十四

 細かな模様の描かれた美しい真四角の紙が、折ったり広げたりを繰り返しているうちに、やがて、魔法のように様々な形に姿を変える。鳥やら、花やら、魚やら。土産にと持ってきた美しい紙片で、お喋りしながら次々と不思議なものを生み出していくゲオルグの器用な手を、アーシュラは熱心に見つめていた。

「まぁ、可愛い風車ね。美しいわ」

「こうすると、ちゃんと回るんだよ」

 丁寧に切れ目を入れた紙と細い竹の棒で作った玩具の風車は、息を吹きかけるとクルクルと軽く回った。

「まぁ!」

「ね。僕は折り紙ではこれが一番好きかな」

「このきれいな紙で、何でも作れるの?」

「何でもって、それは無茶だよアーシュラ」

「ゲオルグなら出来るわよ」

「うーん、じゃあ、何を作って欲しい?」

「そうね……じゃあ……白鳥!」

「白鳥かぁ……」

「できるの!?」

「さて、どうかなぁ?」

「わたくしを失望させたら許さないわよ?」

「怖いなぁ」

「そうよ、ふふふふ」

 楽しげにそう言って寄り添う恋人の、触れ合った腕が温かい。少年は笑って、紙束から白い紙を選びながら、話し始めた。

「小さいころ、シノニアに行った帰りの船がとても退屈でさ、乗り合わせていたどこかのおじさんに色々と教えてもらったんだ。どれもはじめは同じ紙なのに、折り方を変えていくだけで、動物とか、鳥とか、魚とかさ、色々なものが出来ていって、すごく面白くて。最初は僕の玩具にって作ってくれたんだけど、折る方が面白くなっちゃってね……」

 話しながら、紙を細かく折ったり広げたり、ペンを引っ張りだして印をつけたり。まっさらな紙はすぐに折り目だらけになり、これが鳥になるとはとても思えない。アーシュラは訝しげに目を細めたが、ゲオルグは自信満々だった。

「白鳥、レマン湖に沢山来るよね」

「そうみたいね。ベネディクトから聞いたわ。わたくしは、見たこと無いけど、白い、きれいな鳥なのでしょう?」

「そっか、君は見たこと無いんだ。じゃあ、この首のラインがすごくそっくりなのとか、わからないかなぁ……」

 話しながら、彼の指先は時間をかけて紙片を白鳥の形に整えていく。彼の言葉通り、折られた鳥は、膨らんだ胸元から長い首をゆったりもたげた優美なシルエットが、実に白鳥らしくて美しい。

「見たことはないけれど、これは、とっても綺麗だわ」

 ゲオルグがテーブルの上に泳がせた白鳥を、アーシュラの細い指がそっとつつく。紙の鳥は、深く差し込んだ夕日を受け、なんとなく淋しげな陰影を浮かべながらガラスの湖を進む。

 ジュネーヴに部屋を借りてから、ゲオルグは頻繁にアーシュラの元を訪れるようになっていたけれど、いつも、時間はあっという間に過ぎてゆく。

 二人の関係は変わっていたのに、日が暮れれば帰る約束だけは、相変わらず有効なのだ。

「そろそろ、帰る時間かなぁ」

「もう!?」

「だって、夕日が……」

「嫌よ!」

「……僕だってそうだけど」

 アーシュラの顔と窓の外を代わる代わる見つめ、ゲオルグは困ったように言った。

「お昼に来て、まだほんのちょっとしか経っていないじゃない。もう少し居て?」

「だけどアーシュラ……」

「わたくしのお部屋に来ればいいのよ」

「え……」

 実はあの日以来、ゲオルグは彼女の部屋には足を踏み入れていない。遠慮をしている、ということももちろんあるのだが。

「大丈夫よ! 今日こそ、あの子には何も言わせないから」

 アーシュラは白い拳を握って決意を表明した。


二人がいつも逢瀬に使っている客間は、彼女の部屋から遠くない。二人で部屋を出て、夕暮れから逃げるように、手を繋いで廊下を渡る。

 この恋が普通のものでないことは、ゲオルグにだってよく分かっている。色々と慎重にならなければいけないのも理解している。だけど、秋が深まるにつれ、昼間はだんだんと短くなっていく。少しでも長く一緒に居たいだけなのだ。

「……殿下」

 けれど、彼女の指が自室のドアノブに触れようとした刹那、呆れたような声が背後に落ちる。二人の真後ろに、いつの間にかエリンが立っていた。

「エリン!」

 アーシュラが非難めいた声をあげても、従者は表情を変えない。二人が一緒にいる時間、彼は決して姿を現さない。微かな気配を感じることすら出来ないので、こんな風に突然現れられると、まるで亡霊か何かのようだ。

「お帰りの時間です。カルサス様」

 あの夜会の日は彼の方から招き入れてくれたというのに、こうして彼は、ゲオルグが皇女の私室に入るのを拒むのだ。てっきり、協力してくれるものだとばかり思っていたのに、裏切られた気分だった。

「彼女が良いって言ってるのに?」

 ゲオルグは不快感を隠さずエリンを睨むけれど、相手はそんなことでは怯んでくれない。

「日を改めてお越しください」

「エリン!」

 剣はそれ以上答えなかった。

 石のような表情の、彼の気持ちはいつも分からない。

 ゲオルグは暫く名残惜しげに恋人の手を握っていたが……やがて、諦めて息をつき、また来るよと言い残すと踵を返した。一瞬、後を追おうとしたアーシュラも、エリンに止められることが分かりきっていたからだろうか、悲しげにゲオルグの背を見送った。


(あいつ、一体何のつもりなんだろう)

 名残を振り切るように早足に歩きながら、ゲオルグは思った。

 アーシュラは特別な人だから、傍にエリンが居ることは何となく当然のことなのだろうと、今まで漠然と理解をしてきたけれど、これには納得がいかない。あんな風にあからさまな態度をとられると、ただ単に邪魔をされているだけのような気がしてしまうのだ。

(彼女を喜ばせたいのなら、協力してくれてもいいのに……)

 さっきのあの顔を思い出すと、ますます腹が立ってくる。

(一体、何がしたいんだ。全く!)

 エリンに対して、前から何となく嫉妬のような感情は抱いていたけれど、最近はさすがに煙たいという気持ちが強くなっていた。

 そして、皇女の命令はエリンに対して絶対のはずなのに、この件について彼女の言い分が通ることは無いのも、なんだか気にくわない。

 アーシュラのことを一番に考えているなら、自分達の邪魔をするなんて、あり得ないはずなのに。


「エリンの馬鹿!」

 言葉と同時に思い切り投げつけられたクッションが、淡々と主の着替えの準備をするエリンの頭に命中する。エリンは一瞬動きを止めて、それから黙って床に落ちたそれを拾い上げた。そして、そのまま元に戻そうとした態度が気に食わなかったらしく、アーシュラは戻されたクッションを手に戻すと再び従者に攻撃を加えるのだった。

「どうしてわたくし達の邪魔をするの!?」

「邪魔などしておりません」

 次々投げつけられる柔らかいものたちを避けようとせず、エリンはいつも通りの調子で言った。アーシュラは怖い顔で彼を睨む。

「わたくしの夢を叶えてくれるって、言ったのに!」

「……叶ったでしょう?」

「叶ったわ! 叶ったけど……!!」

 少女は喚いた。

「どうしてよ。どうして、あの時みたいに……」

 秋は深まり、二人が会える午後の時間はどんどん短くなっている。恋人と少しでも長く一緒に居たいという彼女の願いが、ごく自然で当たり前のものであることは、エリンにだって理解できた。

 だけど、だからこそ、今はゲオルグをこの部屋に入れるわけにはいかないのだ。

「……あなたの体調はまだ安定していない。それに、今後のことを考えるなら、できるだけ慎重に――」

「どうしてお前がそういうことを言うのよ!」

 怒りの収まらないらしい少女は、投げつけられたものを静かに拾うエリンの肩をギュッと掴んで、こちらを向けと引っ張る。エリンの方が小さかった幼い頃と違って、今はもう、随分と背の高くなった彼の肩は、小柄なアーシュラからは少し遠い。それに、細くて頼りなくも見えるエリンの後ろ姿は、意外なほど力強くて、彼女が精いっぱい力を込めて引っ張っても叩いてもびくともしない。


「ご自分のお立場を考えてください」

 恋愛とは、かくも人を盲目にするものなのか。エリンは嘆息した。

 彼の主は、本来は我が儘だけれど聡明で、特に、自分以外の者に対しては、特に強い義務感を持って気遣いをする少女だ。それなのに。

「考えてるわよ。知ってるわ……だけど、一緒にいたいのよ。おかしい?」

「おかしいとは申しておりません」

「だったら――」

「分からないはずはないでしょう、アーシュラ。あなたとの関係が広く知られれば、カルサス様は今まで通りではいられない」

 エリンは少し悲しげに目を細めた。あまり、主に意地悪を言いたくはないのだ。彼女が怒るならまだしも、落ち込ませるようなことを、本当は口にしたくない。

「今は陛下も何もおっしゃいませんが、お許し頂けなくなるようなことがあれば、お会いになることすら……」

「もういいわっ!」

 ひ弱な拳が彼の胸を打った。

「アーシュラ……」

「分かってるって言ってるでしょう……もう消えて。お前なんて嫌いよ……か、顔も、見たくないんだから……」

 皇女は俯いて、剣の方を見ずに言った。






 そして、その事件が起きたのは、それから二週間ばかりが過ぎた、とある晴れた日の午後のことであった。

 ゲオルグがミラノの家庭教師に呼び出されて帰省し、暫く城に姿を見せなかったため、ずっと憂鬱に過ごしていた皇女の元を、久しぶりに少年が訪れていた。もちろん、アーシュラはとても喜んだ。

 そして、主人の機嫌が良いのにホッとしつつ姿を消していたエリンに、ゲオルグが出ておいでよと声をかけたのだ。

 何かと器用な少年は、三人で午後のお茶の時間を楽しもうと、何故か下ごしらえをしたケーキの種を持参していた。何でも、彼の地元ではメジャーな菓子らしい。トルタ・カプレーゼという、いかにも甘そうなチョコレートケーキだ。

 焼きあがったら三人で食べようと言って厨房を借りに行くゲオルグに、アーシュラも楽しげに付いていく。明るい真昼のテラスで、エリンはそこで待っていてねと上機嫌に念を押され――つい、言われたとおりにしてしまったのだ。

 これ以上彼女の機嫌を悪くするようなことをして嫌われるのは嫌だと思ったのが裏目に出たのだろう。五〇分ほど焼けば仕上がるという話を素直に信じて、日当たりの良いテラスでぼんやりと待った。けれど……

「エリン」

 師の、どことなく呆れた声がした。

「先生?」

「あなた、いつまでそうしているのですか?」

「え?」

 その瞬間まで疑いを忘れていたエリンの間の抜けた返事に、いつの間か隣に立っていたツヴァイは、苦笑して息をつく。それから、ちょうど扉が開いて、こちらに入ってくるメイドの方を見て言った。

「ケーキは焼けたようですが、一人で食べるのですか?」

「あ……」

 その言葉で、エリンはようやく、自分がまんまと二人に騙されたことに気がついたのだった。


「うまくいったかしら?」

「たぶんね」

「信じられない!」

 旧市街の出口に止まった馬車から顔を出し、アーシュラとゲオルグは顔を見合わせて笑いあった。

 つい一時間ほど前、唐突にこの計画を言い出したのはゲオルグだ。ケーキの焼き時間の間エリンを待たせ、その隙に城の前に待たせてあった馬車で旧市街を抜けて来た。ゲオルグなりに色々と考えてきたつもりではあったが、まさか、こんなに見事に成功するとは。

「エリン、さすがにちょっと可哀想だったかなぁ……」

 アーシュラは、アヴァロン城を見上げて気の毒そうに呟くゲオルグの前に回り込むと、背伸びして首に手を回し、少し強引にキスをする。

「さあ、どこへ連れて行ってくれるの?」

 キラキラ光るふたつの紫水晶に射抜かれて、ゲオルグは照れたような、困ったような顔で少女を抱きしめた。

「本当は、このままミラノまで君を連れて行きたいくらいなんだけど……」

 それから、いつも少しひんやりしているアーシュラの手を握る。

「今日のところは、ジュネーヴで君がゆっくり出来そうな店を知ってるから、そこに行こう」

 道行く人は豪華なドレスを纏ったアーシュラを振り返って見るが、彼女が皇女であることに気付いたかどうかは分からない。

「ねぇ、知ってるお店って?」

「姉さんの友達が開いた店でさ、こっちに越してからはよく行くんだ」

 ゲオルグは、彼女があまりに人目を引くので、人通りの少ない道を選んで歩いた。少年にとってジュネーヴはもともとあまり馴染みのある街ではなかったのだが、彼女に会いに城に通ううちに詳しくなって、アパートを借りて暮らすようになった今ではもう、すっかり自分の庭のようだ。

「わたくし、この街でお店に入るのは初めてだわ」

「君の街なのにねぇ」

「本当に。でも、誰も連れてきてくれなかったんだもの!」

 アーシュラは弾んだ声でそう言って笑った。


 ゲオルグが案内したのは、少し奥まった通りに面した、小規模なレストランだった。ランチ客が引いた時間らしく、店内に客は少ない。間接照明が照らす洒落た空間にすいすい入っていくゲオルグの後を、アーシュラも興味津々で着いていった。

「ゲオルグ!?」

 厨房に向かってゲオルグが手を振ると、店主らしき男が慌てて飛び出してきた。

「や! オルランド、来たよ」

「来たってお前、ほ、本当にそれ……」

 男は明らかに狼狽した様子で、少年としっかり手を繋いだまま、きょろきょろと店内を見回す、仰々しい出で立ちの少女を見つめる。

「可愛いでしょう、僕のお星さまStella

 得意気に笑顔を見せる少年に、男はブンブン大げさに首を降った。

「そーゆー意味じゃなくて! ホントに、こ、皇女殿下……」

「そうだよ? 言ったじゃないか」

「いやいやいやいやいや!」

「この方、どうしたの?」

 狼狽する男に、アーシュラが不思議そうな目を向ける。

「君があんまり素敵だから、驚いてるんだよ」

「ふふふふ、それは嘘ね」

「あの……あの……」

「突然訪問して、驚かせてしまいましたね。ごめんなさい」

「いっ、いえいえ、とんでもございません……」

 陽気そうな男はすっかり萎縮して小さくなってしまった。

「ゲオルグのお姉さまのお友達だとか。素敵なお店ね」

「オルランドのパスタは美味しいよ。でもアーシュラ、お腹すいてないよね」

「食べてみたいわ!」

「大丈夫?」

「平気っ」

 ゲオルグは恋人の自信満々の顔を覗きこんでちょっと考えてから、量を半分にするように頼んで二人分の食べ物をオーダーした。

 下の姉の同級生で、ゲオルグにとっては随分と年上の友人である店主オルランドは、最初こそ驚き戸惑っていた様子だったが、奥の席に陣取って二人が仲睦まじく食事とお喋りに興じている姿を見て、徐々に元の陽気な人柄を取り戻すと、店が暇なのをいい事に、頼まれていないデザート片手に二人の元を訪れ、少年の幼いころの恥ずかしい話を際限無く披露してゲオルグを慌てさせた。

 そして、二人はアーシュラの望むままに街を散策し、夕暮れの前にゲオルグのアパートに二人で帰った。まるで、普通の恋人同士のデートのように。


 疲れたアーシュラを少しだけ休ませるつもりが、彼女はリビングの長椅子に腰をかけたなり、少年がコーヒーを入れて来るのすら待てずに、すやすや眠りこけてしまった。

「アーシュラ……?」

 マグカップを二つ持って戻ってきたゲオルグは、恋人が既に夢の世界の住人になっているのを見つけて、ポカンとドアの前に立ち尽くした。ついさっきまで、コーヒーを飲んだらアパートの隣の公園に行ってみたいのだと張り切っていたのに。

「あはは……なんだか、これはこれで……」

 湯気の立つカップを両手に持って、ゲオルグは苦笑した。

「夢みたいだなあ」

 彼の部屋は豪奢なアヴァロン城とはかけ離れた、至って庶民的な、普通の部屋である。ここに住んでいるとはいえ、実家に戻ることも多いので、家具は少なくて割と片付いている。


 リビングに置いた長椅子は、部屋を決めた時に適当に近くの蚤の市を覗いて手に入れたものだ。昔の絵本に出てくるような古風なシルエットが気に入って、部屋に全然似合わないのに買ってきたのだが――その椅子に、眠る彼女の姿は恐ろしく絵になった。

 薄水色の絹に、同じ色の糸で細かい刺繍が施された上品なドレスに、つくりもののように華奢な身体。疲れのせいか薔薇色に紅潮した頬に、柔らかく絡まりやすい細い髪がまとわりつく様子は、少しだけ子供っぽい。

 話していても可愛いけれど、黙っていると、アーシュラはやはり知らない世界の扉の向こうから来たような非現実感を纏って存在していた。この美しい人が生きてここにいて、しかも自分の恋人だなんて、本当に、夢を見ているのではないかと思えてしまう。

「いや、夢じゃないか……」

 少年はひとり微笑む。

「奇跡だよね」

 ゲオルグはそっとカップをサイドテーブルに置いて、穏やかに寝息をたてる彼の輝ける星の傍に歩み寄り、そっとその白い頬に手を伸ばした。

「……君が、僕のことを好きになってくれたなんて」

 身分の違いすぎるこの人と自分の関係が今後も続くものなのかどうか、不安に感じる気持ちも、もちろんある。けれど、今は目の前の少女に夢中すぎて、先のことなんて全部どうでもいいような気がしていた。

 だって、こうして 今、ここに、彼女が居るのだから。

ガタンとベランダで不穏な物音がしたのは、そんな瞬間のことであった。

「え……!?」

 驚いて音のした方を見ると、なぜか五階のベランダに、エリンが立っていた。

 こちらを睨む顔は蒼白で、なんだか随分疲れているみたいに見える。そういえば、神出鬼没の彼が現れるときに音を立てるなんて珍しい。

 絶対怒っていると思いつつ、無視できる状況でもないので慌てて窓を開ける。

「エ、エリン……あの……」

 ゲオルグは何か言い訳しようと口を開きかけたが、エリンは無言で部屋に足を踏み入れた。ゲオルグに構おうとせず無言のままユラリと主人の傍に歩み寄ると、崩れ落ちるようにその傍らに跪いた。

「アーシュラ」

 エリンが呼びかけると、魔法が解けたように少女は目を覚ます。

 目を開けて、ゲオルグでなくエリンの顔が目に入ったので、不思議そうに首を傾げた。

「エリン……ここは、城ではなくてよ……」

 よっぽど安らかに眠っていたのだろうか。寝ぼけたような甘い声に、エリンは深いため息をついて言った。

「……ご無事で良かった」

「お前……どうしてここに……」

「帰りましょう」

 主の問いに答えるつもりのないらしいエリンは、言いながら皇女を抱えて立ち上がる。彼の意図するところを理解したらしい彼女はもがいた。

「嫌よ……下ろしなさい、自分で歩けるし、自分で帰ります!」

「眠くなるくらい歩き回ったのならそろそろ体力の限界です。これ以上動かれると、明日は熱を出します」

「構わないわ!」

「いけません」

「嫌だってば! ゲオルグ、助けて!」

 じたばたしながら手を伸ばすアーシュラに、どうして良いか分からないゲオルグ。エリンは冷たい顔で少年を睨んだ。思えば随分酷いことをして城を抜け出してきたのだ。そりゃそうだよな、と、ゲオルグは納得しつつ笑顔を作る。

「じゃあ、折衷案として。僕も城まで一緒に行くよ。それでどう?」

「不要です」

「アーシュラは?」

「……それなら良いわ」

「エリン?」

 ゲオルグはあくまで笑顔を崩さずエリンを見た。どうやら、彼はエリンがどうすれば何を拒めないのか、コツのようなものを掴んだ様子だった。

「…………」

 エリンは不満の塊に顔を描いたような表情でゲオルグを見ていたが、やがて、

「……次はありませんから」

 そう、忌ま忌ましげに呟いた。


「結局寝ちゃったね、アーシュラ」

 エリンの腕の中で子供のように眠る少女を隣から覗きこんで、ゲオルグはのんびりした調子で言った。

 今にもポトリと落ちてきそうな、月の大きな夜だった。

「……あれからずっと街を歩き回っておられたのなら、無理もありません。この方はそんなに動くように出来ていないのです」

 エリンはすっかりいつも通りの調子に戻って、愛想のない顔で、ゲオルグの方を見ようともしない。だが、彼が自分を無視しているわけではないことは経験上理解していたので、ゲオルグは特に気にする様子もなく続けた。

「でも、今日はとても楽しそうだったよ?」

「それはそうでしょう……あなたがおいでになるのを、この方がどんなに待ちわびていたか」

「なのに、君が邪魔をするわけだ」

 冗談めかして恨み言を口にしてみるが、エリンは涼しい顔のまま表情を変えない。もう少し面白い反応をしてくれてもいいのにな、と、ゲオルグは内心がっかりする。先刻は珍しく焦っていた風だったのに、エリンは彼女さえいれば他のことはどうでもいいのだろう。 

 やはり、彼らと居ると妙な疎外感を抱いてしまう。彼女は間違いなく、自分の恋人なのに。彼はあくまで、ただの従者なのに。

「……あなたは、この方を愛することの意味がまだ、お分かりでない」

 エリンが言った。そしてようやくゲオルグの方を見る。

「この方は次のエウロ皇帝です」

「そんなこと……」

「この方の御子は、その次だ」

「え……」

「そういうことですよ。カルサス様」

 彼はたぶん、彼自身と同じ覚悟を自分に求めているのだろう。ゲオルグはそう思った。

 彼女が好きだ。運命だと今は信じている。だけど、この恋にこの先の人生全部を賭けられるのだろうか。

 ――それは正直、まだ、分からないのだ。

 月明かりはエリンのすんなりとした金髪を白く浮かび上がらせ、整った容姿に陰影を落とす。こちらを見る皇女の剣は、ぞっとするほど美しかった。

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