断章

歌鳥と少年

 季節に一度か二度くらいふらりと城に顔を見せる、やたらと明るい夫婦のことは、嫌いではなかった。むしろ、色々と面白い土産をくれる好人物であると、幼いベネディクトは理解していた。

 男の名は「ちちうえ」、女の名は「ははうえ」。

 顔を合わせると機嫌良く色々と話を聞かせてくれる。話の内容は、幼い彼には難しくて、よく分からないことが多かったけれど、どこか遠い、異国の話ばかりであったように思う。

 二人のことをそう呼ぶようにと乳母から教えられた名が、のことを指す言葉であることを知ったのは、彼が少し大きくなってからのことであり――

 そして、気さくで誰にも好かれるベイフェルト公爵夫妻が、己の子供達に対し、およそ人の親が負うべき責任を何一つ果たさないまま、気ままに生きている人達なのだと理解したのはさらに後、成長した彼が分家し、アヴァロン城を出た後のことになる。

 ともかくも、優しい皇子は親を知らずに育った。


 けれど、決して寂しい日々を送ったわけではなかった。彼を育てた側付きの使用人たちが皆、聡明な少年を深く愛していたからだ。

「ベネディクト様、そろそろお夕食の時間にいたしましょう」

 部屋に戻ってきた乳母のヤナは、子供用の小さな机に熱心に向かっている少年に、のんびりと声をかける。

「もーちょっと、あと、3つ……」

 4歳の誕生日を迎えたばかりのベネディクトは、最近とみに熱心に勉強に励んでいる様子だった。執事のクヴェンから、文字を習っているのだ。

「もうっ、クヴェン、いい加減にしてくださいな。お食事が遅れると、おやすみの時間が……」

「殿下は何としても今月中に全ての文字を書けるようになりたいと仰せなのだ」

 あきれ顔のヤナに、真面目なクヴェンは律儀に答える。

「今月中って……そんなに焦る必要はありませんよ」

「アーシュラ殿下は四歳になる前にもうアルファベットを全部書けたと聞かれて、奮闘しておられるのだ」

「そんな、気にさせるようなことを仰ったんじゃありませんか? 皆それぞれのペースというものがあるのですよ」

「姉君に見て頂くために頑張っておられるのだ。口を挟まないでいただきたい」

 親代わりの二人があれこれと言い合う横で、少年は懸命に文字の書き取りを続けていた。


 ベネディクトにとって、二つ年上の姉アーシュラは、ただ仲の良い姉という位置づけだけでは語りきれない、とても大きな存在である。

「あねうえ! これ!」

 食卓に、粘って作り上げた文字の書き取りノートを持ち込んで、アーシュラに差し出す。

「まぁ、ずっとこれをかいていて、食事におくれたの?」

「はい」

「ふぅん……」

 アドルフが子供達と食卓を共にしない日は、アーシュラと、ベネディクトと、エリンの三人で食事をする。年上のアーシュラは名実ともに子供達のリーダーで、いつも真ん中だ。

 弟から受け取ったノートを、難しい顔で睨む。そして、おもむろにベネディクトに向き直るとぱあっと笑顔になった。

「偉いわ! さいごまで全部書いてあるわね!」

 少し気まぐれなこの子供達のボスは、しかし、年少者の努力を大いに褒めてくれる。ベネディクトは、丸っこい頬をリンゴのように紅潮させて、嬉しそうに微笑んだ。姉に肯定されることは、世界で一番嬉しいことのように思われた。

「エリンなんて、まだNまでしか書けないのよ。わたくしが教えているのに」

「えっ……」

 突然非難の目を向けられて、夢中で食事をしていたらしいエリンは、驚いて二人の方を見る。アーシュラに叱られると思ったようだ。みるみる不安そうに、大きな瞳を潤ませる。

「エリン、だいじょうぶだよ、僕が教えてあげる」

 姉の剣として育てられることになったエリンのことを、ベネディクトは気に入っている。彼は同い年だけれど、自分より何かと頼りないし、子供っぽいので、ちょっと弟ができたような心持ちなのだ。

「良い考えね、じゃあベネディクト、わたくしの代わりに、エリンに字を教えてちょうだい」

「はい!」

 幼い日々、少年は幸せだった。




 初夏、城内にある畑の苺を使用人達と一緒に摘むのは、毎年子供達が楽しみにしている行事だ。この日摘んだ果実は、しばらくはケーキやムースなどの美味しいおやつになり、その後もジャムに加工されて、大切に食べられるのだ。

「ヤナー! これ! もう一杯になってしまったわ!」

 一人だけ年上なせいで、手足が長くやることの早いアーシュラは、テキパキとカゴを苺で山盛りにしては、新しいのを寄越せと駆け回る。

「えと……ええと……」

 几帳面な少年は、一粒一粒、色づき具合や、大きさなどを確認しながらもいでゆく。ちゃんと裏返して確認しないと気が済まないのだ。

「あれ……?」

 これは美味しそうだぞ、という粒に限って、大きな穴が開いていることが多い。どうしてだろう、と首をひねっていると、後ろから覗き込んだヤナが言った。

「ああ、虫か鳥が食べてしまったんですね」

「とりが?」

「左様でございますよ、お城の庭には、小鳥がたくさんおりますでしょう?」

「ことりが、いちごを食べるの?」

「ええ」

「へぇ……」

 城の広い庭には、リスや鳥が住んでいる。飼われているわけではないので、そうそう簡単に姿を見かけることはないが、その動物たちに、皇子はその日、はじめて興味を持ったのだった。


 アヴァロン城は、時に、重苦しい雰囲気に包まれることがある。皆の中心的存在であるアーシュラが体調を崩し、部屋から出てこられなくなってしまう時だ。彼女がしばしば、死の危険があるほどに深刻な状態にあったことを、ベネディクトは正確には理解していなかった。ただ、姉が寝込むと皆が暗い顔をするし、姉に会えなくなってしまうので、悲しかった。

 そんな時、ベネディクトはよく庭へ出かけた。鳥を見に行くためだ。

 囀りに耳をすませながら、そろそろと庭を歩く。小鳥は臆病で、あまり近くまで行くと飛び立ってしまう。そっと遠くから観察して、羽根の模様を覚えて、部屋に戻って図鑑で名前を確認する。スズメやセキレイ、コマドリなど、色々な鳥の名前と姿を、少年はすぐに覚えてしまった。クヴェンやヤナに自慢しても、彼らは鳥の名などには疎いので、あまり面白くはなかったのだけれど、姉が今度元気になったら、たくさん覚えた鳥の名を教えてやろう。彼女ならばきっと、あの小鳥たちの素晴らしさを分かってくれるはずだ。

 小さな鳥が、その美しい翼で空を飛ぶ様に、強く憧れた。あんな風に自在に飛び回ることができたら、どんな感じがするのだろうと、少年は繰り返し夢見た。


 朝、朝食の時間よりもずっと早くに起き出して、最初に庭へ。

 この森の中に巣を作っているものが多いのか、朝の時間の方が、多くの鳥に出会うことができるのだ。

 少年は、キョロキョロとあたりを見回していた。最近、小鳥たちの中で、特に美しくさえずるものがいることに気が付いたのだ。森の木の上のどこかで、美しい笛の音のような、魅力的な歌を歌っている。

「いないなぁ……」

 けれど、探し方が悪いのか、声の主は一向に見つからない。――もっとも、その時の少年は、たまたま目に入る鳥を観察していただけで、梢の間に潜む小鳥の姿を、自分で見つけられるような技術は無かったのだけれど――あんなに目立つ声をしているのに、どうして見つけられないのだろう。

「うーん……」

 森に響く小鳥の歌は、木漏れ日のように降り注ぎ、どこから聞こえてくるのかが定かでない。分かりやすく遊歩道に舞い降りてくれれば良いのだけれど、中々都合良く姿を見せてくれるものではないのだ。


「おや?」

 鳥を探して彷徨っている途中で、不意に、見知った声が落ちてきた。

「ツヴァイ?」

 祖父の剣の声だ。と、思ったときには、白い衣が目の前に翻る。どこかの木の上から降りてきたらしい。彼がこんな風なのには慣れているので、ベネディクトは驚かない。

「こんな朝早くから、お散歩ですか?」

「うん」

 ニコリと笑う。彼は優しいツヴァイのことが大好きだ。毎日会えるような相手ではなかったので、今日はなんだかついている。

「鳥をさがしてるの」

「鳥?」

 ツヴァイは少し驚いたような顔をした。そうだ、彼ならば鳥の探し方を知っているかもしれない。

「この……ほら、このこえの鳥……」

 うまく説明ができなくて、宙を指さす。

「この声の鳥が、みたいの」

 音には色も形もないので、少年の指は何も指し示すことができない。けれど、城の剣は皇子の意図を察したらしい。

「それなら、私よりもずっと詳しい人が、奥にいますよ」

「えっ?」

「一緒に行きましょう」

 ふふふと笑って、ひょいと少年を抱き上げる。


 ツヴァイに連れて行かれたのは、裏庭の森の中でも、奥まった静かな場所だった。いつもは、こんな所まで遊びに来ない場所だ。そこに、祖父が居た。

 紫色の外套が、木漏れ日の下で音も無く揺れている。お祖父様、と、声をかけようとするよりも先に、男は二人が現れたことに気付き、黙れと口元に指をやった。それから、少し離れた場所にある木を指した。

「……?」

 皇子を抱いたまま主人の隣に立ったツヴァイが、少年の耳元でそっと囁く。

「アドルフの指の先、よく見てご覧なさい」

「え……」

 祖父が示した先には、小さな巣箱があった。ちょうど、餌やりをすませたらしい親鳥が飛び立っていくところである。

「シジュウカラ……」

 小さな声で、感動したように、少年は言った。

「ほう」

 その言葉に、アドルフは振り返る。

「見ただけで分かるのか?」

「はい」

 ここ最近、忙しくて食事を共にすることができずにいたので、祖父と話をするのは久しぶりだった。アドルフは口数が少なくて気難しいが、立派な祖父だと、尊敬していた。

「皇子も、鳥がお好きなようですよ、アドルフ」

「ベネディクトが?」

「お祖父様も?」

「……そうか」

 厳しい祖父が微笑んだ。それはとても個人的な笑みで、今まで目にした祖父の顔の中で、一番優しいもののような気がした。

「ツヴァイ、そろそろ良いか」

「そうですね。今なら」

 主人の言葉に、剣は頷いて、少年を地面に下ろす。何かするのかなと思って見ていたら、ツヴァイはひょいひょいと器用に梢の上に登っていって、木製の巣箱を取り外してしまった。

「あっ!」

 何てことをするのだと少年は悲鳴を上げたが、アドルフは大丈夫だと言って、大きな手を少年の肩に置いた。

「今、ちょうど親鳥は餌を探しに出て行ったところだ」

「順調そうですよ、アドルフ」

 巣箱の天井は開くように作られているらしい。ツヴァイはそっと中を覗きながら、揺らさないようにそれをアドルフとベネディクトの前に持ってくる。

「うわぁ……」

 少年は感嘆の声をあげた。そこには、フワフワした頼りない羽毛に覆われた雛が、ひしめき合って鳴いていた。狭い巣箱に、十羽も居るだろうか。ぎゅうぎゅう詰めで随分賑やかだ。

「今年は数が多いな」

「ええ。他の巣箱も埋まっていますしね」

「可愛い……」

 アドルフは屈んで、孫の目を見て言う。

「毎年、この季節はここに巣を置いて観察している。この雛たちは、あと半月もせずに巣立ちだ」

 祖父にこんな趣味があるなんて知らなかった。鳥の雛なんて、図鑑でしか見たことが無くて、憧れの存在だったし、すごい。感激するベネディクトに、アドルフはいつになく優しい顔で笑った。

「しばらく、お前も一緒に見に来るかね」

 祖父は自分に冷たいわけではないが、姉の方をずっと可愛がっていて、いつも褒めていた。彼がこんな風に、自分だけに微笑んでくれることがあるなんて、夢のようだ。

「はい……!」

 幸せをかみしめるように、少年は笑顔を見せた。


「そうそう、皇子は探している鳥があるそうですよ。アドルフ、教えてあげてください」

 巣箱を元の位置に返して、戻ってきたツヴァイが、悪戯っぽく言った。

「探しているとは? どんな鳥だ?」

 アドルフは興味津々に問いかける。

「とてもきれいな声の……えと……」

 姿は見たことが無いので、説明をしようと耳をすませる。

 少年の願いに応えるように、三人の沈黙の間を、歌が響いた。

「あっ!」

「この声か?」

「はい」

 柔らかく、朗らかなさえずりが、麻の森を渡っていく。アドルフは笑って立ち上がった。

「これならば珍しく無いからすぐに見つかる。クロウタドリだよ」

「クロウタドリ……」

 そういえば、その名は図鑑で見たことがある。くちばしの黄色い、大きめの鳥のはず。

「声はあっちの方からしたな。行ってみよう。これを持っていなさい」

 言いながら、祖父は首から提げていたらしい双眼鏡を外して、少年に手渡した。

「えっ……」

「お前にあげよう。少し重いが、手もすぐに大きくなるだろう」

「あ……ありがとう……ございます……」

 祖父の双眼鏡は、ずしりと重かった。


 祖父と、ツヴァイと、三人で並んで、朝の森を歌声の主を探して歩いた。

 双眼鏡は、紐を短くしてもらって首にかけて、手で大切に持って歩いた。鳥のさえずりが聞こえる度にアドルフは足をとめ、これは何という鳥だといちいち説明する。双眼鏡の使い方も丁寧に教えてくれ、今まで遠くから何となく観察するだけだった少年は、はじめて、野鳥を間近に見ることになった。

 クロウタドリならすぐに見つかるとアドルフは言ったが、こんな風に三人で森を散歩できるなら、なかなか見つからなくても悪くないとも思ってしまう。

「ベネディクト」

 祖父が唐突に立ち止まり、そっと屈んで、行く手の木の上の方を指さす。

「あの木の、幹が三つに分かれているところ、わかるか?」

「はい……」

「その双眼鏡を使って見てみなさい」

 言われるままに、双眼鏡を覗いてみると――

「あっ……」

 艶やかな黒いからだに、鮮やかな黄色のくちばし。クロウタドリの雄だ。

「…………」

 息を詰めて見つめていると、確かに美しい声に会わせて、黄色いくちばしが動いている。

 森に響く柔らかい歌声。

 この歌は彼が歌っていたのだ。

「……真っ黒ななりをしているくせに、賑やかによく喋る……あの鳥を見ていると、大切な友人を思い出す」

 独り言のように、アドルフが呟いた。

「……好きな鳥だよ、私も」


 祖父が言った友人が誰なのか、その時のベネディクトには知るよしもない。

 けれど、このことはアーシュラやエリンには内緒にしておこうと、少年は思っていた。

 皆に畏れられる厳しい祖父が、こんな穏やかな顔で、小鳥の話をするだなんて。きっとツヴァイと自分しか知らないに違いない。

 この優しい祖父を――独り占めしておきたい。


 その後、ベネディクトはしばしば早起きして、祖父と庭を散歩するようになった。彼と同じように、幼い頃から鳥が好きだったというアドルフは、城に飛来する鳥のことなら何でも知っていて、何でも教えてくれた。

 シジュウカラの巣の管理も、翌年からは祖父と一緒に行うようにして、場所を増やすことにした。毎年、何個の卵が産み付けられ、何羽の雛が無事に巣立っていったか、熱心に記録をつけて残した。


 孤独な皇子にとって、何よりも嬉しく幸せな時間は、それから数年にわたり続き――しかし、やがて、アドルフが彼に優しく接することが出来なくなったとき、途切れることになったのだった。

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