはそれを解かって貰いたいんだ……

 由月がいなけりゃ……折角、自由になれたのに……』


 何を以って『自由』を語るのか分からないが、力無い男の声色に正気を取り戻したのかと期待してしまう。

由月は躊躇いながらもドアの施錠に手をかける。


『あぁ……あれ? ……何だ? 眠くなってきた……』

『……先輩?』

『あぁ、助けてくれぇ……由月、眠いよ……眠いんだ、早く開けてくれ……』

『先輩……』

『ここにも何れアイツらが来る……こんな所で寝てしまったら、喰われて……』

『……』


 ドアの外は静まる。どうやら男は眠りに落ちてしまった様だ。

結局、由月がドアを開錠するには至らず、丸1日ドアに寄りかかって膝を抱え、呆然と時を過ごす。

そして、ドアの直ぐ間近で下品な咀嚼音が聞こえ出した頃、由月は呟く。



『先輩、食べられちゃったのね?』



 そうなって漸く2枚目のドアを閉ざし、静かな研究室の中に1人佇む。



『研究、しなくちゃ……』



 蘇った男は、9日目の今も大学の研究室前をウロウロと彷徨い歩いている事だろう。

そんな姿を想像し、研究室に閉じ籠もり続けた自分自身が如何に弱い存在であるかを思い返し、由月は自嘲する。

だが、由月の以前に何があったかを知れない吉沢には、覚ってやれない心情だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る