ベネディクトがその男――バシリオ・コルティスと出会ったのは、アーシュラがゲオルグと出会ったのと、まさに同じ日の出来事であった。

 コルティスは皇女の誕生日を祝うお祭り騒ぎに駆り出された商人の一人で、南エウロを代表する豪商である。広間に姉の姿を探しに来て、慣れない大騒ぎのせいで不安げにしていた皇子に、コルティスが声をかけたのだ。

 当時、ベネディクトがアドルフの不興をかっているというのは、帝室の事情に通じる者の間では公然の秘密で、皇子に近づけば立場が危うくなると考える者はとても多かった。

 だから、わざわざベネディクトに声をかけてくるような者は、貴族の中には誰一人いなかったのだ。


「殿下、このような所にお運び下さり、光栄の極みにございます」

 その夜、白大理石を敷き詰めた、広々とした玄関ホールで、バシリオは跪いてベネディクトを出迎えた。背が高く、体格の良い彼は、商人というよりは騎士のような風体の男であった。

「いっ、いいえ……お招き、う、嬉しく思います。コルティス殿……」

 ベネディクトは、不安げな面持ちで微笑んでみせる。

 まことに哀れなことに、この時の少年は、ごく親しい使用人を除いて、大人に対し怯えた表情を向けるようになっていた。

 ベネディクトは、大きく、力の強い男が怖かった。礼儀作法もきちんと身につけているにも関わらず、会話にもぎこちない吃音が混じってしまう。それが、祖父から今も継続して受けている暴力のせいであることは、疑いようもないことであった。

 ベネディクトの緊張した面持ちに気付いたらしいバシリオは、おもむろに顔を上げ、彼と目線を合わせると、ニカリと歯を見せて笑った。

「皇子、そのような過分のお気遣いを頂かなくとも、ここは一介の商人のあばら家でございます。ですが、料理だけはどこの大貴族のお抱えシェフよりも素晴らしいものをお出しできると自負しておりますゆえ、本日はお招きさせて頂きました」

 ジュネーヴの市街地にある、貴族の屋敷にも引けをとらない立派な邸宅は、コルティス家の別宅だ。晩餐に招かれたベネディクトは、祖父の許しを得て、双子を伴って訪問していた。

「そちらのお二人は?」

「えっ? ええと……こ、この子たちは……」

 口ごもる少年に、バシリオはパッと表情を変えて手を叩く。

「さすがでございます。このバシリオ、感動いたしました。かつて、帝室の剣は皆すべからく見目麗しいのだと伺ったことがあります。殿下の御剣、なんと美しい双剣でしょうか!」

「あ……」

 剣は皇帝と、帝位を継ぐことを約束された者にしか持つことの許されないものであり、ベネディクトがアヴァロンの片隅で育てているこの双子は、決してそのような存在ではない。けれど、その言葉は少年にとって、この上なく心地よく響いた。

 広い城で、両親にはあまり会えない。祖父は自分を憎んでいる。けれど――きっと、自分にも剣が居てくれれば寂しくないのだ。ツヴァイや、エリンのように。双子が自分の守護者になってくれればいいと、少年は密かに願っていた。


 バシリオの言葉は、それをあっさりと肯定してくれるものだった。

「は……はい。カラスと、クロエと言います。偶然、僕が助けて……えと、シノニア人で……」

 アヴァロンでは、二人に興味を示す者はいなかった。だから、双子の名を人に教えたのは初めてだった。

 たどたどしく二人の友を紹介するベネディクトの話を、バシリオはゆっくりと聞いて、感心したように深く頷く。

「皇家の剣と主は、この世の主従のうち、最も美しい絆を育むとか。陛下ですら一本しかお持ちでないものを、対でお持ちになるなんて、殿下はたいそう、幸運の持ち主でいらっしゃるようだ」

「は、はい……!」

 紫を持たぬ自分が剣など、決して、アドルフは認めないだろう。自分のそのような願望を知ったら、きっとまたひどく打たれるに違いない。心の隅で知りつつも、ベネディクトはその夜、久しぶりに彼本来の、優しくあどけない笑顔をみせたのだった。

「さて、と。あまり私などと長く話をしていても、殿下を退屈させてしまいますな。クーロ、こちらに来てご挨拶を」

「はい」

 バシリオの声と共に、ホールの奥から、子供が姿をみせる。くるくると良く動く大きな瞳が印象的な少年だった。

 一見した感じ、ベネディクトよりも少し年下なくらいだろうか。皇子の前におずおずと進み出て、きっと慣れていないのだろう、ぎこちなく跪いた。

 少年のお辞儀を見届けて、バシリオが口を開く。

「息子のクーロでございます。食事の支度が調うまで、クーロに屋敷を案内させますので、どうぞ、お心のままにおくつろぎください」






「この間、初めてエリンとまともに話をしたよ」

 翌週、顔を合わせて開口一番、嬉しそうに言ったゲオルグに、リゼットはすました顔が崩れるほど驚いた。彼が話題にしたのは、この間城を訪れた時に唐突にエリンを混ぜて開かれた、茶会のことのようだ。

「エリン様と!?」

「様? ……彼は、君らよりも偉いの?」

「偉い、というか……エリン様は殿下の剣でいらっしゃいますから……私達とは違います」

「ふぅん……」

 ゲオルグは分かったような、分からないような顔で曖昧な相槌をうつ。いつもならばそのまま余計なお喋りはしないリゼットであったが、今日は違った。

「それで、何をお話されたのですか?」

「興味あるんだ」

「そ、れは……」

 リゼットは口ごもり、困ったように俯いたが、やはり、興味はあるらしく、すぐに思い直したように顔を上げる。

「エリン様とは、私もあまりお話したことはありませんから……」

「へぇ……殿下とは普通に話していたけどなぁ」

「それはそうです。お二人は、ずっと、お小さい頃から一緒にでいらっしゃいますから……」

「小さいころって?」

「エリン様が三歳の時に、剣として城に入られたと伺っています」

「さ……本当に? 何か、すごい話だねぇ」

「そうです。あの方は、殿下の守護者であり、一番の理解者でいらっしゃいます。私は、お二人は本当に素晴らしいと……」

 きりりと太い眉を寄せ、真面目な顔で力説するリゼットの顔を、ゲオルグは面白そうに眺めて言った。

「君、殿下のことが好きなんだねぇ」

「えっ……」

「彼女の話をする時は、普段より随分可愛い顔をしてるから」

「へ?」 

「リゼット、折角きれいなんだから、いつもそういう風な顔をしてる方がいいと思うな」

「え……な……」

 ゲオルグが何気なく口にした一言に、少女は凍りつき、それから、徐々にその丸い頬を紅潮させていった。


 リゼット・パーカーは、まだ若いが、れっきとした皇女専属の使用人である。はじめはアーシュラの遊び相手として城に上がり、その後は彼女付きのメイドとしてアヴァロンに仕えている。どの使用人に対しても優しいアーシュラであったが、彼女のことは特別で、まるで妹のように可愛がっていた。

 そして、リゼットはアーシュラに心酔していた。半ば信仰といっても良いくらいの忠誠心だ。しかし、それは、ただ皇女が敬愛すべき主人である、ということだけが理由ではない。

 彼女にとって、アーシュラは命の恩人なのだ。

 リゼットの父は、この城の執事クヴェン・ラントである。

 本来、執事とは結婚を許されない職であり、当然、子を持つこともご法度である。だから、主に隠れて交際していた恋人との間にリゼットを授かった時、クヴェンは恋人に、子供を産んでほしいとは言えなかった。

 彼は主君アドルフへの忠義を守るため、本来喜ぶべきその出来事を、闇へ葬り去ってしまうべきか、長い間苦悩した。クヴェンは(リゼットも同様の気質を受け継いでいる通り)規律を重んじる、大変に真面目な性格である。だから彼女は、生まれなかった可能性もあったのだ。

 彼が子を持つことを認めて欲しいと、アドルフに頼んだのは幼いアーシュラだった。クヴェンは、当時ほんの幼子だったアーシュラが自らの悩みの種について理解をするはずないと思い込み、つい、彼女の前で恋人と腹の子供について話してしまったのだ。

 そしてそれは、結果的に彼に幸福をもたらした。

 アドルフは、愛孫からの懇願を受けて――結婚こそ許さなかったものの、子が生まれてくることについては認め、祝福し、リゼットが生まれた後には、彼女が成長したらアーシュラに仕えるということまでも許した。

 父と娘は、一般の家族のように一緒に暮らすことは無かったが、アヴァロン城では共に過ごす時間を得ることができたし、アドルフの特別なはからいによって、働きながら城で充分な教育の機会も与えられていた。大人のメイド達からも温かく見守られ――少女は、幸せに育っていた。

 自分が得た居場所と幸福は、皇女に与えられたものだと、リゼットは理解していた。だからこそ、アーシュラは彼女にとって、本当の忠誠を捧げるべき、かけがえのない主人なのだ。

 しかし、頑なに忠義を誓うリゼットとはうらはらに、アーシュラは彼女のことは妹のようなものだと思っているようだ。

「リゼット、お前もこちらに来て一緒にケーキを食べない?」

「ええっ、め、滅相もございません!」

「ふふふふ、本当にお前はクヴェンそっくりねえ」

「くそまじめ、で、ございますか」

「そう、それ」


 向かいにゲオルグ、隣にエリンを座らせて、アーシュラはすっかり浮かれているようだった。ここのところ、ひどく体調を崩すようなことも無くなって、皇女は本当に元気そうにみえる。

「だって、ゲオルグがこれから、ガネイシアの話をしてくれるのよ?」

「ですが私、この後勉強の時間を頂いておりますので、今仕事を放り出すわけには……」

「そう? そんなの――」

「……殿下、無理を言って困らせてはいけません」

 見かねたエリンが口をはさむ。

「あ、喋った」

 ケーキを口に運ぶ途中だったゲオルグが、それを見て目を丸める。

「……何か」

「二言目。今日はよく喋るね」

 面白そうに言う。テーブルに座って紅茶を飲んでいても、エリンは何もなければ一言も話さないからだ。

「……よく、というほど饒舌ではありません。カルサス様」

 明るい少年のペースに乗せられたのか、エリンはつい三つ目の台詞を口にする。その様子を、アーシュラはずっと嬉しそうに見つめていた。






 同じ頃、ジュネーヴ、コルティス家別邸。

「殿下!」

 幼い声が、昼下がりの青空に吸い込まれていく。皇子と双子の姿を見つけて子犬のように駆けてきたのは、先日ベネディクトがこの場所で出会ったばかりの少年、クーロである。

「本当に来てくださったんですね」

「次は図鑑を持ってくるって、約束したじゃないか」

 ベネディクトは微笑んだ。年の近い二人は、先日の晩餐の前に共通の趣味についての話で大いに盛り上がり、すっかり仲の良い友人同士となっていた。

 だから、今日はバシリオの招きを受けての来訪ではなくて、クーロと遊ぶために来たのだ。

「カラスにクロエも、いらっしゃい」

「……うん」

 ベネディクトの後ろで、双子は切れ長の目を少し恥ずかしそうに泳がせて、だいたい同時に頷いた。

「あれ、お前たち、いまさら人見知り?」

「ち、違います、あるじさま」

「わたしたちは、その……」

 口ごもる双子のかわりに、クーロが言った。

「殿下、ふたりはね、ジュネーヴに来てから殿下以外の人とほとんど話をしたことが無かったんだって。だから、僕と話をするのも、まだちょっとびっくりしてる、ってだけですよ」


 クーロの解説に、双子は二人して何度も頷いて同意を表明する。

 双子の城での孤独な暮らしぶりを鑑みれば、それはとても納得のいくことであった。もう少し、人と接する機会を設けてやらないと可哀想かなと思いながら、確かにそうだね、と、ベネディクトは優しく微笑んだ。そして、四人で並んで歩き始める。

「昨日、レマン湖でオオバンとカイツブリを見ましたよ」

「うわぁ、いいなぁ、城にはあまり水鳥はいないんだ」

「今度、一緒に見に行きましょうよ。もう少ししたら、白鳥もやって来ますし」

「白鳥! 行きたいなぁ……」

 普通、皇子や皇女にあてがわれる『友人』は、厳選され、遊び相手としての任務を背負って城に送り込まれる貴族の子供だ。こんな風に、当たり前の子供同士のように話ができる友人を――彼の姉が持っていなかったのと同じように――ベネディクトもまた、知らないままで育っていた。

 立派ではあるけれどアヴァロン城に比べればささやかな庭を通りぬけ、この間は緊張して立った玄関ホールの奥から、螺旋階段をのぼった二階にある、クーロの部屋へ。この間目に入る使用人はせいぜい二人くらい。どの者もクーロに優しく声をかけ、皇子に丁寧に挨拶をする。バシリオの邸宅は、ベネディクトには、暖かく、羨ましい雰囲気を感じさせるものだった。昼間に訪ねるとバシリオはいつも仕事で不在だけれど、毎日、夜になれば帰ってくるそうだ。こういう屋敷での家族団欒は楽しいだろうな、と、ベネディクトはぼんやり思う。

 アヴァロンは広すぎて、使用人もとても多い。それなのに、家族は滅多に揃わないのだ。

「殿下、今日も夜ご飯、一緒に食べられますか?」

「……いいの?」

「もちろんです!」

 クーロは嬉しそうにはしゃぐ。彼にしても、バード・ウォッチングの話題で盛りあがれる同年代の友人が今まで周囲にいなかったので、ベネディクトとなら何時間でも話していたいのだ。

「じゃあ、君が野菜を残さず全部食べるまで、見届けて帰ろうかな」

「えええ……」

「好き嫌いはいけないよ?」

「そーですけど……」

 情けない声をあげる新しい弟分に、ベネディクトは声をあげて笑った。




「……あれ……居ないなぁ。本当に」

 庭森で、ゲオルグは迷子になっていた。

 迷子というか、アーシュラとはぐれてしまっていた。

「どうしようかなぁ……」

 さらに正確には、はぐれたわけではないのだ。

 庭で鳥の巣を見つけたアーシュラは、弟から望遠鏡を借りてくるから待っていろと言い残して、エリンを伴い城へ戻った。

 それがたぶん、小一時間ほど前の話。そして、戻ってこない。

 少年は我慢ができる限り、餌を求める雛鳥のあまり愛らしくはない声を聞きながら、巣のある木のふもとで二人を待っていたのだが――やがて、しびれを切らしたのか歩き出した。

 敷地は広いが、どこにいても大体は城が目に入るので、遭難するということはない。アーシュラが去っていった方向に足を進めて、しばらく行ったところで、呆気無く待ち人は見つかった。

「あ……」

 木漏れ日の落ちる柔らかい芝生の上で、従者の膝を枕に、皇女は眠っていた。

 予想外すぎる光景に、言葉を失ったゲオルグに気付いたエリンが顔を上げる。

「申し訳ありません、暫くしたらお起こししようと思っていたのですが……」

 身動きの取れない体勢のまま、こちらを見てエリンが言った。少しも申し訳なさそうな顔じゃないけれど、この際それはどうでもいい。

「……殿下、どうしちゃったの?」

 アーシュラはぐったりと動かない。閉じられた瞼に、青白い頬。まるで、はじめから動くことなど無い人形がそこにいるかのようだ。あらためて見ると、少し心配になった。

「休憩すると仰って、そのまま……」

「具合悪くなったとか?」

「いいえ、体調は良いはずです」

「寝不足?」

「昨晩はきちんと睡眠をとられています。少し、はしゃいでお疲れになっただけでしょう」

「そっか……」

 ならいいけど、と、言いながらゲオルグも傍らに腰を下ろす。

「君は、本当に殿下のことに詳しいんだね、エリン」

 彼とはじめてまともな会話を交わしている、ということに、気付かず続ける。エリンも、二人きりでこうして話しかけられて、無視するわけにもいかない。

「……殿下の剣ですから」

 ポツリと言ったエリンの言葉に、ゲオルグは大げさに反応する。

「そう、それ!」

「は?」

「リゼットにも教えてもらったんだけど、イマイチ分からないんだよね。君と、殿下の関係性っていうか……」

「関係……?」

「彼女が言うには、剣っていうのはただの使用人とは違うって。それって、雇われて仕えているのとは違うっていうことだよね。見返りが無いってこと?」 

 ゲオルグの言葉は、エリンには理解の出来ないものだった。

「見返りとは?」

「お金? あー……あと、貴族なら、爵位とか?」

 言葉の意味が分からないわけではない。それを、自分と主人に当てはめて考えたことが無いだけだ。

「そのようなものは、ありません」

「ふぅん……」

 ゲオルグは、分かったような分からないような返事をし、そして、

「僕はさあ、そういうのって、普通、奴隷っていうと思うんだけど」

 悪気の無い声でそう言った。

 エリンは暫く黙りこんでいたが、やがて、目を覚まさない主の白い額に目を落としつつ、何故か微かに笑う。

「……確かに、アーシュラが面白がる理由が分かる」

「えっ?」

 小さく呟いた声は、ゲオルグにはっきりとは届かなかったようだ。

「剣に、わざわざそんなことを聞いてくる人は、初めてです」

「ごめん。怒ったかい?」

「いえ、別に……」

 エリンは本当に、気を悪くした様子は無いらしい。ふわりと、彼らしくない微笑みを浮かべたまま、独り言のように続けた。

「しかし、そうですね。確かに、仰る通りかもしれない。選択肢ははじめから無かった。この方と共にある他に、生は無い。だから、奴隷なのでしょう、私は、アーシュラの」

 言いながら、芝生に落ちた皇女の長い髪にそっと触れる。彼の長い指が、暖かな陽光のような皇女の髪を掬い取り、まるで自身と彼女のつながりを確かめるかのように、静かに漉いた。ゲオルグはその様子を暫く黙って見つめていたが――やがて、その眼差しに、どことなく嫉妬のような色が混じる。

「そうはいっても、とても奴隷には見えないね」

 けれど、言葉は相変わらず快活で、てらいなく響く。

「そうでしょうか」

「そうさ。だって、君は望んで彼女の傍に居るみたいに見えるもの」

 そう、ゲオルグはどこか試すように言った。

「望んで……」

「そういうのはさ、奴隷じゃなくて、家族とか……恋人とか、そういうものだよね。剣っていうのは、つまり、そういう存在?」

 最後の台詞は少し意地悪な顔で発する。エリンは、返す言葉に詰まり、黙りこんでしまった。

 剣は主の従僕であり、守護者である。いつも傍に置く持ち物のようなもので、誰よりも近しい存在ではあるけれど、家族でも……ましてや恋人でもない。

 そんなこと、ごく当たり前のことで、三歳からここで剣として暮らしてきたエリンにとって、疑問を挟む余地のないことだ。そのはずなのだ。

 けれど剣は機械ではなくて、心を持った人間である。だからこそ、主に誓う永遠に意味がある。

「……エリン、聞いてる?」

 ゲオルグの言葉に、体の内側がざわめいてしまうのは、きっとエリンが正しく彼女の剣だからだろう。主を愛さない剣など居ないのだから。

「聞いています。だとしてもやはり、私とアーシュラは、あなたが思うような関係では無いのです」

「……君ってたまに、殿下のこと名前で呼ぶんだね」

 穏やかな午後に似つかわしくない、強い風が不意に吹き抜けた。一瞬遅れて、森の木が一斉に揺れる音がする。

 エリンは返事の代わりに、目を覚ます気配のない主の、小鳥のように軽い体を抱えて立ち上がった。

「風が出てきました。城に戻りましょう、カルサス様。この方はすぐにお風邪をお召しになりますので」


「息子がすっかりお世話になっているようで、申し訳ございません、殿下」

 持参した豪華な図鑑に夢中のクーロの隣で、彼が撮りためたフォト・アルバムを眺めていたベネディクトに、仕事から戻ったらしいバシリオが声をかけた。

「あ、父さん……」

「いい子にしていたか。殿下に失礼の無いようにするのだぞ、クーロ」

「クーロは写真を撮るのが上手ですね。感心していました」

 にこやかに、ベネディクトが声をかける。もう、はじめの日のように、バシリオに怖じ気づくようなことは無かった。むしろ、この屋敷に居る方が、城に居るよりも落ち着くくらいだ。

「クーロ、食堂に行って、殿下の分も何か菓子をもらってきなさい」

「はあいっ」

 父に促され、クーロは眺めていた図鑑をパタンと閉じて、軽やかに部屋を出て行く。おやつを食べることを許されたのが嬉しいらしい。息子の小さな背中を見送って、バシリオは小さく息をつき、それから、改まって膝を折り、ベネディクトに向き直った。

「お元気そうなお顔を拝見できて、安心いたしました」

「え?」

 いたわるような、安心したような声に、ベネディクトはきょとんと目を丸くする。「失礼ながら、城内で、悪い噂を耳にしましたゆえ、殿下のことを心配申し上げていたのです」

「悪い……噂……?」

「はい。殿下が、皇帝陛下から疎まれておられると」

「あ……」

 その言葉に、少年はギクリと背中を震わせる。身体じゅうの毛穴から、冷たい汗が滲むような、嫌な、怖い感じ。けれど、バシリオは恭しく膝をついたまま、ベネディクトの目を見て続けた。

「私は、納得がいかないのです。殿下のように聡明で慈悲深い皇子がいらっしゃるのに、なぜ、病弱でおられる皇女殿下に、帝位という重責を負わせようとなさるのでしょう。ロイヤル・バイオレットの伝統を守ることだけに固執することが、はたしてエウロの民のためになりましょうか」

 それは、非常に危うい台詞だった。

 貴族を中心としたエウロ上流階級において、皇帝アドルフに楯突くような言動は禁忌である。アドルフは、自らに敵対の意志を見せた者に対して、一切の容赦をしない。だから、今の言葉を誰かに聞かれでもしたら、コルティス家の栄華は一瞬にして灰燼に帰すだろう。

「バシリオ……そんなことを言っては……」

 ベネディクトは、不安に頬を紅潮させ、掠れた声で言う。けれど、バシリオはあくまで真剣に、少年の前で頭を垂れて続ける。

「言動には責任を持つ覚悟でおります。今の言葉、もしもお怒り触れましたならば、どうか陛下に全てお話しください。どのような罰も受けましょう。ですが……」

 男は、瞳に強い光を宿し、語気を強める。

「殿下こそがアヴァロンの光。真にエウロの為を思うならば、我ら商人が生涯の忠誠を捧げるのは貴方様であるべきだと、このバシリオ、確信しているのです」

 ベネディクトは、男の気迫に圧倒されたようにしばらく黙り込んだ。そして、おずおずと口を開く。

「い、今のは……誰にも、言いませんから……安心してください」

 自分のことを、両親だってこんなに肯定してくれたことは無いのだ。疎まれ、避けられ、相手にされなかった自分に手を差し伸べ、忠誠を誓うとまで。そんな男の言葉を、どうして告発などできようか。






「リゼット、僕はやっぱり、よくわからないな」

 皇女が起きてこないせいで、予定より数時間はやく帰路につくことになったゲオルグが、のんびりと旧市街の坂道を下りながらつぶやいた。

「はぁ?」

 徒歩で帰ることになった客の台詞に、同じく歩いて見送るリゼットが、素っ頓狂な声で冷たく返す。

 アヴァロン城の周囲は『旧市街』と呼ばれる。伝統的町並みの保全地域とされており、自動車の使用が禁止されていた。

 基本的に、移動には馬車を使うのであるが、ゲオルグの来訪は城の来賓として数えられてはいなかったので、今日のように、アヴァロンで客の送迎用に使われている馬車が出払っていることがたまにあるのだ。

「だから、殿下と、その剣のこと」

 真面目で礼儀正しく、きちんとしたこの少女が、自分の前ではつっけんどんな態度をとることに、ゲオルグはすっかり慣れていた。だから、特に気にする様子も無く続ける。

「ああ……そのお話ですか」

 何かお聞きになったのですか、と、少女はすました顔を装って尋ねた。

「ちょっとだけね……」

 と、ゲオルグは曖昧な返事でお茶を濁しながら、晩秋の高い空を見上げる。

「そういえば、君もずっとお城で暮らしているようなものなんだよね」

「私、ですか?」

「うん。勉強もアヴァロン城でやってるって」

「あ……はい。皇帝陛下に格別のご配慮を頂いております」

「街の学校には通ったりしたことないの?」

「ありません」

「下の街に遊びに行くとかは?」

「お休みの日は勉強をさせて頂いておりますので、あまり……」

「そっかぁ。じゃあ、リゼットも殿下と同じで、お姫様みたいなものだね」

「は!?」

 からかわれたと思ったのだろう、パッと赤くなって眉を吊り上げる気の強い少女に、ゲオルグは感慨深そうに続ける。

「世間知らずっぽいのに偉そうでさ、だけど、妙に特別な感じがする。殿下もだけど、君もとてもきれいだし」

「き……!?」

 ゲオルグは当たり前のように言ったが、褒められ慣れていないリゼットは言葉を詰まらせ、思わず足を止めてしまう。

 自分の言葉の一つ一つに、この年下らしいメイドの少女が翻弄されていることを分かっているらしいゲオルグは、少し面白そうな顔で振り返り、黄みを帯び始めた太陽のせいだけでない、赤みのさした彼女の顔を見て、悪戯っぽく笑った。

「そういうの、僕の勝手なイメージでは、お姫様かなあって」

 ゲオルグの言葉の意味を図りかねたリゼットは、どうにか文句を言いかけた口をつぐむ。朗らかな少年は、無邪気に、けれどどことなく寂しいような口調で話を続けた。

「アヴァロン城は、そうだなぁ……ほら、絵本の世界みたいだからさ。君たちはみんな、僕からみれば夢の世界の住人って感じがするんだよ。だから、こうやって帰る時はさ、いつも、夢から醒めてしまうみたいな、残念な気がしてしまうんだ」

 坂道を下る少年の背中の向こうには、傾いた太陽の光を眩しく反射するレマン湖が見える。

 箱庭育ちの姫に従う、同じく外の世界を知らない少女は、その時、夕日を背に立つ、外の世界から来た少年の陽気な笑顔とスラリとした立ち姿を、目眩のするような気持ちで、ただ、見つめることしか出来なかった。

 そしてたぶん、その頃から、リゼットの気持ちは、この都会生まれの明るい少年に、少しずつ傾いていたのだろう。






 アーシュラが目を覚ましたのは、自室のベッドの上だった。外は夕焼けなのだろう、部屋がぼんやりと赤い光に包まれている。眠っていたつもりの無かったらしい皇女は、紫色の目を何度かまばたかせて天井を見つめ、それから、傍らに控えるエリンの方を見た。

「ゲオルグは?」

「お帰りになりました」

 従者の言葉に、アーシュラはあからさまに落胆した様子で身を起こし、寝台から降りて窓の傍へ駆け寄る。

「いつ? まだその辺りに居ない?」

「……今頃城門を出られた頃かと」

「どうして起こしてくれなかったの?」

「よくお休みでしたので」

「ばか! 気が利かないわね!」

 アーシュラは癇癪を起こすが、エリンは気にする風もない。

「カルサス様の相手ならば、リゼットが努めておりましたし、心配は無いでしょう」「無いでしょう、じゃ、ないわ! わたくしがお話したかったのに!」

「彼が遊びに来るたび、色々と無理をしてはしゃぐからですよ。体調を崩されては大変です」

 エリンはたしなめるように言う。その忠告に思い当たる節があるらしく、アーシュラは急にしおらしくなってソファに座り、そのままぐったり沈み込むように横になった。

「だけど……近頃本当に調子が良いのよ。少々走っても息が上がらないし、頭もはっきりして身体が軽いの」

 彼女の言葉は真実だった。確かにここしばらくの皇女は健康で、寝こむことが無い。エリンにすれば、だからこそ無理をして欲しくなかったのだけれど――アーシュラにとっては、健康でいられる時間は黄金よりも貴重なのだ。

「きっと、彼のおかげなんだわ……ゲオルグ・カルサス」

 少女は紫の目にキラキラした光を湛えて、夢をみるように呟いたのだった。

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