十三

 眠れずに大屋根に登り、星を数えて夜を明かした。

 二人が想いを伝え合い、結ばれることを、きっと、恐れていたはずなのに。どこか満たされたような、不思議な気分で、ゆっくりと朝へと向かう空を見つめていられた。

 きっと、アーシュラが本当に幸せそうだったから。彼女の幸福の前では、自分の嫉妬なんて、さほど大した問題ではないのだ。だから、これで良かったのだ。

 しかし、やがて東の空の端に太陽の気配を見つけると、エリンは身を起こした。薄明に紛れてバルコニーに降り立つと、涼しい夏の朝の空気と共に、主の寝室に入る。幸せそうに眠る二人を見下ろし、どうしたものかと暫く思案していたが、やがて、ゲオルグの首筋を掴んで、強引に寝台から引きずり下ろした。

「っ!?」

 当然驚いて悲鳴をあげる少年の口を塞ぐ。

「お静かに。アーシュラが起きてしまいます」

 無表情で言ったエリンが本気で呼吸すら許してくれないので、ゲオルグはコクコクと頷く。分かった、というより、たぶん、苦しいから離してくれと言いたかったのだろう。


 人の通らない廊下を選んで通り、皇女の居住区画を出る。寝起きのゲオルグは、上着を着ながら、必死でエリンの後を追う。そして、庭へ抜ける通路に入ったところで、ようやく不満気な声をあげた。

「いくらなんでも酷いよエリン!」

 彼の怒りはもっともだ。ようやく想いが通じた人と、これから幸せな朝を満喫しようと思っていたところだったのに。

「何がでしょうか」

「何時だと思ってるのさ。始発もまだだし、アーシュラにも朝の挨拶くらい……」

「……馬鹿ですか、あなたは」

 エリンは余分に冷たく言い放った。

「お二人のために起こしてさし上げたのに」

「え? えー……」

 恨みがましい目でエリンを睨んで、名残惜しそうに城を見上げる。その緩んだ横顔からは、この一夜が、どんなに重大な出来事であったかを、今ひとつ飲み込めていないようにすら見える。

 全く、この男は、皇女の寝室に忍び込んでおいて、のんびり寝坊をして帰るつもりだったのか。呑気な反応にやたらと苛立ったが、できるだけ冷静を装いつつエリンは続ける。

 薄明はやがて朝の輪郭をなぞるように世界を明るく染めて、夜明けは溶けるように急速に朝へと変化していく。

「……とにかく、今日は早々にお帰りください。殿下のことは、気安く人に話さぬように。それから……」

 清々しい空気が流れる無人の渡り廊下で、エリンはゲオルグの目を逃さぬように見つめて言う。

「あの方を裏切ったら殺しますから」

 二色の瞳に睨まれたゲオルグは、気圧されたように再び無言で頷くことしかできなかった。

 ともかく、この日を境に、アーシュラとゲオルグの関係は、お互いを恋人と認識する間柄へと変化したのだった。


「ねぇ、ゲオルグは?」

「……おはようございます」

「ねぇったら」

 せっかく起こさないように気をつけて部屋を出たのに、ゲオルグを送り出して部屋に戻ってみると、アーシュラはすっかり目を覚ましていた。寒々しい格好のまま寝台の上に座って、いかにも物足りない顔だ。

「着替えてください。お風邪を召します」

「ゲオルグをどこに隠したの?」

 あくまで話題を変えるつもりはないようだ。エリンは呆れた様子でため息をついて、不機嫌そうな調子を隠さず言った。

「……お帰りになりました」

「もう!?」

 人の気も知らず不満な声を上げる主を無視して、エリンは冷たい肩に服を着せる。アーシュラは大人しく袖を通しながらも、恋人がもう居ないことを受け入れたくないらしく、寂しそうにうなだれて呟いた。

「帰っちゃったのね……せめて、起こしてくれればよかったのに」

 主の残念そうな顔を見るのは、心の痛むことだった。けれど、それが自身の意地悪に端を発していることに対して、エリンは無自覚だ。

 この時間はまだ、起き出している使用人は少ない。ゆっくり朝食を振る舞ってから帰すわけにはいかないにしても、多少、融通をきかせて、二人の時間を作ってやることくらい、本当はできたはずだ。

 けれど、そこまで譲歩してやることは出来なかった。冗談じゃない。

 そんなエリンの気持ちを理解していたかどうかは不明だったけれど、アーシュラだって、不用意なスキャンダルがご法度なことは分かっていることだ。ゴソゴソと布団に潜り込むと、熱のせいではない潤んだ目で、朝日を受けてキラキラ光るシャンデリアの飾りを見つめる。


「また、会いに来てくれるかしら?」

「何故そのようなことを心配なさる」

「自信がないのだもの」

 気弱な言葉はおよそ彼女らしくないものだ。昨晩確かめ合ったはずのお互いの気持ちなのに、そんなに呆気無く疑いたくなってしまうものなのだろうか。

「……馬鹿なことを」

 言いながら膝をつき、主人が口にするであろう次の情けない台詞を聞いてやることにした。今更心を痛めてみても、今日はもう、あの少年を連れてきてやることは出来ないのだ。

「だって……きっと、迷惑をかけるわ。いつか、ゲオルグが、わたくしなんて好きにならなければ良かった、って、思う時がくるような気がするの。そんなのは……そんなのは絶対に、嫌なのに……」

 覗き込んだ瞳が涙をいっぱいに湛えているのに気付き、切ないような、いたたまれないような気持ちで、こぼれ落ちた雫をそっと拭う。

「アーシュラ……あなたは、分かっていない」

 窓から差し込む朝日に、涙に濡れた紫の目がキラキラと輝く。不安げな彼女の瞳は、しかし、幸せに輝いているようにも見えた。






 ジュネーヴから北西へ三〇〇キロあまり、ランスという美しい街に、ハミルトン公爵の居城はある。ベネディクトがあの日、泣きながら移り住んだ、元はエーベルハルトが管理していた古い城だ。

 馴染みのない使用人達に囲まれ、一人で暮らしはじめた不安な少年の元に、しかし今、毎日のように土産を携えた客が訪れていた。

 それは周辺の貴族ではなく――やはり、商人たちだった。

 賑やかで親切な大人たちに囲まれていると、家を追い出されたという悲しみも一時は紛れる。バシリオの馴染みの者達に、もともと親しみを感じていたベネディクトは、彼らがサロンに集まって商談をすることを快く許した。

 かくしてランスの城は、商人たちが集う妙な場所として、中央の貴族たちからは奇異の目を向けられる場所になったのだった。

 バシリオもクーロを連れて度々足を運んでは、城の改築や、仕立ての古い庭の手入れなど、色々と世話を焼いて彼の新しい生活を支えた。

 そもそも、ベネディクトが父から譲り受けた領地は、伝統あるワイン用葡萄の農地が広がる、エウロ有数の豊かな土地である。彼自身はアヴァロンから見捨てられたような気持ちでいたものの、公爵位とともに与えられた新天地は――アーシュラがそう願った通り――決して彼の人生を暗く閉ざすようなものではなかった。

 未来の皇帝の弟である、尊い生まれの幼い領主。少年は領民から大いに歓迎された。


 そして――ふさぎ込みがちだった少年が、やがて、日々の暮らしの中で明るい表情を見せはじめた頃、バシリオは彼の元にひとつ、突飛な話を持ち込んだ。

「け、結婚……!?」

 それは、縁談だった。

「左様でございます」

 ベネディクトは、にわかには男の言葉の意味が理解できず、きょとんとした顔で問い返す。

「結婚って、どうして僕が……」

「大変、いいお話でございますよ」

「ちょ、ちょっと、待ってください、僕は……!」

 子供っぽく取り乱すベネディクトに、バシリオはあくまで丁寧に続ける。

「ディジョンのリアデンス侯爵家より、ご息女ベアトリーチェ様を是非にとの、願いを託されて参りました」

「リアデンス候……?」

「侯爵とは、常日頃から懇意にさせて頂いておりましてな。ご令嬢は殿下より幾分年上ですが、ゆくゆくはリアデンス家の家督をお継ぎになるお方。滅多にない良いご縁談と思いましたゆえ、急ぎ参じました」

 リアデンス候といえば、何度か当主に会ったことがあるな、と、ベネディクトは思い出していた。けれど、アヴァロンにいた頃は特に親しく話をしたこともない相手で、どんな人物だったかまでは覚えていない。

 そもそも十六歳の彼にとって、結婚などまだ想像したことすら無いイベントだ。

「……お、お話はありがたいのですが、僕はまだ結婚などということは考えておりませんので……」

「それはいけない」

 先刻まで、少年の子供らしい戸惑いに取り合おうとしなかったバシリオは、今度は窘めるようにキッパリと言った。

「皇家をお離れになった以上、殿下は自由であると同時に、ご自分の身をご自分で守り、家と領民を豊かにしてゆかなければなりません。ご結婚は早いほうが良い。これは大切なことです。ハミルトン公爵家とリアデンス侯爵家は、互いに隣り合う豊かな農地を有する家同士。繋がりを作れば、ハミルトン公爵家の勢力は間違いなく盤石なものとなりましょう」

 そして、バシリオは優しげに言った。

「そうなれば、貴族界において、殿下が肩身の狭い思いをすることはもう、無くなります」

 真摯な口調に、どこか、父親に諭されているような気持ちになって、ベネディクトは瞳を揺らす。バシリオの話は確かに大切なことのように思われる。

「けれど……その……僕……相手の方を、愛せるでしょうか?」

 正直な不安に、バシリオはアハハと豪快に笑う。

「心配ご無用でございます、殿下。結婚は契約、未来という同じ目的の下に男女が協力しあうことによって成功いたします。愛に頼る結婚生活ほど儚いものは無く、恋ともなればさらに酷い。互いを慈しみ合う心はいずれ育ちますゆえ、何も問題はございませんよ」

 エウロ貴族界での結婚は、全てではないにしろ、その多くが家同士の繋がりを作るための政略結婚である。ベネディクトだって、(恋愛結婚に対し、曖昧な憧れはもっていたけれど)事実としてそれは受け止めていたから、バシリオの言いたいことは分かる。しかし。

「……少しだけ、考えさせてください」

 万事勢いのある男の物言いに、危うく押し切られそうになりながらも、ベネディクトは、ようやくそう答えたのだった。


 アヴァロンにいた頃であれば、外向きの困ったことはクヴェンに相談すればうまくやってくれた。嫌なことは嫌とはっきり言えたし、多少無理を言っても何とかしてくれると思えた。けれど、今世話をしてくれる執事は――もちろん、彼の落ち度ではないのだけれど――付き合いが浅いせいで、あまり心を開いて相談ごとをしようとは、まだ思えないのだ。

「結婚って……どうしたら良いと思う?」

 バシリオが帰った後、ガランとした部屋で、途方に暮れたようにベネディクトは呟いた。今ベネディクトが心を許せるのは、自分よりも幼い、カラスとクロエだけだった。

「けっこん……」

「分からない?」

「し、知っています! 妻をめとることです」

「そうだね。偉いな、カラス」

「わたしも、知っています!」

「あはは、そうだね、わかってるって」

 ベネディクトは苦笑した。二人はいつも自分を喜ばせようと一生懸命だけれど、年下で、教育も受けていない。だから、なんだって自分が教えてやらなければいけないのだ。二人がいれば寂しくないと思うし、素直で可愛いけれど、こういう時に頼れる相手ではない。

「結婚なぁ……」

「あるじ様、けっこんするの?」

「まだ決めていないよ、クロエ」

「けっこんしたら、わたし達は……おじゃまになりますか」

「馬鹿だね、お前たちを遠ざけたりはしない。僕の剣になってくれるんじゃなかったの?」

「なります!」

「なりますっ!」

「だろう? だったら、ずっと一緒だよ」

 双子の頭を優しく撫でて、ベネディクトは考えた。

 ずっと、一番大切な女性といえば姉だった。まだ恋すらしたことがないのだ。結婚なんて、遠い未来の話であってほしいのが正直な気持ちである。

 けれど、バシリオの真面目な顔を思い出すと、分からない、なんていい加減な返事をするのが悪い気もした。子供っぽいことを言って男の厚意を無にしてしまったら、今までこんなに助けてもらったのに申し訳ない。

 ベネディクトの心は、どうにかして大人にならなければともがいていた。彼を導き支える手は、今は、バシリオ・コルティスただ一人である。






「アーシュラ! 来たよ!」

 数日後、呼ばれもしないのにゲオルグはやって来た。相変わらずの明るい笑顔に、客間に駆けつけたアーシュラは目を丸くする。

「ゲオルグ! どうして?」

「この間、次に合う約束が出来なかったから、気がかりでさ。ラントさんに聞いたら今日は具合も悪くないって聞いたから、じゃあって……わっ!」

 いつの間にかクヴェンに話を通すことを覚えたらしいゲオルグの台詞が終わらないうちに、アーシュラは恋人の首に飛びつく。

「会いたかったわ!」

 面食らいつつ軽い身体を受け止めて、少年もまた幸せそうに、愛しい人の柔らかい髪に顔をうずめる。

「……うん。僕も。何だか、会えないと思うと一日が長くって」

「ここに住めばいいのよ。こっそり」

「あはは、それもいいかもね。だけど大丈夫」

 アーシュラの顔を覗きこんで、ゲオルグは悪戯っぽく笑って言った。

「下の街に部屋を借りたんだ」

「えっ?」

「毎日でも会いに来られるようにって」

「すごいわ!」

「でしょう」

「ジュネーヴの、どの辺り?」

「大通りの近くの、賑やかなところだよ。だけど、アーシュラはあまり街のことは知らないよね?」

「そうなの。行ってみたいわ……」

「じゃあ、今度元気なときに――」

「――お二人とも」

 見かねたエリンが口を挟んだ。アーシュラはパッと怖い顔で従者を睨むが、エリンは無視して続ける。

「お二人のご関係は外部に知られぬようにしなければなりません。お会いになるのは結構ですが、外に出られるなら、今までどおり、殿下の庭をお使いください」

「……わかってるわよ」

 釘を刺すエリンに、アーシュラはゲオルグにピタリと寄り添ったまま、ますます不機嫌そうに目を細めた。

「そうは見えません」

「うるさいわ、消えていて頂戴っ!」

 怒鳴られるとエリンは困ったように息をつき、すいと物陰に隠れる。

「もう……」

「まあまあ、エリンが言うことはもっともだから、気をつけるよ。僕はどこでだって、君に会えればいいんだから」

 ゲオルグは笑った。アーシュラは、納得出来ない様子で、エリンの消えていった影を見つめた。

「わたくしだってそうだけど……」

 ゲオルグは、よそ見をする恋人を柔らかく引き寄せると、不意打ちで口付けてこちらを向かせ、ニコニコ顔で言った。

「アーシュラ、今日は本当に具合は悪くない?」

 少女は目を丸くしたが、すぐにぱあっと輝くように微笑んだ。

「ええ。もともと調子は良かったのだけど、あなたが来てくれたから、もっと元気になっちゃったわ」

「良かった。じゃあ、散歩でもしようよ。今日もいい天気だし」

「わたくしのお庭はもう案内し尽くしてしまったわよ。退屈ではなくて?」

「まさか。君と一緒なんだよ。そんなわけない」

「まぁ、ふふふ」

 爵位を持たぬ一般人の子である彼にとって、皇女との恋愛など、認められるはずもない、障害だらけの恋であるはずだ。楽天家の少年といえど、そのことが全く分からないほど間抜けではなかっただろう。

 けれど、アーシュラの不安をよそに、ゲオルグは明るかった。

 ただ、恋人に会えることを喜んで、ごく自然に彼女を気遣い、精いっぱいの真心を捧げる。まるで、お互いの気持ちさえあれば、他のことは障害にならないと信じているかのように。

 エリンは、はじめこそ口を挟んでアーシュラを怒らせたものの、やがて二人を黙って見守るようになった。

 近くなく、遠くなく、彼らが恋人同士になるより以前と同じような距離で、木漏れ日のように静かに。彼の主が幸せなひとときを過ごすのを、ただ、見つめて過ごした。






 ベネディクトが、ベアトリーチェ・リアデンスと初めて会ったのは、バシリオが彼のもとに縁談を持ち込んでから、暫く時間の経った、ある秋の日のことである。

「ごらん下さい、あるじ様、丘が金色に!」

 双子を伴って訪れたリアデンス侯爵領には、見渡す限りの葡萄畑が広がり、紅葉した葡萄の葉によって、全部が黄金に染まったように見える。クロエが指さした先を覗きこんで、ベネディクトは感心したように言った。

「本当だ。こちらも随分と葡萄畑が多いんだね」

「ここの人たちはみな葡萄ばかり食べるのですか?」

「そうじゃないよ、これはみんなワイン用だから」

「ぶどう酒……」

「あはは、カラス、みんながワインばかり飲んでいるのではないからね」

「そうなのですか?」

「エウロのワインは、どこの自治区に持って行っても高く売れるんだよ」

「へぇ……」

 見渡すかぎりの葡萄畑はどこも皆収穫を終えた後のようで、人々は別の作業に忙しいのだろう、広大な畑に人の姿はほとんど無い。ベネディクトの領内にも、同じような光景が多く見られた。バシリオの言うとおり、ふたつの家が治める領地は、エウロの中央に横たわる、ひとつづきの豊かな農地なのだ。


 そして、秋空の下で、バシリオの仲立ちにより、ベネディクトはリアデンス侯爵家の長女ベアトリーチェと顔を合わせた。年上であり、娘ばかりのリアデンス家で、家督を継ぐことが決められた長女だと聞いていたから、きっと、随分しっかりした人なのだろうと想像していたのだけれど――

「……ご機嫌麗しゅうございます、公爵殿下」

 ベアトリーチェは消え入りそうな声で言い、作法の通りにお辞儀をした。明るい栗色の髪を上品にまとめ、身につけているドレスもさほど派手なものではない。

 決して不器量な女ではなかったけれど、そこに居るだけで輝くような存在感のあった姉を見慣れていたベネディクトにとって、彼女は、拍子抜けするほど大人しく、地味な印象の娘であった。

「はじめまして。お会いできて嬉しいです」

 ベネディクトは、どことなくホッとしたような心地で、柔和に答えた。彼が笑うと、ベアトリーチェも安心したように微笑む。

「さあさ殿下、田舎の城で恐縮ですが、お入り下さい」

 バシリオの隣で愛想笑いをしていた当主が前に出る。

「あの……よろしければ先に、この辺りの葡萄畑を見せて頂いても構いませんか?」

「畑ですか? それは、構いませんが……」

 ベネディクトの申し出に、リアデンス候は不思議そうに首を傾げる。

「僕の領内も、今丁度こんな風に一面葡萄の紅葉が美しいのですけれど、実はまだ、土地のことに詳しくなくて。ゆっくり見て回る機会も無かったのです。今日は、天気も良いですから……」

 清々しい秋の空気と、素朴な印象の娘に気持ちが落ち着いたらしいベネディクトは、素直に笑って言った。

「なるほど。それならば娘に案内させましょう」

 父親に促され、ベアトリーチェはおずおずと前に出る。二人が並んで畑の方へと歩いてゆくのを、大人たちは期待の籠もった眼差しで見送る。

 その期待の重さが、ベアトリーチェには辛いのだろうか。ベネディクトの目からは、彼女が浮かない顔をしているように見えた。

「ご迷惑でしたか? 案内なんて頼んでしまって」

 気遣わしげにそう言うと、ベアトリーチェは怯えたように顔を上げる。

「とんでもございません、殿下。お会いできて光栄でございます……」

 やっぱり、そよ風にもかき消されてしまいそうな声だった。気弱な娘なのだろうか。ベネディクトは少し笑う。彼は、こういうタイプの相手は得意なのだ。


「葡萄畑、お嫌いですか?」

「えっ……?」

 たぶん、鳥や動物を慈しむ気持ちと根っこは同じだ。優しくしてやらないといけないという気持ちになる。野鳥の傍に寄って観察するときのように、穏やかに、脅かさないように。

「お好きでいらっしゃる?」

「……はい。この季節は特に」

「僕もそう思います。葡萄の紅葉を初めて見て、ようやく自分の領地を好きになれたような気がしましたから」

「……古くから、この地方は『黄金の丘コート・ドール』と呼ばれます。ですが秋は、他にも……」

「というと?」

「キノコ狩りなども……」

 俯いたままの言葉に、ベネディクトは不思議そうに目を丸くする。

「きのこ……って、食べるきのこですよね?」

「ま、毎年……使用人が総出で採りに出かけますので、私も……」

「へぇ、それは面白そうですね」

「そう……ですか?」

「はい」

 ベネディクトが笑うと、ベアトリーチェも恥ずかしそうに微笑んだ。

 正直な気持ちとして、まだ彼女を結婚相手としては見られる気はしない。けれど、それはなんとなく、好ましく思える笑顔だった。

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