二十二

 疲れた心と身体に、泥のように深い眠りが訪れた後、目が覚めると、慣れない寝台の感触と共に、白い陽の光が目に入った。朝だった。

 傍らで丸くなって眠っていたはずの主人が、いつの間にか居なくなっているのに気付いて身を起こす。アーシュラは長椅子に腰かけ、まどろむゲオルグの頭を膝に乗せて、彼の巻き毛を撫でていた。

「……おはよう」

 そして、エリンに気が付くと、顔を上げて微笑む。

「もう少し休んでいても良いのよ」

「いえ……」

 いつまでも彼女のベッドを使っているわけにもいかないので、頭の芯にこびりつく眠気を振り払って立ち上がる。秋らしい青空が、カーテンのレース越しに目に入る。とても良い天気のようだ。

「ゲオルグったら、よく寝る子よね」

 アーシュラは笑った。あまりに平和で、甘い朝の光景。けれど、重く残酷な現実が、彼らのすぐ傍までやって来ている。

 エリンには、彼女に、まだ伝えなければいけないことがあった。

「殿下……」

 意を決して口を開くエリンに、アーシュラが言った。

「結婚式は、中止にするわ」

「え……」

「戴冠式の準備を進めなくてはいけないから」

 静かに、けれど重く。彼女はエリンを見て、小さく頷いた。

「大丈夫よ」 

「……気付いておいでで」

 驚愕を隠せないエリンに、アーシュラは悲しく微笑む。

「ツヴァイの様子がおかしかったわ」

 そして、アーシュラは堪えるように瞳を伏せた。

「……きっとお祖父様の身に何かあったのだって。そして……ご無事の知らせが無かったから」

 朝の太陽が、彼女の華奢な体を清冽な光で縁取る。

「ねぇ、エリン」

 アーシュラの声が震える。

「ツヴァイは……どうしている?」

 その問いに答えるのは辛い。

「先生は……」

 けれど、隠せることではないのだ。

「……陛下と共にゆかれました」

 ようやく、アーシュラの瞳に涙が浮かんだ。

「あなたに……ご婚礼の予定を台無しにしてしまって申し訳ない、と……謝っておいででした」

 エリンが告げると、少女は背中を丸め、恋人の頭を抱え込むようにして、声を殺し、肩を震わせる。

 ツヴァイが主を守れなかった理由は明白だ。それがアドルフの命令が呼び込んだ結果であることを知っていたとしても、それは彼女にとって、大変に辛いことだった。ツヴァイがどんなに主を愛していたかは、とてもよく理解していたし――

 それに、アーシュラも、それからベネディクトもだ。ふたりとも、幼い頃から優しい祖父の剣が本当に、大好きだったから。

「……アーシュラ」

 ふいに、ゲオルグの声がした。枕が動いて目を覚ましたのか、彼はのんびりとした調子で言って、長い腕をヒョイと伸ばす。

「泣いているのかい?」

 彼が今の話を聞いていたのか、いないのかはエリンには分からなかった。彼の声を聞くと、アーシュラはすすり上げて首を振る。

「……今だけよ。もう、わたくしは決して泣かないの」

「それは……勇敢だね」

「……ゲオルグ、結婚をやめましょう」

「えっ!?」

 ゲオルグは声を上げて飛び起きる。

「何だいそれ、僕が嫌いになった?」

「……違うの」

 アーシュラは泣き顔のままかぶりを振る。

「お祖父様がお亡くなりになりました。わたくしはこれから、帝位を継ぐ準備をはじめなければいけません」

「え? 陛下が? ……えっ……」

「だからね……」

「ちょ、でも! それ、結婚とは関係……無い、よね?」

「無いわ」

「じゃあどうしてやめるとか!」

 ゲオルグはアーシュラの小さな手をギュッと両手で包むように握りしめて、懇願するように言った。彼の情けない悲鳴で、悲しみに沈んだ部屋の空気が僅かに緩む。アーシュラは気を取り直したように涙を拭った。

「……お祖父様は殺されてしまったの。これから……わたくしが帝位を継いで、この城は安全でなくなるかもしれない」

 そして、彼女はもう泣かなかった。

「あなたはまだ別の道を選ぶことができる。私と一緒に来たら、あなたも無事ではいられないかもしれない」

「アーシュラ……」

 呆然と呟くゲオルグの手を剥がして、アーシュラはそっと立ち上がる。

「……お祖父様にお別れの挨拶を言ってきます。ゲオルグ、愛してるわ。あなたのこれからを辛いものにはしたくないの。だから、わたくしが今言ったこと、よく考え――」

「結婚してください!!」

 キッパリ言い放って手を伸ばし、婚約者の手を掴み直した。

「ゲオルグ……?」

 彼があまりにあっさりと断言するので、アーシュラは拍子抜けしたように目を丸くする。全く考え無しな発言をしたかのようなゲオルグであったが、今までずっとそうであったように――彼は真面目だった。

「そりゃ……昨日みたいなことは、怖いし、嫌だけど。あと痛いのとか、もちろん殺されるのとか……嫌だけど! だけどね、それは違うよ……違うんだ」

 昨夜の出来事を超えて、彼がこんな風に彼らしく楽天的であってくれることは、なぜだか、とて尊いことのような気がした。

「僕は、君と生きてみたい。それは……たとえ後悔することになったとしても、選ばなかったよりは、ずっとましなはずなんだ」

 ゲオルグの必死の言葉をアーシュラは黙って聞いて――やがて、気が抜けたような笑顔で、前言撤回を受け入れたのだった。






 皇帝の死去について、アヴァロンはすぐには発表しなかった。事情を知る近衛兵や使用人に対しても厳重に緘口令が敷かれ、外から見れば何事も無いまま、数日が過ぎた。

 そして、あの夜起きた事件を知り得た、数少ない人間のひとりであるベネディクトは、城の自室に籠もったまま、ろくに食事も取らず、瀕死で運び込まれた双子の看病をしていた。

 彼はコルティスの遺産というべき重要な人脈を受け継いでいた。アヴァロン家に仕える衛兵や使用人を輩出するいくつかの家への強力なつながりだ。どの家の者もバシリオに恩義があり、理不尽な彼の死により逆に結束を強めていた。

 すでにアヴァロン城内には、ベネディクト=エイミス・ハミルトンの味方といえる者がかなり存在する。双子を招き入れ、そして逃したのもその者達であった。

「あ……るじ、さま……」

「カラス、僕はここだよ」

「あつい……なにか、燃えて……」

 目を潰されたカラスはずっと高熱にうなされていた。医者によれば、傷は脳には達していないらしいけれど――

「熱があるだけだ、カラス。大丈夫、すぐに良くなるから。大丈夫だよ」

 ベネディクトは必死に声をかける。

「あるじ様こそ……少しお休み下さい……」

 苦しげに目を閉じていたクロエが、弱々しく言った。

「クロエ……目がさめていたのかい? 何か飲む?」

 少年は微かに首を振って、再び目を瞑る。二人とも、一命は取り留めるだろうと説明を受けてはいたが、彼らが眠るたび、もう二度と目を覚まさないのではないかと恐ろしかった。そして、二人を寝かせたベッドの間に長いことうずくまり、ベネディクトは、自分が始めてしまったことの大きさと罪深さにおののいた。

 ――まさか、あの恐ろしい祖父が、こんな簡単に死んでしまうなんて。

 双子はアドルフが息を引き取るところを確認したわけではないし、アヴァロンから未だ公式の発表は無い。

 だけど逆に、祖父が生きていたなら、双子は生きてここへ戻ることはできなかったような気がする。

「…………」

 恐ろしい。刺客を放つ前は、姉と祖父が死んだら、自分はどんなに満足するだろうと想像していたのに、心がとても重かった。

 けれど、手負いとはいえ、双子がこうして生きて戻ってきてくれたのは、神と、死んだコルティス親子の加護のような気がする。

 心は晴れないけれど、きっと、自分は正しかったのだと思えた。

「……るじ、さま……どこ……」

「ここだよ、カラス」

 少年の熱い手を握る。痛みと高熱と暗闇の不安の中で、彼はベネディクトの手をギュッと強く握り返した。

「めが……」

 目を潰されるなんて、どんなにか苦しかったことだろう。ベネディクトは彼を安心させるよう、明るい声を出す。

「大丈夫だよ、カラス。身体が良くなったら、きっとお前に新しい目を作ってあげる。また見えるようになるから、心配しないで」

「また……見えるように……?」

「そうだよ。お前の美しい目は、きっと元に戻るから」

「よ……かった……」

 安心したように口元を緩めるカラスに、ベネディクトは安堵する。

「あるじさま……」

「何だい?」

 ベネディクトの手を握ったまま、カラスは見えぬ目で声のした方を見る。

「もっと……もっと強くなって、あるじ様を守ります。そして、きっと……」

 あの夜の恐怖と屈辱に、少年は唇を噛んだ。

「……エリン・グレイに復讐を」






 暫くの後、帝室は皇帝のと皇女の結婚の延期、そして、エウロ全土が半年の喪に服した後、すみやかに新帝の戴冠と婚礼の儀を執り行うと発表した。

 長く安定した善政を敷いたアドルフの死は広くエウロに悲しみをもたらしたが、重苦しいムードは長くは続かなかった。

 新しい皇帝の誕生と、平民出身の少年がその夫になるという明るいニュースが、エウロの人々に新しい時代への希望を与えたからだ。






 そして、季節が巡り、春が来る。

 すばらしい晴天に恵まれた日だった。

 戴冠式と結婚式が同時に執り行われるという異例の事態に、アヴァロン城はかつてない高揚感に包まれていた。

 普段は決して許可されることのない衛星中継のカメラがズラリと並び、大勢の招待客――貴族達はもちろん、ゲオルグの故郷ミラノの市民も多く招かれることになった――が、広間を埋め尽くす。警備は異様と評されるほどに万全を期された。アヴァロン城の周囲だけでなく、戴冠式後にはパレードが予定されていたため、城下の街角にもくまなく兵士が立って目を光らせる。街は緊張と興奮に包まれ、街頭のモニタというモニタには、満員の大広間が映し出される。やがて現れる美しい皇帝をひと目見ようと、他のどんな祭りの時よりも、大勢の人が集まり、彼女の登場を待っていた。


 真紅の絨毯が敷かれた大広間の中心に、紫と金の刺繍で描かれたスミレの紋章の旗と、三百年の平穏を保つ玉座。千年前の封建社会の伝統に倣った形式で行われるアヴァロン朝の戴冠式ではあるが、皇帝に冠を授けるのは神ではなく、彼女を終身独裁官に任命するエウロ議会の議長である。

 玉座の脇では、彼女に先駆けてこの広間で儀式に臨み、アヴァロン大公としての位を賜ったゲオルグが、冠を頭に戴き、緊張の面持ちで立っていた。

 厳かにアンセムの演奏が始まる。そして、やがて、あらゆる希望をその身に纏い、アーシュラが広間に姿を見せる。

 集まった全ての者達が、呼吸を止めてその姿を目に焼き付けた。


 花嫁衣装も兼ねたドレスに身を包み、紫のローブを纏ったアーシュラは華奢で、若々しく、可憐で――しかし、自信に満ち溢れた微笑みを湛えていた。

 固唾を呑んで見守る幾億の視線の中、ゆっくりと進み出た彼女は玉座の前に跪き、小さな体で、その重い冠を受け取る。

 冠を頂いた少女が立ち上がり、玉座の前に立つ。ゲオルグがその足元で膝を折ると、波紋が広がるように次々と人々が彼女に跪礼した。

 アーシュラの気高い紫の瞳は誰の方も見ず、ただ遠い、彼方の幻の山を見つめているように思えた。

 ――それが、エウロに新しい皇帝が誕生した瞬間であった。


『世界で最も尊く、美しい新郎新婦である』と、自治区下の各新聞は大層な見出しを競って書き立てた。テレビでは、戴冠式に結婚式、その後のパレードの様子が繰り返し流され、笑顔で手を振る二人の姿が目に入らない日は無いほどだった。

 可憐な新帝には安定を、平民出身の大公には革新を。それぞれ人々は期待したのだ。

 だが、新たな時代の到来にエウロ全土が歓喜と希望に包まれる中、またひとつ、世に伏せられた事実があった。

 それは――戴冠式を終えた少し後、儀式の熱気から日常の静けさを取り戻した城の中で、皇帝アーシュラが、体調をひどく崩し、倒れたということである。

 はじめ、エリンもゲオルグも、行事が立て込んだことで疲れを溜めてしまったのだろうと考えた。いかにもあり得ることだ。だから、いつものように、まもなくケロリと元気な彼女に戻るのだと、そう信じて疑いはしなかった。

 けれど違ったのだ。この数年、長く良い状態で安定していたアーシュラの体調は、加速度的に悪くなっていった。熱を出して寝付く時間が長くなり、食べられる食事の量も減っていく。

 彼女の妊娠が発覚したのは、そんな中でのことだった。


「お願いだよ! アーシュラ!!」

「……そうです、陛下。どうかお聞き分け下さい」

 枕元でゲオルグとエリンが珍しく口を揃える。二人の顔を代わる代わる見て、アーシュラはくすくすと笑う。

「二人とも、心配のしすぎだわ」

 青白い顔をして、かれこれ何日も寝込んだままのアーシュラは、しかし、上機嫌だった。

「ここのところ体調が良くないのは、きっとつわりだったのよ」

「そ、そうかもしれないけど、ね……」

「……そんなわけが無いでしょう、馬鹿なことを仰らないで下さい!」

 二人は出産に反対していた。もちろん、子供を授かったことは喜ばしい。けれどあまりに彼女の具合が悪すぎるのだ。医者も、現状のままでは妊娠を継続して母子ともに無事で居られる可能性は低いと言う。それなのに。

「大丈夫よ」

 こんなことを容易く言うのだ。

 主治医から子供を腹に宿したことを伝えられた時、アーシュラはさほど喜ぶような様子は見せなかった。だから主治医も安堵して、今の体調を考慮すると、出産に命の危険を伴う可能性があることを充分説明した上で、今回の出産を見送ることも検討したほうが良いのではないか、と打診した。

 アーシュラは黙ってそれを聞いて、そして翌日ゲオルグとエリンに、出産をすることにしたと、あっさり宣言したのだった。


「エリンから何とか言ってよ……」

「……既に申し上げております」

「彼女、ああ言い始めたら聞かないよ?」

「ええ……」

 少し話をしてすぐに眠ってしまった皇帝を置いて、ゲオルグとエリンは二人で廊下に出て、顔を突き合わせて息をつく。今まで、ほとんどアーシュラ抜きで話をする機会の無かった二人であるが、彼女の懐妊を知った後からは、こうして二人で頭を悩ませることが多くなっていた。

 ゲオルグも、そしてエリンも、彼女の希望は叶えてやりたいのだ。

 けれど、危険の方が大きいとなれば話は違う。今回限りと決まった話ではないのだ。出産はまた体調の良い時期を見計らって挑戦すれば良いのではないか。

 アーシュラがエウロ皇帝であるという事実を抜きにしても、やはり、大切な彼女の体より、まだ見ぬ子供を優先する気分にはとてもなれなかった。

「っていうかアーシュラ、最近様子もおかしい気がする……」

 ゲオルグは心配そうに俯いた。別に、新婚早々夫婦仲がうまくいかないわけではない。むしろ、以前以上に睦まじく過ごしてはいるのだ。

「……そうですね」

 エリンもそう言うしか無かった。

 確かに、彼女は変わった。どのように変化したかを言葉で説明するのは少し難しいけれど、確実にいえることは、さらに強くなったということだ。泣き言を言わなくなって、我が儘も言わなくなって、癇癪も起こさなくなった。以前より、もっと優しくなった。祖父が殺されたからか、弟に憎まれたからか、子供を宿したからか。それら全部がきっかけのような気もするし、そうではないと言われても不思議には思わない。

 彼女のであるエリンにはわかる。アーシュラの心のなかには、エリンにも、誰にも、決して手を触れることの出来ない孤独な芯がある。

 それはきっと、幼い頃から彼女の体が彼女自身に与え続けた苦痛が育てたものだ。半身であるはずのエリンさえ、彼女の痛みを身代わりに受けることは出来ない。痛みはいつも、彼女に孤独を押し付ける。

 痛くて、苦しくて、眠りたくても眠れないような夜、アーシュラはひとりきりでそれに向き合って、そして、ひとりで先に色々なことを知ってしまう。

 ――そんな時エリンは、彼女に置いて行かれるような気がして、いつも心細く思うのだ。

 

 彼女が臥せりがちとなったせいで、ゲオルグは皇帝の補佐役として、執務の代行をいきなり担当することになり、とても忙しかった。そんな中で、彼女の気分の良い時を見計らっては出産を諦めろと説得するのは気持ちの参ることだ。

 けれど、アーシュラは二人が同じことを何度繰り返しても、少しも怒らない。笑う元気のある日はニコニコ笑って、そうでない日でも穏やかな顔で、説得を受け入れることは頑として無かったけれど。


 二人の努力が実を結ばないまま、彼女の腹の命は順調に育っていった。そして、アーシュラは胎児に命を与えるように、目に見えて衰えていく。見知らぬ生き物に内側から食われるように痩せ細っていく妻の姿に、日が経つにつれ、ゲオルグは恐怖を抱くようになっていた。


「……エリン、僕はやっぱり、彼女に出産をさせるべきじゃないと思う」

 ある夜、彼女を見舞った後、ゲオルグは怖い顔で言った。

「このままでは本当に死んでしまうよ」

 彼女の承諾無しに妊娠を終わらせることは出来ない。けれど――父であり、夫であるゲオルグだけは、アーシュラの命を救うという名目で、彼女の意志を無視することができる。

「大公殿下……」

 エリンは何も言えなかった。何も言う資格が無いからだ。けれど、彼女の希望と命を天秤にかけるなら、迷わず命をとる。

 ――生きていてくれないと駄目だ。

「……罪の半分は、私に」

 エリンの言葉に、思いつめた様子のゲオルグは少し笑う。

「ありがとう。最初からそのつもり」

 そして、緊張した表情に戻って言った。

「――共犯者になろう。彼女のために」


 子が育ちすぎるほどに、あらゆる危険は大きくなる。ゲオルグはその夜のうちに主治医と打ち合わせをして、彼女を裏切る手筈を整えた。

 彼女を自然に眠らせて、そのまま子を殺してしまうことにしたのだ。昏睡状態のうちに状況が悪くなり、やむを得ず胎児の命を諦めたのだという説明は、彼女の具合から鑑みても充分言い訳として通るものだ。

 その罪さえ引き受けてしまえば、今彼女が子のために絶っている薬も使えるようになるし、後は――あらゆる手段を講じて、彼女の健康を取り戻せばいい。

 そうすれば、またいつか、子供を授かる機会もあるかもしれない。いや、たとえその機会が永遠に来ないとしても、彼女が命を落とすよりは良いのだから。

 秋が訪れていた。

 もうじきに、彼女の二十一回目の誕生日がやって来る。


 翌日、ゲオルグは朝からの執務を休んで妻の病床を見舞った。穏やかな、明るい曇りの日だった。

「アーシュラ、気分はどう?」

「……今日はね、随分良いのよ」

「そう……何よりだ」

 ゲオルグはぎこちなく微笑んで、彼女の熱い額に口づける。

「今日はねえ、とても良い報告があるの」

 彼女はやつれた顔で笑う。

「報告?」

「分かったの」

「何が……」

「女の子よ」

 そう、嬉しそうに断言した。

「えっ……聞いたの……!?」 

 出産についての意見が夫婦でまとまるまで、医者には性別を教えないようにと命じていたのに。慌てるゲオルグに、アーシュラは首をふる。

「違うの。先生は約束を破っていないわよ? でもね、会っちゃったの。夢で」

「ゆ、夢って……」

 オカルティックな話を突然持ち出すアーシュラに、ゲオルグは脱力した。

「ふふふ、おかしいわね。でも、わたくし、何だか確信してしまったわ。だから、ねぇ、名前をつけてもいい?」

「な……」

「陛下!」

 言葉を失うゲオルグの代わりに、エリンが声を上げる。

「……大公殿下が何を考えて今日まで出産に反対してこられたか、お分かりでしょう!? あなたは、どうしてそんな……自分勝手なことを……!」

 怖い顔で詰め寄る従者を見つめて、アーシュラは病み付いてもなお色褪せない菫色の瞳を丸くして、黙りこむ。

「……エリン、怒っているのね」

 そして、呆れたように微笑んだ。

「お前が怒るところなんて、初めて見たのではないかしら」

「茶化さないで下さい!」

「そんなことしていないわ」

 アーシュラは骨の浮いた腕で二人の手をとって引っ張る。そして、最近すっかり目立つようになった腹の膨らみを触らせて言った。

「分かっていないのはお前たちよ。わたくしが、なぜこの子を産むと思う?」

「何故……って、それは、子供が欲しいからでしょ?」

「少し違うわね」

 アーシュラは真面目に否定する。

「これが、わたくしが初めて得た、わたくしだけの使命だからよ」

「使命……?」

 エリンにも、ゲオルグにも、彼女の言葉の意味はにわかには分からなかった。

「歌を歌うとか、絵を描くとか……それから、木や花を育てたり……山に登るとか? ……人にはきっと、どんなことがあっても、何を引き換えにしても、それをせずにはいられないような……そんな何かがあると思うの」

 明るい部屋で、静かにアーシュラは続ける。

「ゲオルグ、あなたが前に、わたくしと結婚することを決めたのも、そうだったのかもしれない」

「それは……」

「そうじゃない?」

「……そうだね」

「ふふふ。嬉しい。誇らしくて涙が出そうよ」

 笑った彼女の頬に、涙が一粒こぼれ落ちる。

「な、泣かないでよ……」

「――わたくしもね、ずっと探していたの。わたくしにしか出来ないことを。何を置いても成し遂げたいたった一つを。だけど、体が弱くて、得意なことなんてなかったし、夢だって見つからなかった。漠然とした――やりたいこととか、見たいものとか、世界には素晴らしいものが無限にあるような気がして、死ぬのは恐ろしいのに、ただ生きながらえることしか出来ないのも悔しかった。……あなたを好きになってからは、あなたと一緒になることが私の一番望むことなんだって、思った時もあったわ。だけど……そうじゃないの……そうじゃなかったの」

 彼女は病みやつれ、疲れ果てていたけれど、とても、美しかった。

「……この子を産むことで、あなたと、それからエリン、お前にも。――置いてはいけない大切な人たちに、わたくしの居ない世界の幸せをあげられる。それが分かったから、もう、何も恐ろしいことなんて無いんだって思えたの」

 遺言めいた悲しい言葉を、まるで幸せなことのように、彼女が言う。ゲオルグは言葉を失い、エリンは奥歯を噛んで身を乗り出す。

「馬鹿なことを……私に、あなたの居ない世界はあり得ないのに!」

「……そうだよアーシュラ。縁起でもないこと言わないでよ……」

「……別に何も死ぬなんて言っていないわ」

「言ってるようなものだよ……!」

 涙ぐんで抗議する年下の夫に、アーシュラは曇りのない微笑みを向ける。

「ねぇ、ゲオルグ」

「……何」

「わたくしがさっき言ったの、女の子だって。当たり?」

「え……」

「知っているのでしょう?」

「それは……」

 彼女は優しく、そして残酷だ。ゲオルグは確かに、胎児の性別を聞いていた。妻を裏切って我が子を手に掛けるせめてもの責任として、尋ねていたのだ。

 彼はベッドに突っ伏したまま動けなかった。子供なんてまだ顔を見てもいない。彼女をこんなに弱らせて、生まれてきたとして愛せる自信だって無いのに。

「アーシュラ、お願いだよ……」

 懇願の言葉には、しかし、諦めの色が滲んでいた。

 分かってしまった気がしたのだ。

 裏切ることは出来ないのだと。

 エリンも、ゲオルグも、彼女の命より優先すべきものなんて無いと言い切れる。だけど――彼女が命を賭しても良いと、心から思えるものがあるのだとしたら。それは――それだけが。

 世界で唯一、彼女の命より大切ななものなのだろう。

「…………」

 だから裏切れない。

 裏切ってはいけないのだ。

「……当たりだよ。女の子だ」

 痛みを堪えるように微笑んだゲオルグを、アーシュラは優しく抱きしめた。

「ありがとう。やっぱりね、夢で会ったあの子が、わたくしたちの娘なんだわ」

「絶対、死なないでよ?」

「大丈夫、がんばるわ」

「……どんな子だった?」

「わたくしより可愛いわよ」

「それは嘘だな」

「ふふふ、名前はね……マーゴット」

 アーシュラは、素朴な花の名を口にした。春になればどこの家の庭先にも咲く、ありふれた花だ。

「可愛いでしょう?」

 自然の野原で、街路樹の根本で、家々の窓辺で、もちろん、アヴァロンの庭でも、春の訪れを歌うように、ささやかに、可憐に花開く。薔薇のように豪華な花ではないけれど、誰もが知っていて、誰もに愛される。

「――ああ、そうだね。マーゴット……素敵な名だ」

 エウロの新しい光には、そんな、優しい花の名が与えられた。




 それからの半年、三人は祈るように幸せな日々を過ごした。一日中彼女の傍で過ごすエリンと比べ、夫の自分が傍に居られないのは不公平だと、ゲオルグは彼女の寝室に仕事を持って来る日も多かった。

 秋が終わり、冬が来た。四人でははじめての、エリンとゲオルグの誕生日も祝ったし、新年には珍しく雪が降って、彼女のために張り切ってバルコニーに雪像を作ったゲオルグが風邪をひいた。

 穏やかな、永遠のような日々は過ぎ去り――そして、やがて、その日が来たのだった。






 六一七年、二月二十二日、深夜。

 知らせを待つ大公ゲオルグの元に、皇女無事誕生の知らせと共に、皇帝危篤の報が届けられた。

 出産後、麻酔が切れた後もしばらく目が覚めず、そして、大きな仕事をかろうじて終えた弱い体には、もはや命を繋ぎ止める力は残されていなかった。

――願いは、届かなかったのだ。

「アーシュラ! アーシュラ! 聞こえる? ねぇ――」

 ようやく意識が戻った時、彼女の残されていた片目は既に、この世の光を見ることが無くなっていた。

「……聞こえているわ。ゲオルグ、そこにいるのね」

 部屋を暖かくしているのに、彼の頭に優しく触れる彼女の手が冷たい。

「マーゴットは……?」

「隣にいるよ」

「寝て……る?」

「ううん、静かなだけ。いい子にしてるよ、ミルクも飲んだし……」

「そう……かわいいでしょう……?」

「ああ、もう、信じられないくらいの美人だよ。君にそっくりだ」

「まぁ……ふふ、親ばかね」

 皇女マーゴットは、虚弱なアーシュラの体を苗床に育ったとは思えないほどに健康に生まれてきた。

「でも、良かった……」

 死にゆく体で、アーシュラは姿の見えない我が子をぎこちなくあやす。そして、この上なく満足そうに言ったのだった。

「ゲオルグと……エリンをよろしくね、マーゴット」

「陛下……、何を……!」

 息を呑むゲオルグの代わりに、エリンが口を開く。滅多なことを言わないで欲しいと――言いたかったけれど、もう、言えない。

 アーシュラは、親しい声にホッとしたように手を伸ばす。自らの手の重ささえ支えきれず震える手を、エリンは慌てて掴んだ。

「お前もよ、エリン」

 白い唇が、彼を呼ぶ。

 もう聞けなくなる声で、最後の命を紡ぐ。

「この子を守って。お前が老いて死ぬまで」

 そして、その後まもなく、アーシュラは息を引き取り、その短く儚い一生に幕を下ろしたのだった。

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