第61話 それからー3
目の高さに抱えられた仔狐は、尻尾と耳とを力なく下げている。
「……ぼく、サンナンさんに巣食ってた妖怪を取り込んだでしょ、あれがまだ残ってるのに雷微の妖力をたっぷり浴びたし、本人の魂をほんの一時とはいえ取り込んじゃったから……負担がかかってしまって……ちょっと、良くないことになってて……あんまり人型をとれないんだ」
誰もが絶句した。サンナンさんを死に追いやった妖怪が、またしても仲間を苦しめている。
「くそ、どこまで苦しめりゃ気が済むんだ!」
左之助が、皆の心中を代弁して畳を拳で二度、三度と殴った。
すとん、と畳に降ろされた仔狐の体を、今度は別の手が掬い上げた。険しい顔をした、平助だ。
「もしかして、人型にもどれないほどに消耗したの?」
ぷいっと妖狐の顔が背けられる。
「隠しても無駄だよ。少しは妖怪のこと、わかるんだから」
「そうだよね……うん。白虎たちが追いかけてきて雷微の魂を取り出してくれなかったら……たぶん、ぼくの身体は雷微に乗っ取られたと思う。魂は雷微に取り込まれて消滅していたと思う」
「消耗に拍車をかけたのは、おれと戦ったからだよね、ごめん」
ぶんぶん、と仔狐はものすごい勢いで首を横に振った。
「平助は悪くない! 何にも悪くないんだよ。ぼくが修行不足だったの……」
畳に降ろされた仔狐は、しょんぼりと俯いた。
満足に人型をとれない「沖田総司」など、新選組の役には立たない。悪しきものの気配を纏った狂暴な妖怪も、人のそばに居てはいけない。
皆に、呆れられるだろうか、叱られるだろうか、出て行けと言われるだろうか。心配で、顔が上げられないのだ。
ふるふると、薄汚れて灰色に見える毛並みが、震える。
(皆のお傍に居たいよう……篁も、ぼくを要らないっていうかしら……?)
妖狐もまた、『珠』を持っている。それに罅が入らぬよう、壊れてしまわぬよう、本人はここまで必死に守ってきた。
(お願い……)
「総司……頑張ってくれて有り難う。私は総司を誇りに思うよ」
穏やかに語りながら仔狐を手招きしたのは、源さんこと井上源三郎だった。
ちょこちょこと歩み寄る仔狐は、前足を源さんの膝にかけた。
「源さん?」
「この姿の総司ときちんとこうして話すのは初めてかな? 篁さん。総司は回復する見込みはあるのかい?」
穏やかな視線を向けられ、篁は詰めていた息をほっと吐き出した。
ざんばらに乱れていた髪を首の付け根で括りなおし、気合を入れなおす。
「有る。使い切ってしまったこいつ自身の妖力を回復させれば、自然と治癒力が上がる。そうすれば、元通り、人としてやっていける」
「それなら、いいじゃないか。私は、狐姿だろうが、人姿だろうが、構わないよ。総司は総司だからね。ゆっくり回復してくれればいいんだよ」
仔狐が源さんの膝に面を伏せて泣き出した。
「ああ困ったね、泣かせてしまったよ」
優しく笑いながら、源さんはずっと仔狐を撫で続けていた。
そのまま泣き疲れた仔狐は篁が懐へおさめ、一度冥界へ連れて行って療養させることになった。
「篁さん、総司をよろしく頼む……」
篁の背中に、いくつもの同じ声がかかった。
己が不在の間にすっかり弛みきった隊内の空気を引き締めるため、歳三は苛烈なまでに粛清を行った。
竹矢来で区切ってあるとは言え、寺の敷地内で容赦なく切腹や斬首を行う凄まじさに、誰もが怯え恐れた。
「土方君、いくらなんでもやりすぎだ! 志士というだけだ、殺す必要はないではないか!」
「またあんたですか、伊東さん」
捕縛した志士の処遇や隊規違反をした隊士の処遇について参謀と副長が対立する図が頻繁に見られるようになった。
「俺、もう近藤派にはついていけない。伊東さんについていきます!」
そう公言して憚らない者まで出始め、歳三は頭を痛めた。
そんな中で、よく歳三を理解し、ついていくのはやはり試衛館からの同志たちである。彼らはそれぞれが一番隊から十番隊までの組長を任されているが、どの隊も実によく働いた。
「あんな生温いことで斬り込めるか!」
「机に向かい、腑抜けばっかり作って伊東さんはどうする気だ」
武闘派の新八や左之助、血気盛んな若い隊士が伊東派を見る度にそう吐き捨てることも珍しくなかった。
その狭間で苦悩するのは、平助だ。
試衛館の同志が「新選組を出ろ」と口をそろえて言うのは自分のためだと解っている。その方が良いのも、十分わかっている。
「それでもみんなと一緒に居たいよ……」
はあっ、とため息をついてお茶を流し込んで、傍らに置いた饅頭を口へ放り込む。
「甘くておいしいなぁ……」
言いながら、額の傷を指先でつつっとなぞる。
(すっかり癖になっちゃったな……この仕草)
きっと、この傷は一生消えないだろう……そんなことを考えながら縁側でぼんやりしていると、どこからか伊東一派の声が聞こえてきた。
(ああ、密談中か。聞いてはいけない……)
饅頭を乗せたお皿とお茶を静かに持ち上げてその場を立ち去ろうとしたが、饅頭がぼてん、と落っこちてしまった。
それを拾うために腰をかがめた平助の耳に、伊東がはっきりこういう声が聞こえた。
「しかし、時代の流れ、と言うものは確実に土方君たちに背を向けつつあるのだ。もうこここを出るしかないのだ!」
幕府が何をやってもうまくいかず、むしろやればやるほど弱体化が浮き彫りになる有り様なのは、平助も知っている。
誰もが幕府を見捨てて倒幕に傾いていくなか、会津藩と桑名藩、そして近藤勇が率いる新選組は、幕府を見捨てようとはしなかった。最早新選組が内部抗争などやっている場合ではなくなったのだが、近藤派と伊東派の亀裂は深まるばかりだ。
(うーん……大変なことになっちゃった……)
この時すでに、隊士たちが次々と命を落としていくまさに「悲劇」の幕が、するすると上がっていたのである。
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