十九

 屈指の名君と賞賛を受けると同時に、冷酷な主として貴族たちに恐れられる皇帝の日常は孤独だ。遅めに起き出して淡々と執務を行い、夜は遅くまで本を読む。

 身近に使用人も多く置かず、付き合いの長い家令のジェームズと、二人目の剣ツヴァイがいつも静かに彼に付き従う。

 そして、午後の深い日差しが差し込む部屋で、アドルフはひとり、二通の手紙を眺めていた。どちらも孫からのもので、一通はベネディクトからの結婚の報告、そしてもう一通はアーシュラからの、結婚の許しを請う内容であった。

「何か、気になることでも書かれてありましたか?」

 いつまでも手紙から目を離さない主人に、ツヴァイが言った。アドルフは目を上げて、そっと手紙を机に置く。

「……特に変わったことは無い」

「皇子は何と?」

「領民を大勢呼んで結婚式をしたそうだ」

「それはそれは」

 ツヴァイは微笑んだ。

「姫は?」

「……あの恋人を夫にしたいと言っておる」

「おや……思い切ったお願いをしましたね。姫らしい」

「本気のようだぞ?」

「お許しにならないおつもりですか?」

「それは……」

 アドルフは言葉に詰まる。ツヴァイは少し驚いた。それはつまり、まるっきり反対するつもりも無いということだ。孫娘に初めて出来た恋人の存在を一応認めてはいたものの、快く思っていたわけでないことを知っていた彼は、考えこむ主の横顔を見つめる。暫く思案を巡らせていたアドルフだったが、

「アーシュラの結婚は認める。あれの望む通り準備を進めさせれば良い」

 低い声で言った。

「それは……姫が喜ぶ顔が浮かびますね」

 穏やかに笑った白の剣に、アドルフは重い椅子を引いて、体ごと向き直る。

「……ツヴァイ」 

 そして、改まった声で彼を呼んだ。

「姫が戻り次第、そなたには皇女の剣としての任を命じる」

「え……?」

 ツヴァイの鮮やかな緑色の目に、さっと驚きの色が走る。

「……冗談はよしてください。何を仰るのですか」

「戯れは言わぬ」

 薄く開いたカーテンの隙間から射す陽光が、深い皺の刻まれたアドルフの横顔を縁取って、古びたデスクに濃い影を落とす。皇帝は淡々と言った。

「アーシュラが子を産むまでで良い。皇女と夫を守れ、ツヴァイ」

「出来ません!」

 剣は思わず声を荒らげ、白い衣を翻して主に背を向ける。

「……あなたの傍を離れることなど、できるはずがないでしょう」

「余の命に背くと申すか?」


「どうか……それ以外のご命令を」

 その返答を予想はしていたのだろう、アドルフは珍しく優しげなため息をついた。

「……では、友としてそなたに頼もう」

「アドルフ……」

「アーシュラを守ってくれ、ツヴァイ」

 無慈悲な言葉に、ツヴァイは目を閉じる。アドルフは彼の主であり、父であり、世界であり――友人だ。

 その頼みを、拒絶することは出来なかった。






 夏の終わり、皇女はジュネーヴに戻り、そして、自らの婚約を発表した。

 それは、平民から貴族まで、あらゆるエウロ市民を驚かせるニュースとして、世界各地で報じられた。輝けるエウロのプリンセスを射止めた、地方商家の息子ゲオルグ・カルサスの顔と名前は、瞬くうちにあらゆる人の知るところとなり、二人は一夜にして世界で最も有名なカップルとなったのだった。


「あのー……ラントさん?」

「どうか、今後はクヴェンとお呼びください。カルサス様」

「いやぁ、そんなこと突然言われてもさ」

 アヴァロン城を訪れるなり使用人達に連行され、監禁状態に置かれたゲオルグは、用意された豪華な部屋で、居心地の悪そうな愛想笑いをした。

「何か足りないものがございましたら、すぐに用意をさせます」

「あの、僕は下の街の……自分の部屋で充分なんだけど」

「部屋の片付けには人をやりますので、必要な荷物があればお持ちします」

「僕、引っ越すってこと!?」

「左様でございます」

「ここに?」

「左様でございます」

「ええええ……」

 今までは皇女を訪ねて来ても、追い返されはしないものの客人扱いされたことは一度も無いし、どちらかというと、顔を合わせる使用人達にはほぼ無視されていたような状況だったのだ。突然手のひらを返されたように感じるのも無理はない。

「警備の都合もございますし、これからご婚礼まで、日々様々な方が挨拶にお越しになります。それに、城下にお住まいでは、生活にご不便も多くなりましょう」

「不便って?」

「カルサス様のお顔は、既に全エウロに知れ渡っております」

「な……!」

 恋人にはひと目も会わせてもらえないまま、ゲオルグは否応なく、皇女との婚約がどんなに大変なことなのかを、思い知ることになるのだった。


「ねぇ、ゲオルグは? 来てるって聞いたのだけど!」

 突然騒がしくなった身辺に、自室のアーシュラも苛立ちの声を上げる。

「今晩、陛下を交えて晩餐があるので、そのお支度を」

 八つ当たりに慣れているエリンが淡々と答えると、アーシュラは面白くなさそうにむくれて、窓辺で呑気に外を眺めていたツヴァイを睨む。

「だいたい、どうしてツヴァイがここにいるの? お祖父様は?」

「申し訳ありません、姫。アドルフにどうしてもと頼まれてしまいました」

「わけがわからないわ」

「そうですねぇ」

 白の剣は笑う。婚約を発表したことにより、城内はにわかに慌ただしい。無責任と引き換えに反対という言葉を知らない両親はともかく、祖父の説得には絶対に骨を折ることになるだろうと覚悟していたのに。

「お祖父様、どうしてあんなにあっさりお許しになっちゃったのかしら」

 承諾はあっけなく取り付けることができたのだ。

「物足りませんでしたか?」

「そうじゃないけど……」

「お気持ちは分かりますが、そう仰らないであげてください。あなたの幸せを願っているんです」

「そう……そうね……」

 平民であるゲオルグと、結婚することが出来るのだ。多少の不自由は我慢しようか。彼とも晩餐が始まるまでには会わせてもらえるだろう。アーシュラは諦めて息を吐いて、疲れた身体を寝台に投げ出した。




 夜、緊張した食事を終え、ゲオルグとアーシュラは、二人の部屋のある建物を繋ぐ渡り廊下で、名残惜しく立ち話をしていた。

「皇帝陛下、怒ってなかった?」

「お祖父様はいつもあんなものよ」

「エーベルハルト様はご機嫌だったね」

「お父様もいつもあんなものね」

 廊下に人の気配が無いのは、クヴェンが気を利かせて人払いをしたからだ。エリンやツヴァイも、二人きりの貴重な時間を邪魔するようなことはしなかった。

 ゲオルグに城内で部屋が与えられ、今日からは城で一緒に暮らすことになった、といっても、二人の住まいは離れていて、しがらみが増えた分、二人の距離は遠くなったとさえいえる。

「あー、でも良かった。やっぱり駄目だ! とか言われなくて」

「ふふふ、本当ね。絶対、もっと大変なことになると思っていたのに」

「えっ……もしかして君、陛下を説得する自信、無かった?」

「あったわよ。もしダメだって言われても、『駆け落ちする』って言えばいいでしょう?」

「それ……僕、エリンに殺されない?」

 ゲオルグが冗談っぽく肩をすくめると、アーシュラは笑顔で首を振る。

「大丈夫よ。エリンはあなたを守るから」

「……そうかな?」

「そうよ。わたくしの一番大切なものを、あの子が守らないはずが無いのだもの」

 アーシュラは自信満々だが、ゲオルグは腑に落ちない様子だ。

「僕、エリンにはずっと嫌われていると思うけど」

「そんなことないわよ」

「……それは、君が僕のことを好きってことでしょう?」

 ゲオルグは苦笑する。

「そうよ?」

 アーシュラは首を傾げる。

「鈍感だなあ。エリンと君は違う人間なんだってことを、君は分かってないよね」

 ゲオルグの言葉に責めるような色は無い。彼からすれば全く常識はずれなフィアンセをどこか面白がるように、あくまで優しく諭す。

「エリンと、わたくしが……?」

「そう。エリンはエリンだし、君は君でしょう?」

「そうだけど……」

 恋人の言葉が理解できないアーシュラは首を傾げる。

「彼はさ、まぁ、面白くないと思うよ。僕と君が結婚するなんて」

「どうして?」

「それは……」

 ゲオルグは口ごもる。難しい顔で一瞬考えこむが、すぐに顔を上げた。

「僕の口から言うことじゃないし、言ったって仕方のないことだ」

「……わからないわ」

 アーシュラは不満げだった。ゲオルグは幸せそうに笑ったまま、曖昧に頷いた。

「まぁ、そうだね。君はそれでいいんだと思う」

 幼い日、剣は己の半身と教えられたし、何より今日まで二人でそうやって生きてきた。エリンが自分と違うことを考え、意に反する行動を取るなんて、アーシュラには想像もつかないことだったのだ。






 昼間でも分厚いカーテンが引かれたままのアドルフの私室は、夜はさらに、息が詰まるような闇に包まれる。

「……お呼びでしょうか。皇帝陛下」

 その夜、男の傍らで跪き、言葉を待っていたのは、エリンだった。デスクの周りをほの明るく照らす読書灯のせいで、周囲の暗さが際立つ。

アドルフと話をする機会など滅多に無いことだった。

「婚礼の支度は順調か?」

「……はい。滞り無く」

 そんなことを訊ねるためにわざわざ自分を呼んだのだろうか、と、エリンは訝しく思いながらも、暗い床を見つめて答える。

 そうか、と、皇帝は短く頷いた後に言った。

「アーシュラに、そなたの子を産ませよ」

 アドルフの有無を言わせぬ響きを持って響く。知らないうちに顔を上げていたエリンの目に、祖父の厳しい横顔が写った。

 子、と、言ったのか? 自分と――主人の?

 これからゲオルグと結婚をする、アーシュラの?

「陛下が……何を仰っているのか、分かりません」

 ようやく、それだけ口にした。

「婚礼までにそなたとアーシュラの子を作れ」

「私の……?」

「そうだ。男女はどちらでも良い。その子をアーシュラの次の皇帝とする」

 色違いの目を見開いて、呆然と自分を見つめるエリンに、アドルフは予め定められたことを告げるように静かに続ける。

「我が孫よ。そなたを殺さず、今日まで生かしておいた甲斐があったというもの。アーシュラの夫は誰でも構わぬ。だが、生まれてくる皇太子は必ず紫を継いでおらねばならぬ。そなたであれば、あれも受け入れるだろう」 

「そ……れは……」

 命令の意図が分からないわけではなかった。エリンとアーシュラはいとこ同士。アヴァロンが純血の子を望むのならば、彼女の長子がエリンの子であるのは合理的なことだ。

「全て、一族の使命と平穏のためだ」

 しかし、それは――――

「陛下!」

「……何か?」

「殿下は……アーシュラは、カルサス様を愛していらっしゃいます。そのようなことは……」

 恐ろしい皇帝に、必死でたてついた。

「できないと?」

 アドルフは冷たく問う。言葉が見つからない。けれど分かる。

 彼女は、望まない。

 ――自分のことなんて。

「……エリン、そなたはどうなのだ?」

「え?」

「アーシュラを愛しておらぬのか?」

 菫色の瞳に、オレンジ色のランプの灯が浮かんで揺れる。何もかも見透かすような眼差しに、エリンの答えが導かれる。

「……愛しています。他に比べるものはございません」

 戸惑う剣の、迷いのない言葉に、男は満足そうに目を細めた。

「ならば迷う理由はあるまい。剣と主は半身同士、アーシュラはそなたを決して拒まぬだろう」

 部屋を覆う闇がエリンの心を包み、呑み込んでいく。アドルフの言葉は確信に満ちて、まるでそれが正しい唯一の道のように見えた。

「――だから、そなたは誰よりも幸福な剣となれるのだ」




「エリン、今戻ったの?」

 主と顔を合わさないように、黙って自分の部屋に戻ったエリンだったが、彼の気配に気付いたアーシュラは、今夜に限ってドアを開け、ヒョイと隣室を覗きこんだ。

「……はい」

 エリンは動揺を隠して短く返す。

「ツヴァイが居ると思って、お前、さぼっているのではない?」

 アーシュラは文句を言うが、機嫌は悪くなかった。どうせ、今日からはゲオルグが城に居るということに浮かれているのだろう。

「遊んでいたわけではありません。陛下に呼ばれておりました」

「お祖父様に?」

 珍しいわねと言いながら、アーシュラはずかずかとエリンの部屋に入ってくる。何気ない彼女の行動に、しかし今日のエリンは慌ててしまう。

「あの、先生は……」

「ツヴァイならさっきまでベランダに居たわよ? 今は……どこかしらねぇ」

 呑気にそう言ってエリンの寝台に座る。今日のところはさっさと部屋に戻ってもらいたいのだけど、咄嗟に言葉が浮かばない。そして、アーシュラはアーシュラで、彼に話があるようだ。

「ねぇエリン、お前、わたくしが結婚するの、嬉しくない?」

「は?」

「そうよね、嬉しいわよね!」

「あの……」

「ゲオルグがね、エリンはわたくし達の結婚を喜ばないって言うのよ。わたくしは、そんなこと無いって言ったのだけど、どうにも話が噛み合わないのよね……」

 ホッとしたようにこちらを見る瞳を、直視できない。

「アーシュラ……」

 反対はしない。けれど、別に嬉しくもない。そして、今は――

「……馬鹿なことを仰っていないで、今夜はもうお休み下さい。明日も来客の予定がありますから」

 とりあえず、一人にして欲しかった。


「エリンに何を言ったのですか」

 暗がりから不意に響いた、非難めいた剣の声に、溜まった書簡を読んでいたアドルフは目を上げる。

「聞いていたのか?」

「聞いてはおりません。ですが、あなたがエリンを呼びつけるなんて」

 ツヴァイに睨まれて、アドルフは嘆息する。

「アーシュラにはエリンの子を産ませる」

「やはり、そういうことですか……」

「何か問題が?」

「何もかも問題でしょう。それに……あなた自身、近親同士が結ばれることは嫌っていたのでは?」

「……余が、皇家の外から妻を迎えたことは失敗だった」

「そんなこと……」

 優しい彼の剣は、苦々しく言葉を詰まらせ、俯いた。

「必要なことだ。紫を持つ者同士の子が確実にそれを受け継ぐことは、アヴァロンの歴史が証明している」

「アドルフ……あなたはまた、そんな……」

 男は、あまりにも長い時間、家族に憎まれることも厭わず、まるで傷つくことを知らない存在であるかのごとく振る舞ってきた。だから、彼の孤独と痛みを知っている者は少ない。彼の二人の息子達すら、父の本当の心など知りはしないのだ。

「……ツヴァイ、ここは良い。そなたはもう姫のもとに戻れ」

 主のために悲しむ従者に、皇帝は言った。


 そして、ありとあらゆる準備が進む、慌ただしい日々の中、エリンはアーシュラを避けるようになった。

 彼女の傍を離れるわけではないけれど、いつもに増して、必要がない限り姿を見せず、言葉を交わさないように。それは、エリンにとって寂しく辛いことだ。けれど、それでも今は、その方が楽だったから。

 だからその日も、城壁の影に埋もれるように座り込んで、アーシュラとゲオルグが来客に囲まれて楽しげに話す様を漫然と眺めていた。要領の良いゲオルグは、大勢の客の名前を憶え、調子よく話を合わせて盛り上がっている。全く、彼のああいうところは実際大したものだと思う。

「エリン、こんな所に隠れて」

 と、ツヴァイの呆れた声が落ちてきた。エリンが隠れている場所を見つけることができるのは彼くらいなのだ。

「いい加減、姫も心配なさいますよ」

「殿下は別に心配なんてしません」

「おや」

 どことなく拗ねたようなエリンに、師は苦笑する。

「どうしてそんなことを?」

「……今は、毎日お忙しいですし、それに、カルサス様とずっと一緒ですから」

「やきもちですね」

「違います」

「素直でない子だ」

 厳しい師だけれど、昔から稽古の時以外は優しい。隣に腰をおろしたツヴァイを、エリンは少し子供っぽい表情で見た。

「先生……」

「何ですか?」

「皇女殿下にとって……私は、何なのでしょうか」

 思いの他の素直な言葉に、ツヴァイは一瞬面食らって、それから微笑む。


「……難問ですね」

「やっぱり、そうですか」

「そうですよ。人と人の関係が、単純であるためしは無いのです」

 自分のことを決して語らないツヴァイは、他人事のように朗らかに呟く。

「そんなの……」

 エリンは俯き、決して目を離さない主の後ろ姿から目をそむける。そして、普段彼が足場にしている、角の丸くなった壁の飾りにそっと手を伸ばした。

「そんなのは……知りません」

 主を守り、その望みを叶えるための剣であること。エリンにとって、自身の存在意義とはそのことに尽きる。それは自分で選んだ道ではなかった。ある日突然その運命を与えられ――そして、ただそれを受け入れ、強くなることだけが彼の存在を是とした。

 いつか、ゲオルグは自分のことを奴隷のようだと言った。憤りは感じない。彼女と一緒に居られるならば、自分はそれで構わないのに。

 それなのに、今更何を与えようというのか。

 アーシュラを傷つけるようなことは出来ないし、恐ろしい。それは、悩むまでもなく明白なことだ。けれど――

 ――心に刺さった刺が抜けない。

 アーシュラの笑顔を、アドルフの言葉を、あの夜会の夜の星空を。思い出す度ズキズキと膿み傷んで、いつまでもエリンを苦しめるのだった。

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