第17話 万国共通の視野狭窄
下半身が動かない。
引き寄せた鉄骨が、腰と足を下敷きにしていた。
撃たれた脇腹からは血がとめどなく溢れ出してくる。その暖かな液体に自分自身が浸っていくにつれ、反比例するように身体の芯が冷えていった。
(――終わるのか)
過ぎった気持ちは、無念なのか安堵なのか……自分でも、もうよくわからない。
ここで終わるべきじゃないのか、もう終わってしまえばいいのか。ウイルスに浮かされた頭では、ぐちゃぐちゃのまぜこぜで整理がつかない。
デリック・バーネットにとって、リリヤ・エクルース・フルメヴァーラは、宿敵なのか? 許嫁なのか?
ふわふわと泡のように、心の底から浮き上がってくるものがあった。
それは記憶だった。
あるいは、走馬燈だった。
※※※
勇者から魔神への転身を遂げたオレを、当然ながら人々は畏れた。
騙されたとなじる奴もいたし、一人娘を差し出して許しを請う奴もいた――神霊に名を捧げ、人間ですらなくなったオレに、行く当てなんてどこにもありはしなかった。
自業自得だ。
自分勝手の代償だ。
魔神王を倒すと宣言した。世界を救うとぶち上げた。仲間を集めた。大勢を協力させた。そのオチがあれなんだから、憎まれるのは当然だ。
中身のない希望なんて、絶望よりもタチが悪い。
後悔? したさ。何度もした。どうして一時の感情に引きずられてすべてを台無しにしたんだと。いやいやそれ以前に、どうしてオレはたった一人の妹を守ることもできなかったんだと。というか、
なんで、お前がいたんだ。
お前さえ。
魔神王の娘さえ、いなければ。
オレは、
『今日は虫の居所が悪いようね』
『てめえの顔を見てるときはいつも悪りぃよ』
『まったく同感だわ。もう殺してもいい?』
『ああ。きっと死に顔ならオレの虫も大人しくなるだろうな』
何も考えずに済んだ。
あの女と殺し合っているときだけは、何も考えずに済んだ。
救うはずだった人々に恐れられることもなく、助けるはずだった人々に憎まれることもなく、ただ、憎むべくして憎んだ女に、憎まれるべくして憎まれるだけで済んだ。
世界に、ただ二人だけでいい。
オレとこの女以外は、もう必要ない。
そして、いつかこの女が死んだなら。
オレという存在も、その瞬間まででいい――
『――はは』
『――あはは』
『――はははははははははは!』
『――あははははははははははははは!!』
力尽きるまで殺し合い、決着がつかなかったことに舌打ちして、また救わなかった世界に沈み込む。
空を見上げて、太陽が過ぎる数を数えた。
次にあいつと殺し合えるのは、いつのことになるだろう。
※※※
「――君! 聞こえるか、君っ!」
霞んだ意識が、再び明瞭さを取り戻した。
ゆっくりと瞼を上げると、見覚えのない男たちがこちらを覗き込んでいる。
誰だろう……。視界の端に見える彼らの服装は、天見隊の機動隊員のそれに似ていた。
「目を開いた……! 意識があるぞ!」
「くそっ、血が止まらん……! 担架はまだか!」
ああ、そうだ。
彼らは確か、ペイルライダーを追いかけようとしたときに邪魔をしてきた連中……。デリックをテロリストと勘違いして、容赦なく銃撃してきた奴らだ。
警戒感が高まって、感覚が戻って、それからようやく、腰から下の重みが消えているのに気付いた。
(オレ……鉄骨の下敷きになったんじゃ……)
間違いなく死ぬと思っていたのに……そういえば、どうして意識が戻ったんだろう。
天見隊の男の一人が、デリックの脇腹を強く圧迫していた。銃創から溢れる血を止めようとしているのだ。
助けようとしている?
いや……すでに、下敷き状態から助けられた後なのか。
一体、どうして……彼らにとって、デリックは敵のはずなのに。
「すまない……! 許してなどくれないかもしれないが、詳しく確認もせずに撃ってしまったことをどうか謝らせてくれ……!」
男の一人が、デリックの顔を覗き込みながら言った。
「そしてありがとう。君は我々の命を、その身を挺して救ってくれた! そんな君が、どうして卑劣なテロリストなどであるものか! なぜ君のような少年がここにいたのか、それは今は聞かない。だから、まずは生きてくれ、少年! 我々に、本来の職務を全うさせてくれ……!!」
(……ああ……)
捨てたものじゃない。
本当に、捨てたものじゃない。
かつて勇者だった頃、人とは救い助けるだけの対象だった。
かつて魔神だった頃、人とは憎まれ恐れられるだけの障害だった。
勇者になり損ね、魔神をドロップアウトして、何者でもないただの人間に戻り――そのおかげで、救うばかりではなく、恐れられるばかりではなく、こうして救われることもあるのなら、ああ……本当に捨てたものじゃない。
だが、今は感じ入っている場合ではない。
助けられている場合ではない。
行かねばならない場所がある。
戦わねばならない人間がいる。
殺すのか、守るのか……未だ判然とはしないが、それでも、自分は彼女と同じ場所にいなければならない。
「お、おい……!?」
天見隊の男たちの驚いた声を無視して、デリックは身を起こした。
激痛が走る。うまく力が入らない。まともに戦えはしないと、冷静な自分が判断した。
「……行くんだよ……オレが、行くんだよ……」
譫言のような呟きは、きっと一種の呪文だ。
自分自身に呪いをかける、魔力のいらない魔術だ。
そう。とっくの昔に、自分は呪われている。
その呪いの名が、果たして憎悪なのか、復讐心なのか、それとも他の何かなのかもわからないまま、ずっとずっと呪われている。
自らかけた呪いだった。
彼女とかけ合った呪いだった。
呪いという名の……たったひとつの絆だった。
「……そうか、君は……」
天見隊の男たちが、不意に顔を見合わせてうなずき合う。
それから、無理に身を起こそうとするデリックの肩を、そっと優しく手で押さえた。
「悪いが……君の寝言を聞かせてもらっていた」
……寝言?
夢なのか記憶なのか判然としない光景が、脳裏にぼんやりと過ぎる。
その中心には、姿を忘れてしまった一人の少女がいた。
「君はずっと呟いていたよ。誰かの名前をね」
「行くべき場所があるのだろう。守るべき人がいるのだろう。しかし、ならばこそ手当を受けるんだ」
もう一人の男が諭すように言い、白い歯を出して笑ってみせる。
「なあに、案ずることはないとも。君の行きたい場所には連れていく。救急車がタクシー代わりにされるなど、いつものことだからな!」
両脇と両足を担がれたかと思うと、「「せーの!」」と声が重なり、担架の上に乗せられた。
「……どう、して……?」
見ず知らずのはずだ。
どころか、さっきまでは敵だった。
たった一度、命を助け、助けられただけの、決して濃くはない関係だ。
お互いに名前すら知らない。人種も違う、故郷も違う。きっとエドセトアの外では、言葉すら違うものを使うだろう。
なのにどうして、わかるのだ。
デリックのやりたいことが。やらなければならないことが。
――オレたちは、1000年も前からずっとわからないのに。
「なぜわかるかって? そりゃあ俺たちも、かつては君みたいな少年だったからさ」
30代ほどに見える無精髭の男が言う。
「合理も道理も関係ない。他者からすれば欠片も理解できないことに情熱を注ぐ……その気の迷いのような、しかし何よりも大切な視野狭窄の名前を、俺たちもまた知っているからさ」
「君と我々は違う人間だ」
と、ともすれば10代にも見える若々しい男が言う。
「名前も知らない。性格も知らない。好きな食い物は何か音楽は何か。巨乳派か貧乳派か、男が好きなのか女が好きなのか、その両方なのかどちらでもないのか――何も知りはしない無関係者だ。
しかし、その言葉なら我々も知っている。君もきっと知っているし、知らなければ今知ることになる。
薔薇色か灰色かの違いこそあれ、それは誰もが経験するのだから。どんな髪の色でもどんな肌の色でも、どんな言葉を使っていてもどんな時代に生まれていても――きっと多くの人々が、それぞれの言葉でそれを語ることができるだろう。その共通言語のために、無関係な我々は今だけ君を理解するんだ」
「……それ、は……?」
そして、かつて少年だった男たちは、とびっきりにクサい笑顔で告げた。
「「青春」」
※※※
対魔術師用人型兵器《ホース・シュー》が岩山のような巨剣を振り上げ、その影がリリヤを覆った。
走馬燈はない。
あるいはあったのかもしれないが、すべては頭の中で反響する言葉に塗り潰された。
――飽きた。
リリヤへの復讐に――
リリヤとの殺し合いに――
飽きた。
どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
どうして、こんなに涙が溢れるのだろう。
まるで、世界に一人きりで取り残されたよう。
……なんで? なんでよ?
あなたは……あなただけは。
ずっとずっと、私の敵でいてくれたのに――――
「――――勝手に人を飽き性にするんじゃねえよ」
影に、影が重なった。
ズウンと衝撃が響き、しかし、リリヤの意識が途切れることはなかった。
足が見える。
膝が見える。
腰が見える。
真新しい包帯がお腹に巻かれ、余った部分が風に靡いていた。
彼が、私を見下ろしている。
魔術機剣で巨剣を受け止めながら、デリック・バーネットは悠々といけ好かない笑みを浮かべていた。
リリヤは問う。
「私を、殺しに来たの?」
デリックは答える。
「ああ――お前を、殺しに来た」
ギャリリッ!! と火花が撒き散らされたかと思うと、巨剣が横にいなされた。
地面にめりこむ巨剣の余波を横ざまに浴びながら、デリックは魔術機剣を振り上げる。
冷徹な眼光が、動けないリリヤを射貫いた。
「――ふ、ふふ! そうよ。そうすればいいのよ、ゼウス!」
割り込んだのは、喜色の滲んだペイルライダーの声だ。
「その女の父親が、あなたの妹を殺したのよ――その女を殺すために、あなたは世界を丸ごと見捨てたの。ケリをつけましょう? 今こそ果たしましょう、1000年来の悲願を―――」
「黙れ」
ザン、と。
躊躇なく、魔術機剣が振り下ろされた。
同時、リリヤの全身に強烈な電流が駆け巡る。
激痛が走り、息さえ止まり、意識がブラックアウトした――
――直後、明瞭になった。
「……え?」
身体から気怠さが抜けていた。
手足に力が入る。喉も痛くない。健康そのものの体調を取り戻していた。
(……あ……)
あの電流。
今さっき流れたあの電気は、デリックの魔力だ。彼の魔力によってリリヤの霊子経が洗浄され、ウイルスが追い出された――
「…………何を、しているの?」
冷え切った声がした。
「つまらないわよ、ゼウス――そんなどんでん返し、ぺいは求めてない。この世の誰も求めてない。また台無しにする気? 魔神になったあのときのように、1000年もかけた復讐を――」
「そっちこそつまらねえことしてんじゃねえよ、ペイルライダー」
デリックは剣身に余った電気を血振りして逃がしながら、古き同類に向き直る。
「てめえ――このオレをさしおいて、誰を殺そうとしてやがった? このオレをさしおいて、何を終わらせようとしてやがった!?」
怒声がしたたかに空気を叩き、ペイルライダーがふわりと、銀髪を揺らした。
「これは、オレの復讐だ。コイツはオレの宿敵だ。他の誰でもない、このオレだけのものだッ!!」
リリヤの脳裏に、記憶が蘇る。
王城で殺し合ったことが蘇る。
荒野で殺し合ったことが蘇る。
樹海で殺し合ったことが蘇る。
山頂で殺し合ったことが蘇る。
深海で殺し合ったことが蘇る。
天空で殺し合ったことが蘇る。
宇宙で殺し合ったことが蘇る。
数え切れないほど繰り返した、彼と二人だけで積み重ねてきた
「出る幕じゃねえんだよ、ペイルライダー―――」
そして、彼は剣を向けた。
本来はリリヤだけが独り占めすべき敵意を、今だけは無粋な乱入者にぶつけるために。
そして、彼は語る。
リリヤ以外の誰にも理解できない、気の迷いのような、しかし何よりも大切な視野狭窄を―――
「―――オレの
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