4-7「西条憐治」


 佐祐里と望は西条家の手前で桐葉たちと別れた。駆け寄ってきた飼い犬の相手をしてやってから、擦りガラスの玄関の引き戸を開ける。


「ただいま帰りました!」

「お邪魔……します……」


 普段より元気な声で帰宅を告げる佐祐里に続いて、望が恐る恐る中に入る。


「望くん、ほら違うでしょう?」


 佐祐里が望の顔の前で人差し指を立てる。


「う……た、ただいま帰りまし……た」


 望が隣町で見出されてから留学までのニか月近く西条家で身柄を預かっていた。帰国してからも引き続き住むことになっている。つまりここが今の彼の家である。

 望はゆっくりとキャリーバッグを押して進む。床のタイルを傷つけまいとするような慎重さだった。実際の所、床もバッグの車輪もその程度で傷つくような安物ではない。単に傷や音に配慮しているというだけでなく、少しでも床へ上がるのを遅らせようとしている……と佐祐里は感じた。


「帰ったか」


 居間から少年が顔を出した。西条憐治さいじょう れんじ。佐祐里の弟の中学一年生。薄茶に染めた短めの髪には三角巾が巻かれ、体の前面には青いエプロンを着けている。


「ほら、早く上がれ」

「あっ」


 憐治は望のバッグと紙袋を奪うようにして掴んで持ち上げた。有無を言わせぬ早さだった。木張りの床に予め敷いておいた新聞紙の上に荷物を置くと、憐治は戸を開け広げながら居間へ戻る。


「腹はどうだ」


 佐祐里たちを振り向く。佐祐里は先に床に上がると、なおも逡巡する望に手を差し出していた。


「もう、良い感じにぺこぺこです!望くんはどうです?」

「えっと……その……」


 望は佐祐里の手を借りずにゆっくりと家に上がりながらも、なおも言い淀む。


「丁度、お茶を入れた所だ。飲んで待っていろ。蕎麦を茹でてくる」


 耳を澄ませば、憐治と居間の更に向こうの台所から、換気扇の音に紛れて沸騰音が聞こえる。憐治は足を進めかけ、途中で引き返した。


「鳩寺」

「は、はい!」


 呼びかける憐治の表情は、望には不機嫌そうに見えた。思わず縮こまる。


「俺のお茶を冷ます気か。さっき佐祐里に連絡を受けて、今がちょうど適温になるようにしたんだぞ……」

「……は!はい!すみません!」


 慌てて佐祐里を追い抜き、居間へ入る。うろ覚えの室内を見回すと、お茶の置かれた炬燵が目に入る。佐祐里がくれた青いペンギンのワンプリントのクッションで自分の定位置を思い出すと、望は早歩きで近付いていき……。


「鳩寺!」


 憐治が軽く怒鳴る。


「はい!すみません……!」

「その前に、うがいと手洗い!」

「はい!」

「それと仏壇と神棚にも手を合わせろ」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「待たせたな」


 憐治が居間に二人を呼びに来た。居間の炬燵や卓袱台の上でも食事は出来なくはないが、西条家では基本的に台所のテーブルで食事を取る。

 テーブルの上に並べられていたのは温蕎麦と重箱。箱の中身は黒豆や伊達巻、蒲鉾、なます、昆布巻き……つまり御節料理だった。


「え……?」


 望は不思議そうに卓上を見渡す。今は一月の後半であるのに何故、というのもあるが、それ以上に豪華さが目を引いた。

 六つの重箱の中には、伊勢海老や鯛の焼き物まであった。素人目にも御節の中でも特に上等なものだと分かる。


「お正月に帰って来られませんでしたからね、特別に用意して貰ったんですよ。お蕎麦も年越しの代わりです……まぁこちらは普通のお蕎麦なんですけれどね」


 普通と言っても憐治が手打ちした十割蕎麦である。小麦粉を使わない分、手打ちには技術が要る。


「憐治も望くんに腕を披露できなくて寂しがってたんですよ」


 佐祐里は憐治の頬を突付こうとする。


「そんなことはない」


 彼女より僅かに背の低い憐治はそれを躱すと、エプロンを脱いで畳み、卓に着いた。


「ほら、鳩寺も佐祐里も座れ」

「はーい」

「……はい」


 尊大な物言いだが、彼は中学一年生である。三年生の望から見れば当然年下だ。

 彼は中高生くらいには大体この様な態度を取る。姉である佐祐里さえも呼び捨てにする始末だ。それでいて見知った者からは左程不快感を持たれないのは彼の長所ではあるのだが、佐祐里の悩みの種ではある。余計なトラブルを招くから、というのもあるが、それ以上に「お姉ちゃん」などと読んでもらえないのが堪えるのだった。


「「頂きます」」

「……頂かせて頂きます」


 食事が始まった。全員まずは伸びる前に蕎麦を食べ始める。普通なら御節と蕎麦を合わせて食べることは(生蕎麦が余りでもしなければ)少ないだろうが、今回はその稀な例だ。御節は塩分の濃いものが多いので蕎麦汁は普段より薄味にしてある。太めでコシのある十割蕎麦を音を立てて啜る。


「あったまりますねぇ」


 先ほど前で乗っていた車もの家も防寒と暖気はしっかりしている。加えてお茶も飲んだばかりだ。それでも、やはり温かいものを食べたほうが温まるというものだ。特に今日は冷え込む。佐祐里は普段より唐辛子を多めに入れて食べた。

 望は、箸で蕎麦を一定量づつ掴んでは口に運んで食べている。パスタでも食べるかの如き静かさだ。その所作は極めて行儀が良い。いや、必要以上に良過ぎた。他の二人の様子を伺いながら恐る恐る食事をする様は、汁を零すなりの粗相に怒号が飛ぶのを恐れているかのようだった。勿論、この家でそんなことは有り得ないのだが。


「美味いか」 


 憐治は、八割型食べ終えた自分の器にに蕎麦湯を注ぎながら尋ねた。


「は!はい!」


 望は箸を静かに箸置きに置き、姿勢を正す。


「なら、美味そうに食え」

「……お、美味しい!美味しい!」


 望は引き攣った笑顔を浮かべた。


「お前……イギリスでもそんなだったのか?」

「い、いえ……」

「そうか……」


 望は目を逸らす。憐治は暫し考えながら、残りの蕎麦を食べ終え、器を置いた。


「お前も蕎麦湯、要るか?」

「……頂きます」


 漆塗りの蕎麦湯入れを望に渡してやると、憐治は今度は佐祐里の方を向く。


「静かだな……?」


 佐祐里が軽く目を逸らす。


「え、なんのことですか」

「とぼけるな。いつも……と言ってもニか月前か……ともかく、俺が鳩寺に『ほんの』僅かでもキツく言うとモンスターペアレントの如く噛み付いてくるだろう」


『ほんの』に強制を置いて憐治が言った。


「うぐっ」

「なるほど、車の中でやらかし済みか」


 佐祐里が既に車中で過保護行為をやらかして、同じ指摘を受けた事実を憐治は的確に言い当てた。


「良いじゃないですか別に……。望くんは甘やかし過ぎるくらい甘やかして丁度良いくらいですよ」


 佐祐里は指をわきわきと動かし、今にも望に抱きつかんとするような体制を取った。望が困惑する中、憐治のチョップが佐祐里の頭にコン、と直撃した。


「それは分かるが限度を考えろ。かえってコイツの迷惑だ」

「ぐへぇ」

「食事中に妙な声を出すな」

「うぐ」


 二撃目が入った。



 三人は蕎麦を食べ終えた。

 手打ちの十割蕎麦は味が変わりやすい上に、温蕎麦だと伸びやすくもある。それで急いだというのもあるが、それ以上に美味しかった為に一気に食べ終えてしまった。

 だから御節にはまだ殆ど手を付けていない。


「無理に全部食わんでも良いが、伊勢海老と生ものは優先的に食え」

「はーい」


 御節料理は作るのにこそ手間は掛かるが、大量に作った分正月は料理をせずに済むように保存が効きやすいという特徴がある。

 とはいえ、今は一月も後半。正月までに帰国出来なかった望に食べさせる為だけにしては、三人で重箱六つは明らかに多過ぎる。佐祐里も指摘したが、憐治が腕を振るい過ぎたせいである。


「伊達巻辺りも腐りやすいから気をつけろ……どうした?」


 望が無言で料理を見ている。不思議そうな表情だ。


「どうしました?」

「お節って……僕が頂いて大丈夫なんでしょうか?」


 佐祐里と憐治は顔を見合わせる。


「別にお正月以外に食べてはいけないって法も無いでしょう。元々は節句全般で食べていたそうですし。神事的にアリなのか、までは分かりませんが、少なくとも風科の神様はそう言うのは拘りませんからね。大丈夫ですよ」


 わざわざ正月以外に食べようという者がいないだけで、特別タブーということはない筈だ。


「神事……?」


佐祐里の解説を聞いても望は腑に落ちない様子だ。このフォローは完全に予想外だったようで面食らった様にすら見える。

「特にアレルギーは無いんだったな?海老や卵もあるが」

「はい」


 憐治は念の為に尋ねたが、同居するに当たってその辺りは確認済みだ。憐治ともう一度顔を見合わせた後、佐祐里が代表して聞いた。


「望くん、一体何を気にしているんですか?」


 望はなおも少し躊躇った後、口を開いた。


「あの……御節って長男は食べちゃいけないんですよね?」

「は?」

「え?」


 佐祐里と憐治は御節を皿に取り分ける動きをピタリと止めた。


 望の言葉を反芻し、その意味する所を考える。冗談を言っているようには聞こえない。むしろ「こんな当たり前のことを聞いて怒られたり笑われないだろうか」という恐れすら感じられた。彼にとっては、今の意味不明なルールが、例えば信号の青で進む様に当たり前のことなのだろう。


 

「『この家では』良いんだ。俺は毎年食べている」

「……そう……だったんですね……そうなんですか」


 『この家の長男』に言われた望は何かを察したようにゆっくりと頷いた。


「むしろ、自分で味見せずにどう作るというんだ。俺が作った時点で疑問に思うべきだぞ」


 言うが早いか、憐治は飾り切りの蒲鉾を花柄の醤油皿へと運び、醤油と山葵で食べてみせた。そして佐祐里が望に取り分けた御節の皿を、彼女に代わって望に渡した。


「ほら」

「すみま……せん」


 当の佐祐里はと言えば、卓上の何も無い部分を見て押し黙っている。


「……の」

「佐祐里?」


 憐治は、何事か呟いた姉の顔を覗き込みかけて、やめた。


「佐祐里……さん?」

「あのクソ親共……」


 彼女らしからぬ発言に空気が凍った。この場に片桐辺りがいれば、自分に向けられた殺気ではないのは百も承知で腰を抜かしたかも知れない。そんな殺気に当てられながらも憐治はただ一言。


「食事中にそんな言葉を使うな」


 と、目線を合わせずに窘めた。


「あ!す、すいません。えぇと……チンピラ共に言い直します」

「なら良し」


 佐祐里は毒気を抜かれた様子で、表現を訂正した。

 憐治は平然と食事を再開する。


「え……えっと……」


 二人のやり取りに望はオロオロと戸惑い、隣の佐祐里と卓の向かいの憐治を交互に見る。


「お前も協力してくれ……少々作り過ぎた」


 憐治は望が食べやすいように言葉を選んだ。


「さっきも言いましたけど、憐治ったら本当に張り切り過ぎちゃいましたよね~」


 佐祐里も伊達巻を半分に切って口にする。


「手が滑っただけだ」

「滑り過ぎでしょう……スキージャンプなら世界新確実ですよ」

「それは滑るというより、跳ぶだろう」


 二人が、何事もなかったように食事と会話を再開する中、望は自分の皿をじっと見つめる。黒豆の甘い匂いやなますの酸っぱくも食欲をそそる香りに唾を飲み込む。


「望くん、はい、あーん」


 佐祐里が赤い蒲鉾を新たに箸で摘んで差し出す。


「だ、大丈夫です!自分で……頂きます」


 望は皿の上の黒豆をそっと掴み、ゆっくりと口に運んだ。


「美味しい……」

「そうか。どんどん食え」


 憐治は何気ない風を装ったが、微笑みは隠しきれていなかった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 望が普通に食べ始めたのを見て、二人も安心して自分の食事に専念し始めた。佐祐里はなおも一度だけ食べさせようとしたが、憐治に軽く睨まれて止めた。

 そうして数分が過ぎる。ふと望を見た佐祐里は、自分の目を疑った。


「の、望くん!?」

「え……?どうしました……?」


 望の様子に思わず声を上げた佐祐里だったが、当の望のほうも佐祐里の声に驚いていた。憐治は瞑目し溜息をつく。


「どうした、はこっちの台詞だ。まさか何か苦手なものでもあった……という風でもないな」

「あれ……?……あっ…すみません」


 望は二人の反応でようやく目元の違和感に気づいた。涙が流れていた。

 顔を袖で拭おうとすると、佐祐里がハンカチを差し出してきた。望は断ろうとしたが、最終的に佐祐里が半ば強引に望の目元を拭った。


「大丈夫ですか?」

「ごめんなさい……」

「謝らなくていい。どうした」

「その……こんなことを言うと、怒られるかも知れませんが……」


 望はきょろきょろと周りを伺う。


「怒りませんよ!怒る人がいたら撃ち殺、もとい、たたっ斬ります!」

「言い直した意味が無いぞ」


 憐治が呆れ気味に言う。


「この家でお世話になって、色々……お二人や皆さんに良くして頂いて……今日はわざわざ御節まで用意して下さって……」

「気にすることじゃないですよ。それくらい当然です!」

「佐祐里」


 憐治は慰めようとする姉を止めた。まずは望に全部喋らせるべきだろう。


「それなのに……僕は……!」


 望は一度言葉を切り、それから一息で言った。


「二ヶ月も訓練してきたのに!全く成長できませんでした!……ごめんなさい!」


 テーブルに顔を置いて突っ伏し、声を押し殺して泣き出した。


「あの……え?……望くん?」


 佐祐里は憐治と顔を見合わせた。腰を浮かせて、隣の椅子の望の肩を抱いた。


「あの……望くんは何を言ってるんですか?」

「成果はあったんだろう?……お前の苦労と、殆ど毎日送られてくる報告を佐祐里に毎度聞かされていた俺の苦労は何だったんだ?」

「え、それ苦労に数えちゃいます?」


 佐祐里は望を抱いたまま、心外そうに憐治を見る。

 二人が疑問に思うのも無理はない。繰り返しになるが、留学先からの報告を見る限りでは望の戦闘力・魔法制御力は出立前と比べて目覚ましく向上している。今、望が嘆いているのは、単に自己評価の低さゆえ、と思いたかったが……。


「望くん。貴方は間違いなく強くなっている筈ですよ?それとも……何か別の不安があるんですか?」


 佐祐里は望の顔を覗き込む。望は暫く躊躇ってからゆっくりと話し始めた。


「……僕は……ひょっとしたら、力は強くなったのかも、知れません。でも……まだ全然力を制御できる気がしないんです……」

「魔術制御もずいぶん良くなったんだろう?無差別に力を振り撒くだけだったのが、今では大気中の水分だけで繊細な氷細工も作れるようになったそうだな。佐祐里に氷の鶴や蝶の写真を百回は見せられたぞ」


 憐治は励ましながらも疲れた顔を見せた。


「いや、憐治。まだ九十回くらいだった筈でしょう?」

「どの道多い……っ!」


 指導者と生徒のどちらが優秀だったのかは分からないが、実際の所、望の成長は確かに目覚ましかった。この上、何が不安だというのかが二人には今一つ掴めない。


「そうじゃなくて……いえ、確かにそういう小手先のことは上手く……ああっ!!」


 望は顔を起こし両手で頭を押さえる。

 憐治は顔を顰め、望の手を掴んで引っ張る。望は頭皮に爪を突き立てかけていた。


「おい!よせ!」

「あっ!……ごめんなさい!」

「良いから落ち着け。つまり上手く言葉にできない不安がある、ということだな?」

「えっと……はい」


 望はこくりと頷く。


「どういうことですか?」

「さあな。俺の能力もそうだが、魔術師の能力は同系統の能力を持つ者にしか上手く理解出来ないものが多いだろう?無理に聞かれても、コイツも困るだろう」


 例えるなら、先天性の視覚障害者に色の概念を説明するような類の困難に近い。


「ああ……そうなんですか?」


 佐祐里には特に固有魔法だの能力だのと言われるようなものは無い。常人の能力を全般的に強化出来るだけだ。その出力も抑えられるので、日常においては常人と同じ感覚と言って差し支えない。それ自体は良いのだが、憐治たちのような能力持ちの感覚が今ひとつ分かってやれない点だけは不便だった。


「上手く言えないんですけど……その、細かい形を作ったりとかは出来るようになっても……僕の中にある力がふとした拍子で………爆発しそうな、そんな気がするんです。皆さんに見つけて貰った時からずっと……もしかしたらその前から……。その感覚が……!どうしても、いくら強くなっても……消えないんです……!」


 以前から『力が制御できない』という話は何度も聞いていたし、実際暴走させることもあった。だが佐祐里や周囲はそれを技術的な未熟さとしてのみ理解していた。望の不安の正体が精神的なものかもっと別の何かかは分からないが、それは少なくとも技術面とは別の問題であるように思われた。


「望くん……ずっと悩んでいたんですね……憐治、ちょっとすみません。外します」

「ああ」


 佐祐里はテーブルを立ち自室に向かうと、黒いファイルを取って戻ってきた。


「本当は食事の後で見せる予定だったんですけどね」


 佐祐里は再び座ると、ファイルの中身を望に見せた。


「これは……?」

「来週末に行う作戦の計画書です」


 一ページ目に極秘と書かれた書類をペラペラと捲っていく。望には内容は断片的にしか分からなかったが、それ以上にこれを今自分に見せる意図が分からず不思議に思った。だが、佐祐里が手を止めたページに書かれた名前を見て目を見開く。


「望くん、貴方の力が必要なんです」


 そこには作戦の必須メンバーとして、望の名前が書かれていた。


「えっ!?」


 驚く望に佐祐里は作戦の意義や、望の役割について丁寧かつ簡潔に説明した。


「で、でも僕が失敗したら……」

「ご心配なく」


 佐祐里は『想定されるイレギュラー状況への対処について』のページを見せた。

 森の中での作戦に対するイレギュラーとして、急な天候の変化や雪崩、妖怪の大群の急襲、望や他の重要メンバーの失敗などが想定され、それぞれへの対処案も記されていた。


「上手く行けば、僚勇会の整備計画を前倒しできる上に、望くんの修行の成果も見せつけられる、一挙両得です!」

「でも……!」


 佐祐里は書類を卓の端に置いて、望の両肩に手を置く。


「大丈夫。失敗したとしても、力に目覚めて半年の子に大変な役目を押し付けた誰かさんの責任ですから」

「そんな!」


 自分のせいで佐祐里が責められる可能性があると知って、望は青くなった。


「大丈夫ですって!」


佐祐里は望の背中に手を回し、ふんわりと抱きしめる。


「ご覧の通り、失敗しても取り返しが効くようにしてますし、上の許可は貰っています。私が責められるとしても大したことにはなりませんので平気ですよっ」


 再び肩に手を置いて冗談めかして笑う。


「それとも……失敗したら脱ぎましょうか?」

「どうしてそうなる」


 複雑な表情で押し黙っていた憐治も、服の肩口に手を掛けてみせる佐祐里に、流石に口を挟んだ。流石に冗談だとは思いたいが、だとしても望には刺激が強すぎる。


「そうですよね。むしろ上手く行ったらご褒美ですよね。では、成功の暁には秘蔵の瑠梨ちゃん画像を進呈致しましょう!」

「……いや、自撮りをくれてやれ」

「い!いえ!!結構です!!いけません!!」


 望はブンブンと首を振った。首が千切れそうな勢いだった。


「待て。俺のいう自撮りは如何わしい意味じゃないぞ」

「え……あ……?」


 憐治が見抜いたとおり、どうも望の中では「自撮り≒R18」という認識だったらしい。望は急な指摘に戸惑って左右を見回す。


「そうですよね、私のより瑠梨ちゃんの写真ですよね!」

「佐祐里はそうだろうがな……」


 憐治が呆れていると、柱時計が九時を告げた。


「っと……この辺にしておきますか。望くん、明日の会議で改めて説明しますので、その時に私の要請への答えを聞かせてください」

「あっ………はい……」

「断るなら早いほうが良いぞ」

「憐治!」


 佐祐里の声には非難の色が混ざっていた。


「下手にプレッシャーを掛けて潰したら元も子もないぞ。自身を付けさせるためにしても荒療治が過ぎるぞ」


 憐治は片手で額を抑えながらまた顔を顰める。


「大丈夫です!能力値的には全然余裕の筈です!」

「……そうか」


 深く溜め息を吐く。憐治は組んだ両手を胸の前で打ち合わせてから、解いた。


「さて、まだ食えるか?」

「あっはい」


 二人の言い合いの間、オロオロしていた望が佇まいを治す。


「無理はせんでいいが、明日は疲れそうだぞ。食えるなら食べておけ」

「……はい」


 食事を終える頃、六つあった重箱も結局四つは空になった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 十一時半。三人は布団を三つ並べて、畳の間で横になっていた。西条家の平均的な就寝時間よりは少し早い。


「佐祐里、鳩寺は起きているか」

「いえ」


 真ん中の佐祐里は横の望が寝ていることを確認して、返事をした。


「無茶を考えたな」

「無茶じゃありませんよ、望くんなら絶対できます」

「失敗したら立ち直れんぞ」

「大丈夫ですよ。フッフッフッ」

「何かろくでもないことを考えていないか?」

「いえいえ」


 佐祐里は仰向けになる。


「それと……」

「なんです?」

「いや……何でも無い。お休み、佐祐里」

「お休みなさい」


 それでこの日の会話は終わった。憐治も仰向けになる。


 憐治が言いかけて止めたのは、先程のファイルの件だった。望が実は起きている可能性を考えて黙ったのだ。

 憐治は、ファイルの付箋の一つが、ある箇所から裏表紙側へ向けて付けられていたことに気がついていた。そこから先のページを抑えるような形だった。

 そこに、望に知らせたくない何らかの情報があったのだろうことが窺い知れた。


 単に機密情報だから、というだけならば良いが、どうしてもそれ以上の意味があるように思われてならなかった。しかしそれ以上は憐治の持つ情報からは推測出来ない。漠然とした不安を抱えながら、憐治は眠りに落ちていった。

 



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