二十一

 婚礼の儀は目前に迫った皇女の二十歳の誕生日と時を同じくして執り行われることが決まり、アヴァロンはますます慌ただしく、城内は華やいだ雰囲気に包まれていた。

「あ~…………やっぱり、見に行けばよかったかなぁ」

 ふかふかの絨毯を踏んで、ゲオルグが部屋をぐるぐる歩き回る。落ち着かない様子の彼を眺める呆れ顔のエリンは、壁際に佇んだままもう三十分も動こうとしない。

「一生に一度しか味わえない感動だから、と、仰ったのはカルサス様ではありませんか」

 今日は、アーシュラが式で身につけるドレスの仮縫いが仕上がってきたのだ。

「そうだけど……そうだけどっ!」

 まさに今、彼女は隣の部屋で試着をしている。ウェディングドレス姿は当日までとっておきたい、という本人の希望で、ゲオルグは隣室で待っているのだった。

「あーあ、綺麗だろうなあ。アーシュラ」

「……当たり前です」

 二人の日常の護衛を師と分担して行っているエリンは、行きがかり上、今日はゲオルグと一緒に待たされることとなっていた。彼の方の衣装合わせも今日行われたのだけれど、それはもうとっくに終わっている。そろそろ日暮れが近い。今日はこの後、何度目かの、皇帝を交えての晩餐が行われる予定だった。

「僕の代わりに隣、見てきてよ」

「お断りします」

「どうしてさー」

 ゲオルグは浮かれた調子で拗ねる。近頃のゲオルグは、今までに増して、エリンに冷たくあしらわれても気にしないようだ。

「……私は一応、あなたの護衛ということでこちらに控えているのですが」

 冷たくしてもめげてくれないので、エリンにとっては相手をするのがより面倒になったといえる。

「護衛っていっても、別に、仕事らしい仕事も無いよね?」

「無い方が良いのです」

「そりゃ、そうだと思うけど……」

「我慢してください、カルサス様。どうせ、色々と無理を言っているのでしょうから」


「リゼット、ねぇ、本当にこれ、おかしくない?」

 白い絹の花びらを幾重にも重ねたような、可憐なドレスを身にまとい、アーシュラは姿見の前でしつこく訊ねる。

「これ以上ないくらい、素敵でいらっしゃいます!」

 リゼットはその度に熱っぽく答えるが、アーシュラはどうしても納得がいかないようだ。体勢を変えては鏡をチェックし、難しい顔をして唸る。

「でもでも、ドレスは素敵なのに、わたくしが子供っぽすぎないかしら? 腕も細すぎてみっともないし、胸もスカスカだし……ああん、もう……」

「殿下……」

「わたくしも、あなたのようだったら良かったのに……」

 情けない調子で言って、思い切り底の厚い靴を履いてようやく目線の合う、スタイルの良い妹分を羨ましそうに見る。リゼットは頬を赤らめ、すぐぶんぶんと大げさに首を振った。

「殿下はそのままが一番可愛らしいし、お美しいのですっ!」

「そうかしら……」

「そうです!」

「うーん……」


「まだかなぁ……」

 ゲオルグは長椅子に座り、うんざり時計を見上げた。日が暮れてから、もう結構時間が経ったような気がする。彼自身の午後の予定が終わってから、随分と長くこの部屋で待たされているので、さすがに待ちくたびれてきた様子だった。

「晩餐会って……何時からだっけ?」

「……十九時半だと思いますが」

「ええっ……」

 もう既に、始まっているべき時間であった。普段なら、定刻前にクヴェンが呼びに来るはずだけれど――

「言われてみれば、迎えが来ませんね」

 エリンも不思議そうに言って、とっぷりと暮れた窓の外に目をやった。


「わたくしの予定では、お誕生日にはもうちょっとふっくらしている筈だったのよ……」

 彼女自身が嘆くとおり、再来週にはもう二十歳になるというのに、アーシュラの身体にはさっぱり肉がつかず、胸元にしても腰回りにしても、子供時代のままに近いと言っていい。

 けれど、細く頼りない曲線を描く手足が纏った皮膚は抜けるように白く、念入りに手入れをされた長い髪は毛先までしっとりと輝いている。彼女を女帝たらしめる紫水晶が埋め込まれた端正な面立ちは、少女然とした危うさと、達観したような静けさの両方を持ちあわせていて――見るものに、どことなく俗世から遠いような、尊い印象を与えるものだった。

「……本当に、お綺麗ですよ、アーシュラ様。まるで……妖精の国の女王様みたいです」

「妖精には会ったことが無いけれど、リゼットがそう言うなら……」

「はい。カルサス様も、きっとすごく感激されるに決まっています」

「そ、そう……?」

「そうですよ! だいたい、このドレス、選んだのはカルサス様でしょう?」

「うん……」

「殿下」

「だったら、良いんだけれど……」

 せっかく、一度きりの結婚式だものね、と、言って、少女がはにかむ。暗いバルコニーに白い影が舞い降りたのは、ちょうど、その瞬間のことであった。

 無論、その影はツヴァイである。今日彼が自分の傍に居ることは分かっていたから、アーシュラは特に驚かない。けれど、ツヴァイが彼らしくない乱暴な所作で窓を開け無言で部屋に踏み込むのを見て、顔色がさっと変わった。

「……どうしたの?」

 アーシュラは剣の異変にすぐに気付いた。

「……侵入者の知らせが」

 見たことがないような険しい顔をしてそれだけ言うと、ツヴァイは答えを待たず、花嫁衣装を身につけたままの彼女の手を掴んだ。


「アーシュラ!」

 ノック無しに扉が開いたと思ったら突然花嫁衣装のフィアンセが現れたので、ぐったりしていたゲオルグは飛び起きて、彼女に駆け寄った。

「ゲオルグ!」

「どうしたの? それ……えと……」

 驚けば良いのか、褒めれば良いのか混乱する。エリンは師の尋常ならざる気配に、非常事態を察知したようだった。

「城内に侵入者が。お二人を連れて上へ」

「先生は――」

 弟子の言葉に、皇女をエリンに渡しさっさと部屋を出ようとしていたツヴァイがギクリと足を止める。

「…………」

 ツヴァイは黙り込んだ。迷っていたのかもしれない。

 開いたドアの向こうから近衛兵の靴音が響く。エリンはもちろん、状況の飲み込めないゲオルグにも、周囲がにわかに物々しい雰囲気に包まれつつあるのが伝わる。

「エリン、私は……」

 振り向いた白の剣は、まるで、迷子の子供のような顔をしていた。

「……私の主の元へ参ります」






 息が詰まるような恐怖と、泥のように重い後悔をなぎ払うように、闇を駆ける。アドルフの執務室が、あまりに遠く感じられた。

 届けられたのは、侵入者を告げる知らせだけではなかったのだ。

 前触れ無く現れた侵入者によって、執務室に居た皇帝が――襲われたという。

 どうして――どうして。

 あの時、主の元を離れるなどということを、承諾してしまったのだろう。生涯決して傍を離れず仕えると、誓ったのに。


 騒々しい城内の他の場所に比べ、やっとのことでたどり着いた執務室は、奇妙な静けさに包まれていた。室内に乱れた様子は見当たらず、ただ、開け放たれた窓辺のカーテンが、夜風に揺れている。

「陛下……?」

「――――、か……」

 掠れた声がした。愛用のデスクの脇に、アドルフは倒れていた。胸に突き立てられたままの短剣が目に入り、息が止まる。

「アドルフっ!」

 駆け寄って、抱き起こした。流れ出た血が上着を汚し、背を支えた指がぬめる。ギラギラと光る無粋なナイフが、深々と彼の胸に突き刺さっていた。

 この刃が何を貫いているのか、分かりたくなくても、分かってしまう。

「アドルフ……」

 力の抜けた重い体。

「今、医者を……」

 けれどツヴァイは、絶望をまだ受け入れられない。

「……にを、して、おるのだ」

 ささやき声がかろうじて届く。アドルフは、のろのろと瞬きをして、彼の剣を見た。彼は既に虫の息であり、それはツヴァイだけでなく、アドルフ自身も分かっているようだった。けれど、皇帝は慌てる様子も、嘆く様子も、怒る様子も無く、ただ淡々と、黄泉からの迎えを待っているように見えた。

「はやく……姫の元へ……」

「嫌です!」

 遅すぎた拒絶だった。アドルフは苦しい息を吸って、静かに吐き出す。そして、少し笑ったように見えた。

「……泣くな」


「私は、あなたの元を離れるべきでなかった……」

「良い……のだ。余は、あれに……」

「アドルフ、黙って下さい。すぐに医者が……」

「……姉を、……殺させ、くは、なかっ……」

 言葉を途切れさせ、アドルフはごぶりと血を吐いた。かつて、親族内での流血を終わらせた証として皇帝の剣が身に付けることとなった――平穏の象徴である白い衣が、老いた皇帝の赤い血に染まっていく。

 ああ――もう、間に合わないのだ。

「……済まなかった」

「嫌です……アドルフ、待って……」

 幼子のように泣き縋る優しいツヴァイの白い髪を、アドルフの、血に濡れた手が、微かに撫でる。

「……ツヴァイ」

 彼はもう、彼に残酷な命令を与えなかった。ただ、彼の孤独な日々を支え続けた、かつての幼子を、愛おしげに呼んで、言った。

「そなたに……独りになれとは、言わぬ、よ……」

「アドルフ……」

「泣くな、アインに、また……――」

 その途切れた言葉が、彼の最後の言葉となった。






 消えた侵入者を探す光が、広大な庭をいくつもチラチラと動き回る。狭い回廊を、主とその恋人を連れて進みつつ、夜空のようだ、と、エリンは思った。

 何を目的に、何人の侵入者が城に入り込んだのかは分からない。城内の要所は既に近衛兵達が守りについているだろう。

 二人を託されたエリンが向かうべきは、主を背にしても敵に対応できる場所。相手と必ず一対一で向き合うことのできる場所だ。城内には、一人で行動する彼らが何かの時に陣とするための、そういった場所がいくつかあった。この狭い回廊を建物のてっぺんまで登った先も、その一つだ。

「随分、暗いよね……」

 アーシュラの手をしっかり握って、ゲオルグはきょろきょろと辺りを見回す。彼が言うとおり、回廊の灯りはひとつも点いていなかった。何箇所かの電線が切られたようで、城内のあちこちが停電しているのだ。

「……エリン、お祖父様は、大丈夫かしら……」

 ツヴァイの様子がおかしかったことに気付いていたらしいアーシュラが言う。

「どうか今は、ご自分の心配をなさって下さい」

「アーシュラ、身体、大丈夫?」

「平気よゲオルグ、ちょっと動き辛いけど……」

 二人のやりとりを横目に、エリンは注意深く暗闇に目を凝らす。そろそろ回廊の終点だ。この場所は敵は下からしかやって来られない。事態が収束するまでここに潜んで居られれば良いが、彼女の衣装は白く浮かび上がる花のようで、エリンを不安にした。見えない悪意の源を、彼はたぶん、知っていたからだ。

 そして、永遠のような沈黙の刹那が過ぎて――痛いくらい張り詰めた神経の網が、その気配を捕らえる。

「……カルサス様、彼女の盾になってください」

「えっ?」

 ゲオルグが聞き返した時には、エリンは既に駆け出していた。


「あっ……!」

 ゲオルグも気付く。回廊の向こうに、誰かが居る! 咄嗟にアーシュラを抱きすくめるようにして壁際へと逃げた。

 いつの間にかエリンの両手には短剣のようなものが見える。ゲオルグが想像する剣とは形が違うし、色も何だか、薄い――と思ったら、透明だ。

「エリン……」

 彼がアーシュラの為の剣だということを知ってはいたけれど、彼が戦うところを見たことは無い。

 息を呑み、ただ見入る。悪い夢でも見ているようだ。ゲオルグは思った。自分はもしかしたら、とんでもない所に来てしまったのかもしれない。

 ゲオルグの腕を、アーシュラは強く抱く。彼女は一言も発さず、ただ、エリンの背中を追っていた。


アーシュラへ向けて投げつけられようとしたナイフを叩き落として、斬りかかる。――けれど、黒い相手はふわっと細い体を宙に浮かせると、クルリと一回転してエリンの間合いから逃れた。

 そして、軽やかに着地した裏には、もう一人――

「やはり……」 

 エリンの予想は当たっていた。見分けの付かないほどに瓜二つの二人、黒い髪と黒い瞳。そこに立っていたのは、いつかベネディクトが救った軽業師の双子。彼が育て、彼に付いて城を出て行ったあの二人だ。

 つまり――ベネディクトが、二人をここに遣わしたということ。

 明確な殺意と共に。

(私のせいだ)

 憎んでいるのだ。ベネディクトが、姉を。

「……皇子の双子、死にに来たのか」

 雑念をねじ伏せて低く問う。

「エリン・グレイ。クーロのかたき」

 憎しみを込めた目で、一人が言った。

「あるじ様を不幸にした!」

 もう一人が叫ぶと、二人同時に床を蹴ってエリンに襲いかかった。細くて長い剣を手にした双子の太刀筋はどちらも拙く、あっけなく空を切る。接近した双子の身体は、どちらも容易く首を描き切る場所にありながら、しかし、二人が同時に別の方向に飛び退いたため、エリンは手が出せないまま距離を開けられてしまう。

 狭い通路なのに天井が高いせいもあり、軽装で息の合った二人は同時に動きまわる。しかし、二人の注意を背後のアーシュラ達に向けさせるわけにはいかない。

「皇子の……っ!」

 気を取り直してエリンは、一人を無視して斬りかかる。

「ご意思なのか!?」

 双子は幼い頃から刃物を使う芸を仕込まれているが、剣士ではない。二人居るから厄介なだけで、一人を無視すれば圧倒できる。避ける間も無く、芸術品のような美しいガラスの刃が、片割れの脇腹を抉る。

「――!!」

「あっ!」

 無視されたもう一人が声を上げた。エリンを見ていた彼の目が、今まさに傷ついた彼の兄弟に向けられる――――予想通りだった。つながりの深い彼らは、お互いを見捨てて戦うようには

 エリンは身を翻し、返す刀でもう一人の手元を突いた。刀が弾かれ、宙に放り出される。持ち替える武器を持っていると踏んだエリンは、そのまま一気に踏み込んでもう一人を引き倒した。

「動くな」

 動揺した面持ちの少年の首筋に血のついた刃を押し当て、注意深く二人を伺う。負わせた傷は致命傷では無いが、向こうの一人は切られた腹を押さえ、動けない。

 ほぼ、終わりといえる状況だった。このまま彼の首を切り裂いて、それからもう一人を始末すればいい。そっと背後を伺う。アーシュラは無事だ。

 大丈夫だ。

 けれど――

「…………」

 死の恐怖に怯えた少年の喉が強ばり、呼吸の度壊れた笛のような音がする。

 彼の命に剣を突きつけ、エリンは動けなくなった。

 ベネディクトが、二人を慈しんでいたことを知っていた。彼らを害することにより、自分はベネディクトから再び友人を奪うことになる。

 おののく少年はしかし、精いっぱいの憎しみを込めて、エリンを睨みつけていた。憎悪の種を撒いたのは自分だ。それは覆すことのできない事実。今、ここで摘み取るのがおそらくは、剣として正しい決着の付け方なのだろう。

 けれどエリンは、やはりベネディクトを二度も奈落に突き落とすようなことは、出来なかったのだ。

「……皇子の双子、名は何という」

 投げられた問いに、双子は答えない。エリンは淡々と続けた。

「去れ。今夜はあの方のために慈悲を与えよう」

 そして、少年の瞳に安堵が浮かんだ次の瞬間――

「二度目は無いと知れ」

「うああぁあああっ!!!」

 絶叫が響く。静かに動いたエリンの短剣が、少年の漆黒の両目を潰していた。

「カラスっ!!」

 立ち上がったエリンの横をすり抜け、兄とも弟ともつかない片方が、両目を抑え苦悶する片割れに足を引きずって駆け寄る。

「……それが、お前の名か」

 言うと、憎しみに燃えた残りふたつの目がエリンを見据える。

「お前に語る名など無い。名前は、あるじ様だけが知っていてくだされば良い!」

 ボロボロになってなお、憎しみだけは手放さない覚悟で、少年は叫ぶ。そして、必死に兄弟を抱き起こした。

 顔面を血に染めた少年は、痛みと衝撃に震える身体を必死に起こし、逆にもう一人の傷を気遣うように肩を差し出た。


 傷ついた双子は、お互いを支え合うように立ち上がった。そして、カラスは流れ出た自身のぬるい血をなめて唇を開く。

「……イノセント」

 掠れた声で、しかしキッパリと。

「わたしたちは、あるじ様の剣、名は純真イノセント。いつか……いつか! 必ず、お前を殺しに来る!」

 まるで己の血に刻むように、少年は叫んだのだった。






 停電が続く暗い城内は、危機が去ると共に静けさを取り戻し、耳が痛いような静寂に包まれていた。

 エリンはアーシュラとゲオルグを部屋に戻した後、警備を兵に任せて、独りツヴァイの元へ向かった。

 アドルフの私室と執務室のある区画は、急場しのぎで食堂から運ばれたらしい燭台が置かれ、揺らめく赤い火がぼんやりと一帯を照らし出していた。奇妙なことに、さっきまでそこら中に居た衛兵の姿が見えない。

 その代わり、フロアの入り口に、アドルフの側近である、アヴァロン家の家令ジェームズが、呆けたように佇んでいた。彼はエリンが現れたのに気づくと、アドルフは寝室に居ると告げた。

 先ほどのツヴァイの表情を思い出し、エリンはにわかに心配になった。もしかして――

 何度ノックしても返事がないので、思い切ってドアをあける。廊下に並べられていたのと同じ燭台が、一台無造作に床に置かれ、大きな寝台を照らしだす。ツヴァイはベッドサイドに腰をかけ、じっと、横たわった主を見ていた。

 遠目には、アドルフはただ眠っているように見えたけれど、掛けられた寝具に少しの乱れもないのが妙な感じに思われた。

「…………先生?」

「終わりましたか?」

 ツヴァイの声は優しく穏やかで、けれど、何かが決定的に失われていて――エリンはその短い言葉によって悟る。

 彼の主が死んだと。

「……はい」

 何も言えなかった。改めて目をやったアドルフの横顔は、彼の魂の不在を示すように骨と肉が力を失い、生命の息吹が消えた体は、まるで壊れた時計のようで――そこにいる皇帝がもう、永遠に断絶されたどこか遠くへ去ってしまったのだという実感を突きつける。

 アーシュラの結婚にあたり、彼がツヴァイに皇女の護衛を命じたことを、エリンは、きっと未熟な自分は皇帝から信頼されていないのだろう、という、そのくらいにしか思っていなかったのだけれど……もしかすると、アドルフは、今夜のことを予見していたのだろうか。

「――姫は、ご無事ですか?」

 エリンが頷くと、ツヴァイはゆっくりと息を吐いた。

「良かった」

 こちらを向いた師は、エリンを褒めてくれるときのような、優しい顔をしていた。けれど、

「せっかく楽しみにしていたご婚礼なのに、予定が台無しになってしまいますね」

 静かな声に、不安になる。

「謝っておいて下さい。アドルフもきっと、申し訳なく思っているでしょうから」

「先生……」

 落ち着いているのは何故だろう。笑っているのは何故だろう。

(何故って……?)

 ああ、その答えを、エリンは知っているような気がした。

「……エリン」

 揺らめく炎の色に照らされて、彼の白髪が桃色に光る。そして、些細な不義理を詫びるように、ツヴァイは言った。

「申し訳ないけれど、私は主の元へ行かねばなりません」

 何のためらいも無い言葉に、エリンは慌てる。

「先生!」

 待って欲しい。

「エリン、あなたの成長を見守ることが出来て良かった」

 まだ――

「後のことを頼みます」

「――!!」

 師に駆け寄ろうとしたエリンの足が絨毯に一歩沈み、飛び散る赤い飛沫が目に入る。エリンの懇願が声になるよりはやく、ツヴァイは微笑みの表情のまま、己の首筋に刃を走らせていた。






「……おかえりなさい」

 深夜、重い体を引きずるように部屋に戻ると、アーシュラは眠らずに彼を待っていた。

 囁くような甘い声に、のろりと目を上げる。部屋を見廻すと、疲れ果てたのか、ゲオルグが長椅子のクッションに埋もれるように眠っていた。事情を何も知らない彼が、突然あんな目に遭わされたのだ。無理もない話だ。

「…………」

 何か、説明をしなければいけないと思った。

 アドルフが死んだこと。ツヴァイが後を追ったこと。そして――今日の惨劇の原因を作ったのが、自分であったかもしれないこと。

「アーシュラ……」

 お喋りはもともと得意ではなかったけれど、何も言葉が浮かんでこない。ドアの前に立ち尽くすエリンに、純白のドレスを身につけたままのアーシュラは歩み寄り、そして、いたわるように抱きしめた。

「……エリン、いいのよ」

 花嫁衣装の裾は汚れ、ところどころ破れてしまっている。

「アーシュラ、私は……」

 幼子をあやすように、やさしく背中を撫でる手に、導かれるように言葉が口をついて出た。

「……あの夜、コルティスの屋敷で、彼の息子を手にかけました」

 あれは主の命ではなかった。罪があるのは迂闊な自分だ。

「皇子の……友人でした。だから……」

 あなたは悪くない。何も。

 こんなことになってから告白することになるくらいなら、はじめに話しておけばよかった。本当にばかだ。

「……いいのよ」

 アーシュラの声はしんと澄んでいる。

「誰かひとりだけ悪いのだと、考えるのはやめましょう。わたくしたちは、まだ生きているのだから。進まなければいけないわ」

 言って、柔らかくエリンを抱いていた腕に急に力が込められ、次の瞬間フッと力が抜けて、彼女の身体が崩れ落ちる。

 慌てて受け止めるエリンに、アーシュラは縋りつく。

「眠りたいの。一緒にいて。お前がいれば大丈夫だから」

 泣かず、怯えず、嘆かず、怒らず。あらゆる激情が出口を失って、細い体の中で暴れているのだ。

 恐ろしい。その激しさが彼女を内側から壊してしまうような気がする。

「……全部、明日にしましょう」

 アーシュラは凪いだ目で、喘ぐように言った。


 その夜、姿を消した瀕死の双子が、衛兵に捕縛されることは無かった。そして、彼らの他に侵入者が居た痕跡も見つからなかった。ベネディクトと共に長く城で暮らした彼らといえど、あの状態のまま二人きりで逃げきれるとは思いがたい。

 ――――おそらくは、城内に内通者がいるのだと思われた。

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