十六

 太陽の光の届かない地の底の部屋に、男の枯れた絶叫と泣き声が響く。石の城の寒いその部屋は、長く使われることのなかった地下牢だ。暗く、悪臭の漂うその部屋に、不似合いな美しい白い衣を纏った背の高い男――ツヴァイが立っていた。

「ふむ……やはり慣れないと、難しいものですね。なかなかアインのように上手にいかない」

 そう、困ったように言葉を落とす。彼の目の前で、並んで縛り上げられた二人の男の一人が、血泡を吹いて絶命していた。どちらもエリンが取り押さえた、皇女襲撃の実行犯である。両名とも、逮捕されたと報道されてはいたが、実際にはその身柄は警察には渡らず、秘密裏にアヴァロン城へ移されていた。

 裸の体には小さな穴が無数に穿たれ、死亡したばかりの体からはまだ新しい血が流れ出ている。

「先生、もう少し血管を外さないと、長くもちません」

「生意気ですね。分かっていますよ」

「私が変わります」

 犯人たちは、何者かの依頼を受けて皇女の襲撃を実行したに過ぎない。拷問の前に聞いた、互いに面識が無いという言葉もたぶん本当だろう。アーシュラを狙う者の存在をはやく知りたいエリンは、貴重な情報源を殺してしまったことに少し苛立っている様子だが、ツヴァイは静かに首を振る。

「駄目ですよ、それこそあなたではやり過ぎる」

「そんなことは……」

「この方の手が、アーシュラ様を害したかもしれない。そう思って冷静でいられますか?」

 そう言われると反論できない。今は別人のように傷つき、怯えた目をこちらに向ける哀れな男だが、アーシュラを殺そうとした相手だ。やはり憎い。目を伏せて了承を伝えるエリンに、ツヴァイは優しく微笑んで、優雅な所作で二人目の男に向き直る。

「さて……」

「……っ!」

 男はギクリと震え、彼を繋ぐ鎖が口を塞がれた彼の代わりに悲鳴をあげる。城に連れて来られた時には随分と威勢の良かった男だったが、今は鷹を前にした雀のように怯えて泣いていた。

「あなたの番ですよ。お待たせしました」

 今度はうまく加減しましょうね、と、料理の火加減についてでも語るように楽しげに言いながら、台に並べられた嫌に美しい銀色の針を吟味するツヴァイに、男は再び必死に体を捩って暴れる。しかし無論、鎖がうるさく鳴るばかりでそれは徒労にすら届かない。






 夜明け前、音もなく寝台の前に立つ従者の気配を敏感に察し、アーシュラは目をあけた。

「……どこへ行っていたの?」

「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」

 てっきり、眠っているものと思って顔を見に来たエリンは、微かに驚いた様子だ。

「目が覚めてしまって、寝付けなかったの」

 揺らめくランプの小さな光に照らし出されたアーシュラの青白い顔が、不満と不安を訴えている。

「居なかったから」

 時には従者を邪険に扱う主だけれど、お互い、離れることを知らない。剣は、ベッドサイドに跪いて言った。

「……先生に、呼ばれていました」

 それは半分だけ本当だ。痛みを伴う真実を、エリンは語らなかった。アーシュラはどことなくホッとしたように小さく微笑んだ。

「ならいいの」

「もう少しお休み下さい、アーシュラ」

「そうね……そうする……」

 潤んだ目がゆっくり閉じられるのを見届けて、エリンはそっと立ち上がった。


 死の訪れぬ苦痛の中で、男は語った。

 かの、商人の名前を。

 つまり、バシリオ・コルティスは諦めてはいなかったのだ。ベネディクトを次の皇帝に仕立て上げることを。


「トリノの商人?」

 ツヴァイの報告を黙って聞いていたアドルフは、乾いた声でそう言った。コルティスの名を覚えようというつもりは無いようだった。

「はい。エリンに排除させようと思いますが、よろしいでしょうか?」

「あれはもう充分に使えるのか?」

「大丈夫でしょう」

「……ならば、そなたに任せる」

「承知いたしました」

「ツヴァイ」

 消えようとする剣を、皇帝は珍しく引き止める。

「なにか、余に他に話したいことはないのか?」

「何故ですか?」

「隠し事など、珍しい」

 そっけなく投げられた言葉は、しかし正しい。

 半年前、アーシュラが祖父に対してそうしたのと同じように、ツヴァイもまた、ベネディクトを庇った。つまり、かの不届きな商人と元皇子のつながりについて、アドルフに伏せて報告をしたのだ。それは、ベネディクトとアドルフの双方に対しての気遣いであったのだが――

「商人風情がアーシュラを害して益があるはずがなかろう。誰を庇っている」

 主の言葉は正しい。ツヴァイは悲しげに目を細めた。

 アドルフはかつて、帝位を巡る争いで多くの親族を手にかけた。かけがえの無いアインを失い、孤独な老境を迎えていた主に、これ以上、家族を敵とするようなことをさせたくないと、白の剣は願っていた。

「ベネディクトか」

「…………」

 答えないツヴァイに、しかしアドルフはそれ以上問い詰めようとはしなかった。彼もまた、ツヴァイの心を知っている。その代わり、深い溜め息をついて言った。

「……エリン不在の間は、そなたがアーシュラの守護を務めよ」

「アドルフ……」

「そんな顔をするな、ツヴァイ。余はまだ独りではないのに」






 久しぶりに会えた恋人が、何だか憂鬱そうな顔で窓の外ばかり気にしている。ゲオルグははじめ、その理由が旅先での襲撃事件にあるのだと思った。

「アーシュラ……大丈夫?」

「え?」

 暴漢に襲われるなんて、きっとものすごく恐ろしかったに違いない。可哀想に。ここは自分が元気づけてやらねばならい。

「その、えーと……ここはほら、アヴァロン城だしね。平気だよ。安心していいと思う! ほら、エリンもいるしね、君の剣でしょう。彼がいれば、どこだって……」

 不本意にもエリンの名前まで出して、彼なりに最大限言葉を選んで、彼女を励まそうとしたらしい。けれどアーシュラは、逆にその言葉に、辛そうに眉根を寄せた。あれ、おかしいな、と、ゲオルグは首をひねる。

「……ごめんなさい、ゲオルグ」

 アーシュラはそこでようやく、彼が自分を心配しているのだということに気付いた様子だった。

「もしかして体調、あまり良くない? 旅をして無理をしたんじゃないの?」

「ううん、大丈夫。元気よ」

「なら、いいけど……」

 元気と言いつつ顔色の冴えないアーシュラを抱き寄せ、その頬に柔らかく触れる。少女はゲオルグの手に手のひらを重ねて、不安そうに彼を見上げて言った。

「……最近、エリンをあまり見ないの」

「え……?」

 意外な言葉だった。

「彼が……君の傍を離れることがあるんだ」

「今までは無かったわ。だから、困っているのじゃない……」

 ゲオルグの腕の中で、アーシュラは明らかに元気のない様子で肩を落とす。

「じゃあ今は……? あんな事件があった後なのに、誰も君を……」

「ううん、今はたぶん……」

 アーシュラはキョロキョロと辺りを見回してから、バルコニーのドアを開けた。外に出てやはりあちこち見回していたが、やがて諦めたように口を開く。

「ツヴァイ、どこにいるの?」

 言い終わらないうちに、背後で客間の扉がカチリと開いて、廊下からフラリと白い人影が姿を現した。

「お呼びでしょうか、姫」


「そんな所にいたの」

 アーシュラはバルコニーの扉を閉めながらため息をつく。

「外はもう寒いですからね」

「まあ、情けないこと」

「もう若くありませんから」

 ニコニコと微笑みを浮かべながら男は言った。ゲオルグはポカンとしてそのやりとりを眺める。随分とアヴァロン城には通っているが、初めて見る人物だった。服の色こそ違えど、エリンと雰囲気の似通った出で立ちに、おそらくこの男もエリンと同種の人間だろうと見当がつく。

 けれど、あの超が付くほど無愛想なエリンに比べると、この男は随分とにこやかというか、和やかというか。剣とはみんなエリンのようなのだと思い込んでいたから、こんな風に笑っていると、不思議な気がしてしまう。

「えーと……あ、じゃなくて、殿下? この人は……」

「ツヴァイよ。ちなみに、お祖父様の」

「こっ、皇帝陛下の……!?」

 さすがに驚いて、思わずパッとアーシュラから離れた。

「は、はじめまして……僕……」

 皇帝が目の前にいるような気がして妙に緊張してしまう。大事な孫娘に手を出したとか思われて(実際そうだけれど)いるのではないか。その剣がここに来たということは、もしかしたら……

「……そんなに畏まらなくても、どうせツヴァイはゲオルグのことよく知っているわよ?」

「そっ、そうなの!?」

「そうよね?」

「まぁ、そうなりますね」

「えええ……」

 しかし、エリンとはまた違った方向で、目を引く男だなと思った。褐色の肌にくっきりと映える、白い衣に白い髪。長身で、年齢の分からない優しい顔。耳を何か飾りのようなもので隠しているのは、たぶん、飾りではなくて何かの機械だろう。

「ねぇ、エリンは?」

 恐る恐る男を伺うゲオルグの隣で、アーシュラは口を尖らせる。

「申し訳ありません。用事を言いつけておりまして」

 男は、申し訳があるのだかないのだか分からない、柔らかい口調で詫びる。なんだか変だな、と、ゲオルグは思った。

「エリンはわたくしのよ。ツヴァイの用事なら、ツヴァイが行ってよ。お祖父様の元を離れてまで、エリンを使わないで」

「申し訳ありません」

「いつ戻るの? 夜までに帰ってくる?」

「それは……分かりかねます」

「どうしてよ!」

 だんだんと本格的に怒り出すアーシュラを横目に、ゲオルグは何となく憂鬱な気分になっているのを自覚する。

(何だよ、せっかく会えたのに。エリンエリンって……)

 こっちを見て欲しい。エリンなんてたまには居ないくらいでいいじゃないか。そんな風に思ってしまうけれど、それを口にしたら火に油なのは分かりきっている。彼女と喧嘩をしたいわけではないので、ゲオルグはやきもちを胸にしまって、少女をなだめた。






「父さん、殿下、何時頃着くかなあ」

「晩餐に間に合うようにと仰っていたから、夕方だろう。気になるなら、列車の時間を調べて駅までお迎えに行ってきなさい」

 そわそわと落ち着かない息子に、帰宅したばかりのバシリオは言った。つい先日までクーロがランスに遊びに出かけていたのに、今度はベネディクトの方がこちらを訪れると言う。

「本当に仲がいいな、お前たちは」

 苦笑する父に、クーロは無邪気に頷いた。

「ランスのお城に、僕の部屋を用意してくださったんですよ」

「それはすごい」

「いつでも来ていいって」

 久しぶりに帰宅した父に、クーロは嬉しそうに、休暇中の出来事についていろいろと話す。バシリオはそれを満足そうに聞いていた。

「有り難いことだな。お前、学校を移るか?」

「ええっ!?」

「ははは、冗談だよ。だが、殿下は私たちにとって大切なお方。これからも仲良くして頂けるよう、よく尽くしなさい」

「はい!」




 ――獲物が、ようやく巣に戻ってきてくれた。

 待ちかねていたエリンは喜んだ。

 ここに来ることは師と決めたことだった。

 主の敵とみなした相手に、剣が余計な手順を踏むことはない。エリンの使命はただ、バシリオの暗殺だった。

 無人のセキュリティシステムしか配備されていない、コルティス家の広い庭には、エリンが身を隠せる場所はいくらでもあった。彼らが身につけている衣服は、ただ武器を隠しやすいだけではなく、監視レーダーに対する強力なステルス性をもつ。長い時間をかけて培われた彼らの装備は、超人的な運動能力と組み合わさることによって、その比類無き個の力を維持していた。少なくともエウロの中においては、影の剣に忍び込めない場所は無いに等しい。

 けれど、アーシュラに無断で城を出て、今日で四日目。こんなに長く主の元を離れたのは初めての経験だ。

 バシリオ・コルティスがジュネーヴの屋敷に滞在するのは、月のうち十日も無い。そう聞いていたから、下手をすればまだ時間が掛かると覚悟していた。だから、彼を乗せた車が屋敷の玄関を通って行くのを見て、エリンは、フッと胸が軽くなるような奇妙な気分を味わっていた。

 あとはアレバシリオを消し去ってしまえば城に帰れる。それならば容易いことだ。早く全てを終わらせて、彼女の元へ帰りたい。

 とにかく、夜が待ち遠しかった。






「ねぇ、ツヴァイ」

 ゲオルグを見送った後、ツヴァイと並んで渡り廊下をトボトボと歩きながら、アーシュラが言った。

「エリン、本当はどこに行ったの?」

「……私が隠したとでも思っていらっしゃいますか?」

「ええ」

「それは、困りましたね」

 甘やかすような口調で誤魔化すツヴァイを、アーシュラは睨む。

「お前はいつまでもわたくしを子供扱いするのね」

「申し訳ありません」

「否定しなさい」

「ほんの少し前お生まれになったばかりのような気がしておりますので」

「もう……」

「私から見ても、孫のようなものなんですよ。姫も、皇子も」

 横顔で笑うツヴァイの白い髪が、夕日の色に輝いて見える。

 主人と随分年の差のある彼の来歴を、アーシュラは知らない。そもそも、生まれたときから城に居る彼のことを、そんな風に疑問に感じることは無かった。

 祖父の大切な宝物、白の剣ツヴァイ。アーシュラもベネディクトも、優しい彼が昔から好きだった。

 だけど、自分は生まれながらの皇女だけれど、彼らは剣としてこの世に生まれるわけではない。エリンだってそうだ。今、ここでこうして並んで歩いていることも、決して当たり前のことでは無いのだろう。

「……全然似てないと思っていたけど、ツヴァイとエリンは似ているわね」

「おや、そうですか? どこがでしょう?」

「笑うのが、下手なところがよ」

 ツヴァイはいつでも笑っている。だけど、その笑顔が本当は仮面であることを、唐突に悟った気がしていた。

「下手ですか?」

「そう。エリンの方が素直で可愛いわ」

「これは手厳しい」

 男は、やはり笑った。

「姫こそ、アドルフそっくりですよ。皇子もですけど」

「そう?」

「ええ。ご子息方よりも、姫たちの方が似ていらっしゃいます」

「わたくし、あんなに四六時中怖い顔をしていないわよ?」

「聞き捨てなりませんね。あの方はね、ああ見えてとっても寂しがり屋さんなのですよ」

「まあ、わたくしが寂しがり屋だって言いたいの?」

「ふむ……確かに、そうとも言えます」

「ツヴァイ!」

「ふふふ、すみません。違いますよ」

 そしてツヴァイは、なにか懐かしいものを見るような目で、アーシュラを見る。

「あなたのその、知らない方が幸せなことに限って、気がついてしまうような、損な性分がです」

 二人が歩く渡り廊下に、沈みゆく太陽の最後の一筋が、まるで名残を惜しむかのように差し、そして、まもなく消えてゆく。

 アーシュラの元にまた、エリンのいない夜が来る。






 深夜を待って、闇に乗じて、屋敷に忍び込んだ。建物内部に入る経路についてはここ数日でだいたいめどをつけていたので、今更さほど苦労をするようなものではない。しかし、この屋敷の部屋には全て内鍵がかけられていて、もちろん、晩秋の今、夜に窓は開けない。できれば寝込みを襲いたいところだったが、諦めざるを得なかった。

 バシリオの寝室から灯りが消えたのを確認してから、エリンはふかふかした絨毯の敷き詰められた廊下に立ち、ほんの一瞬だけ辺りの様子を窺った後に、ドアをノックした。

「……何だ」

 使用人か何かだと思ったのだろう。部屋からの声にはもちろん応えずに、もう一度、催促するようにドアを叩く。少し間を置いて、苛立たしげな気配が近づいた。エリンの両腕に、光を放たない、透明なガラスの剣が静かに

「こんな時――」

 不機嫌そうにドアを開けた瞬間のコルティスの喉元を狙って、一撃で終わらせるつもりで動く――だが。

「――っ!?」

 誤算だった。

 大男は予想に反して反射的に身を捩り、その攻撃を避けたのだ。

「な、んだ……っ」

 そのまま、コルティスが最初に助けを呼ぼうとでもしてくれていれば、たぶん、エリンの次の攻撃は彼に致命傷を負わせられたはずだった。しかし、男は慌てなかった。

「お前は……ッ!」

 エリンの動きから目を離さず、攻撃を避けながら後退し、迷わず部屋の壁に飾られてあった剣を手にとったのだ。鞘を放って、そのまま挑みかかってくる。

「っ!?」

 ブンという鋭い風切り音。思いの外リーチの長い攻撃が目の先を掠めた。

(ああ――そういえば)

 姿勢を崩しながらエリンは思う。ゲオルグが言っていた。

 バシリオは剣術の名手なのだと。

 そんな大事なことを今頃思い出すなんて。全く――失態だ。

 剣撃を身軽に飛んでかわし、距離を離して着地する。黒い衣が優雅に揺れるのを見て、バシリオは納得したように口を開く。

「……その姿、もしや……アヴァロンの剣か?」

 まずいことになったと思いつつ、迷っている暇は無い。

「あなたに語る名は無い!」

 問いには答えずそのまま斬りかかるが、近づくことが出来ずに反撃を受け、下がらざるを得なかった。大きな身体のくせに妙に動きが機敏だ。フェンシングの選手だったとか聞いたけれど、そのせいなのだろうか。その上、悪いことに、男が手元に置いていた武器はレイピアではなくて重厚なサーベルだった。

「小賢しいッ!!」

 どうにか近づいても、剣を合わせた瞬間、男の一喝と共に、体重の軽いエリンの方が弾き飛ばされてしまう。まともに打ち合ってはだめだ。

「このバシリオにこんな子供が刺客とは、帝室もとんだお笑い草だ!」

 今の数手でエリンが自分に劣ると理解したらしい、バシリオは怒鳴りながら重い剣を振るう。

(速い……!?)

 恐ろしい速さで叩きつけられる攻撃からはどうにか逃げたが、確かにこの数十秒の間に、エリンは窮地に立たされていた。

「呪いの如き強さを誇ると聞いていたが……」

 バシリオは一瞬もエリンから注意を逸らさず、ジリと注意深く距離を取る。エリンも目を細め、男の隙を窺おうとした。豪奢な寝室は、寝台横のフロアライトによって薄明るく、向き合う二人の姿を浮かび上がらせる。

「……」

 力があるといっても、素早く動くといっても、自分と比べ相手が強すぎるような感じはしない。けれど、あの長剣とでは間合いが違いすぎて、今の立ち位置からでは分が悪い。

「影の剣とは、こんなものか……!」

 嘲るような言葉は耳に入れない。何か、一瞬、あの懐に飛び込める隙さえ作れば。エリンには、二本のガラスダガー以外にも武器はある。けれど、暗殺のみを念頭に作り上げられた彼らの武器は、至近距離で使うためのものばかり。不意打ちを外してしまったのが悪かった。

(何か、あの男の、目を……)

 唯一、この距離から使える手があるとすれば――

「――!」

 ひらめきの正しさを確認している余裕は無い。エリンは袖口から、柄のないミセリコルデを取り出すと、こちらを睨むバシリオめがけて投げる――と同時に、男の間合いに思い切り踏み込んだ。

 次の瞬間、パリンと何かが割れる音と共に、部屋がパッと闇に包まれる。

「っ!?」

 エリンが投げた短剣は、バシリオではなくてその傍のスタンドに命中したのだ。男はほんの一瞬目を奪われ、すぐにエリンの姿を探す……しかし、少年は何故か視界に入らない。相手を見失ったと感じたバシリオが怯んだ、ほんの僅かの隙の出来事だった。

「――!!!」

エリンはベッドを台にして跳び、フロアライトが割れたのと同時に、部屋のシャンデリアを掴んで、バシリオの真上に居た。自分を探す男の首筋めがけて、透明の剣が落とされる。

 影の剣の強さは呪いではなくて、絆による迷いの無さだ。

 自分は主アーシュラと、そして、たぶん、初めての友であるベネディクトのために、お前に死を渡しに――ここに来たのだ。

「コルティスっ!」

 今度は――外さない!




「……父さん、どうしたの?」

 子供の……少年の、声だった。

 延髄を断たれ、声も上げられずに倒れた逞しい身体にとどめを刺し、ユラリと立ち上がったエリンの耳に、それは届いた。

(え……)

 振り向いた先には、明かりのついた廊下。黒髪の少年クーロが立ち尽くしていた。騒ぎ過ぎたのだろうか。

「何…… 父さん……?」

 こちらに気付いたらしい少年が、部屋に一歩踏み込んで、明かりをつけようと、手を伸ばす――エリンは、半ば無意識に動き出していた。

「え――」

 まだ幼い腕を掴んで、動きを封じる。そのまま廊下の壁に身体を押し付け、冷たい手で口を塞ぐ。


 父の命を絶った剣が彼の薄いあばらの間に滑り込んだ時も、少年の顔にはまだ戸惑いの表情しか浮かんではいなかった。

「あ……」

 柔らかい臓物の感触が手に伝わり、エリンは自分がしたことを悟る。

「う……ぁ……っ……く……は、ぁ……」


 少年は何か言おうとしたのか、息を吸おうとしたのか、陸の魚のように口を開けて、そして、ごぶりと血を吐いた。寝間着に染みだした血が、廊下の絨毯を汚す。エリンはどうすることも出来ず、ただその、死につつある身体を抱きとめた。

 子供を殺すつもりなんてなかった。

 改めて顔を覗き込むと、やはり幼い。年下に見える。この子は悪くない。けれど、今夜ここに来たことを、誰にも知られるわけにはいかないのだ。故に、選択肢は無かった。無かったのだ。

 時間が無い。目的は果たされた。屋敷にはまだ使用人も居るだろう。余計な死人を出さないためにも、彼を離して、さっさと引き上げなければ――

 罪のない人間を殺めてしまった絶望に、既に焦点を失った黒い目からエリンが目をそらせずに居た、そんな刹那を、切り裂いたものがあった。

「――――エリン?」

 それは、驚愕に染まった、ベネディクトの声だった。

「クーロ……?」

 呆然としたベネディクトの呟きと同時に、力の抜けたエリンの手から、死んだ少年の身体がドサリと、音を立てて崩れ落ちた。

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