大広間へ向かう長い廊下を、少年はきょろきょろと物珍しげに周囲を見回しながら歩いていた。重厚な大理石の床に、有名なスミレの紋章が刻まれた柱、上等のお仕着せに身を包んだ、賢そうなメイド達や、目が合っても微動だにしない衛兵。

 どれをとっても、平凡な商人の息子であるゲオルグにしてみれば大変に珍しく、一生の間にそう何度も見られるものではないように思われた。

 門まで出迎えに来て、案内をしてくれている執事らしき男がちらりとゲオルグを見やり、僅かに怪訝そうな表情を浮かべる。男は一瞬迷ったようだったが、口を開いた。

「カルサス様、失礼ですが今までに、こういった機会は?」

「ありません、こんな大きなお城に入ったのも、今日が二回目ですし」

 少年は明るく言った。

「そうですか……」

 男――クヴェン・ラントは、少し困ったように眉をひそめる。

「ああ、やっぱり、僕のように行儀が分かっていないと、皇女殿下には会わせていただけないとか?」

 少年はあっけらかんと、しかし悲しそうに言う。クヴェンの声音からそのように読み取ったようだ。物怖じしない性質のわりには、鈍感ではないらしい。クヴェンは少し驚いたように足をとめた。

「……そんなことはございませんよ、本日は殿下たってのご希望でご足労頂いているのですから。楽しみにお待ちでいらっしゃいます」

「そうですか。良かった」

 慇懃な執事の優しい言葉に、少年はそう言ってにこりと笑った。


 この間の楽器をまた弾いて聞かせてほしいと、アヴァロンからゲオルグに連絡があったのは、皇女の誕生日祝いの後まもなくのことであった。

 カルサス家は、ミラノに本拠地を持つ商家である。高級なものから庶民的なものまで、世界各地の個性的な装飾品を幅広く扱う貿易商であり、珍しいもの好きの先々代が開いた店はまだ歴史も浅く、事業は決して大きくはない。そんなカルサス家に皇女直々のお召しとは、家の者にとっても予想だにしていなかった、ちょっとした事件であった。

 しかし、皆が驚き、慌てる中、当のゲオルグは飄々としていた。状況を理解できなかったわけではない。単に、そういう性格だったというだけだ。まだ若いということもあっただろう。とにかく彼は、美しい皇女とまた会えるのを単純に楽しみに、今日は早起きをして、カリンバ一つ抱えて、ミラノからはるばる、特急列車に揺られてジュネーヴへやって来たのだ。




 通されたアヴァロン城の大広間は、先月のお祭り騒ぎで訪れた時とはうってかわって、静かで、広く、しんとした重い空気に包まれていた。カツンと一歩踏み出した靴音が、やたら仰々しく響く気がする。たぶん誰も居ないからだ。入り口の衛兵を恐る恐る見上げてみるが、ゲオルグと目を合わせてはくれなかった。

「こっちよ!」

「え?」

弾んだ声が天から降ってきたような気がした。

 ハッとして仰いでも、もちろんそこに人影はない。慌てて声の主の姿を探す。

「久しぶりね、ひと月ぶり? 元気にしていた?」

 皇女は、玉座の前の階段に腰を掛けていた。腰まで届く長い金の髪に繊細な銀細工の飾りを挿し、この間見たときとはまた違う衣装に身を包んで……こちらに向かってヒラヒラと手を降っている。

「あ……っ、と……」

 口のうまい少年らしくなく、思わず返答に詰まってしまう。

目の前の少女は、レースが重ねられた豪華なドレスが石の床に広がって、まるで薔薇の花が一輪、無造作に置かれたようだ。

「えーと……お、久しぶりでございます、皇女殿下」

 どう考えても行儀が悪いとしかいえない体勢なのに、眼前の彼女は妙に――否、感動的なほど、美しいものに感じられる。それは、ただ彼女の容姿が美しいからというわけでも、彼女の立場が誰よりも尊いものだからというものでもないなと、返事をしながらゲオルグは思った。

 この感動は、例えるならば――ああ、そうだ。初めて訪れた異国で、見たこともない芸術品に出会った時のような、そういう類のものだ。


「遠くから来てくれたって聞いたわ。どこから?」

「ミラノです。殿下」

「どんな所?」

「ジュネーヴより、ちょっと騒がしいですけど、いい街ですよ。あとは港がもう少し近所だったら、言うことないんですけど」

「海ね! わたくし、実物を見たことがないの。とっても広いのでしょ」

「見たことない? 本当に?」

「嘘なんてつかないわよ? つくなら、見たことあるわって言う」

「そっか……そうですね。そういや、海のことを改めて広いとかすごいとか、思ったことが無かったなぁ」

「あら、贅沢ね」

 こちらを見る、表情豊かな大きな瞳に、不吉なくらい青白い顔。ちぐはぐな印象は少女の実在感を薄れさせ、こうして話していても、まるで人ではない何かのような気がする。

「こっちこっち、ここに座って、音を聴かせて」

 離れた場所に突っ立ったままの少年を手招きで呼び寄せる。アーシュラは機嫌も気分も大変に良いようだった。ゲオルグが傍らに座り、先日の楽器を取り出すと、皇女は期待を隠さずに覗き込む。

「……言っておきますけど、僕は演奏が特にうまいわけじゃありませんから、そこは期待しないでくださいよ?」

 彼女のまなざしに気が付いた少年は、苦笑して言った。

「ふふふ、無理な相談ね。楽しみだもの」

「ほんとに? 困ったなぁ」

 無人の広間で、ゲオルグは持参した遠い国の楽器を演奏した。ちょっと緊張していて、今日のために練習した難しい曲を弾くのは不安だったので、咄嗟にいつも弾いている気に入りの曲を奏でることにした。

 澄んだ音が、高い石の天井に吸い込まれていく。一つ一つの音を確かめながら奏でるような、ゆっくりとした、穏やかで優しい音だ。

 それはとても美しい響きであったけれど、何だか落ち着かない気もした。しばらく演奏したところで、少年はふいに手を止める。

「あら、もうおしまい?」

 彼の手元を熱心に見つめていたアーシュラは、不満気な声をあげる。

「皇女殿下、謁見はこの広間でないといけませんか?」

「え?」

 ゲオルグは苦笑して、天井を仰ぐ。

「ここも静かでいいんですけど、せっかくなら、カリンバは風のある場所で聞いたほうがいいから」

「まぁ……そうなの?」

「そうですよ。この音はね、自然の中で聴くのが素晴らしいんです。僕はいつも外に持っていくか……出かけない時も、屋根に登って弾きます」

「屋根に!?」

「いいもんですよ」

「やってみたいわ」

「殿下が?」

「おかしい?」

「いいえ、傑作ですねそれ」

「でしょう!」

 この人が屋根になんて登ったら、背中から羽が生えて飛んでいってしまいそうだなと、ゲオルグは内心思う。彼がそんなことを考えているなんて思いもしないアーシュラは、ふわっと立ち上がって、微笑んだ。

「では、お庭に行きましょう、ゲオルグ」

「え……」

 突然名を呼ばれ、思わず驚いた声を上げてしまう。

「あれ、違った? 名前」

「あ……いや、そうではありません。合ってます。そうじゃなくて……憶えていらっしゃるとは、思ってなくて……」

言いながら照れたような、慌てたような様子で俯くゲオルグを、きょとんとした表情で見つめ、少女は笑った。

「あなたの名を尋ねたのはわたくしよ? 忘れたりしないわ」

「殿下……」

「さあ、ゲオルグ、お庭に行くわよ。今日はお天気が良いから、きっと風も気持ちいいと思うわ。続きを聴かせて頂戴」


 前を歩くアーシュラに付いて、庭へ出た。

 こういう、高貴な人と並んで歩くなんて初めてだけれど、同年代の他の女の子に比べて、随分ゆっくり歩くのだな、と、ゲオルグは思った。やっぱりお姫様という生き物は、何をするにもおっとりなのだろうか。

 けれど、少女の横顔を見ると、ゆったり優雅に、というよりは、今にも駆け出しそうな様子で精一杯早足をしているような顔に見えたので、単に体が小さいので歩幅が狭いのかもしれないと思い直す。アーシュラは、同年代の少女に比べると、随分華奢で背も低い。そのせいなのだろう、容姿も幼く見えるので、ひとつ年上だなんてとても思えない。

 そして、隣で黙って彼女を観察しているよりも、何かこの綺麗な庭のことでも話したほうが良いかなと、思いはじめた刹那のことであった。

「?」

 浅い緑の森をゆくアーシュラの頭越しに、ふいに金髪の横顔が現れた。

 金髪? 横顔? 

「え?」

 目の錯覚か、なにもない所からフッと現れたような気がして、思わず足を止める。それに気づいた少女が、不思議そうに振り返った。

「どうかした?」

 美しい顔がふたつ並んで、こちらを見ている。やっぱり、目の錯覚なんかじゃない。確かに人が増えている。

「え、えと、その…………ひ、人?」

 皇女と同じような、天使のような金の髪をした、黒ずくめの少年だった。年格好は自分とそう変わらないように見える。


 美しい皇女と並んでも全く見劣りのしない、見栄えのする容姿だが……こちらを見る目は、来るときに会った衛兵よりも冷たい気がする。

「……人ですが」

 少年が口を開いた。やっぱり、視線の冷たさそのままの、不機嫌そうな声だ。

「ああ、そっか。広間では隠れていたものね」

「え?」

「エリンよ」

「は?」

「だから、この子の名前」

 名前よりも、今、手品のように現れたからくりについて教えてほしいのだけど、とは言えずに、よくわからないままコクコクと頷く。

 アーシュラはゲオルグがエリンについて納得したと判断したのか、それ以上彼について説明しようとはせず、早く早くとゲオルグを急かして、彼女のお気に入りの場所らしい、木陰に置かれたベンチに腰を落ち着けた。

 ゲオルグはそこで、随分長い時間、請われるままカリンバを奏でて聞かせた。

 彼自身が言った通り、アフリカの大地で生まれた楽器は、自然の光と風によく馴染み、気持ちの良い昼下がりの庭を、澄んだ旋律が優しく満たす。広間の時と違って、今度は緊張せず、今日の、彼女のために練習した曲をゆっくりと弾くことができた。

 彼女がエリン、と紹介した少年は、その後も一貫して一言も発さず、少し離れた所で自分達を監視しているようだった。最初は気にならないでもなかったけれど、視界に入らなくなると、不思議とすぐに彼の存在は気にならなくなった。

 アーシュラもお喋りを挟まず大人しく演奏に耳を傾け続けた。

 話してみると、(少し浮き世離れしたところはあるけれど)案外普通の女の子だな、と、ゲオルグは感じはじめていたのだけれど……やはり、ふとした瞬間に驚く。

 やっぱり、恐ろしく美しいのだ。血の通っていないような白い肌が、つくりもののような細い体が、自分と同じ血と肉でできているなんて、信じられないように思えてしまう。

 この大きな城の、誰もいない庭で、海も見たことがないという年上の少女。将来、このエウロの皇帝になる人。

 今まで、幼い頃から父に付いて色々な場所を旅して、色々な人に会ったけれど、この人のようなのは初めてだと、ゲオルグは改めて思った。


 広い庭は静かで、彼ら以外の人影を見ることはなかった。そよ風と、時折梢を揺らす鳥の羽ばたき。ここがジュネーヴのアヴァロン城だなんて、とても思えないような、のどかな風景だ。

 エリンはそこで、主人が初めて個人的に招いた、しかも異性の客人と過ごす姿を、ただ黙って見守っていた。

 アーシュラには友人といえる存在はほとんどいないと思う。城で開かれる夜会にやって来る貴族から挨拶を受けることはあるが、あまり長く話をしているようなことは無いし、あんなふうに嬉しそうに笑ったりしない。彼女と親しくするのは、家族の他は使用人か教師、お付きの医師、それと、自分だけだ。

「…………」

 居心地の良い木の上に身を隠して、エリンは、主人の隣でヘラヘラと笑うゲオルグの姿を、納得のいかないような心持ちで見つめていた。

 あれは、特に変わった人間にも、優れた人間にも見えない。

 彼女があの少年に会いたいと言えば、自分はそれを叶えるよう力を尽くすのみである。そんなことはもちろん分かっているのだけれど――――なんだろう、これは。分からない。

(……分からないとは?)

 その感情を、エリンは知らない。


「――ああ、そうだ」

 曲が途切れたところで、ゲオルグはハッとした様子で時計を取り出す。

「殿下、時間とかって、大丈夫ですか? すみません、つい夢中になっちゃって」

 アーシュラは首をかしげる。

「時間?」

「はい……お忙しいでしょう?」

「全然」

「えっ?」

「わたくし、忙しいなんてことは無いのよ。今日はお勉強の予定も無いから、そうね、することといえば、お茶と、お散歩くらいかしら」

「……そういうものなんですか」

「そういうものよ」

 目を丸くするゲオルグに、アーシュラは悪戯っぽく笑う。

「皇女殿下ともなれば、こう……分刻みのスケジュールがびっしり、みたいなイメージでした」

 少年は心底意外そうに言った。

「ふふふふ、それ、何か、別のお仕事と勘違いしているのではなくて?」

「そうですかねぇ……」

 首をひねるゲオルグに、皇女は嬉しそうな顔で続ける。

「ねぇ、ミラノの人はみんなあなたみたいなの?」

「は?」

「だから、その、全然畏まらない話し方とか」

「えっ、わ、す、すみません……」

「ふふふふ、良いのよ。こういうの、前から憧れだったの。畏まらずに話して、って、お願いしても、みんなぎこちなくって、うまくやってくれないのだもの。だって、ドラマに出てくるお友達同士のようでしょう?」

「はぁ……そういうものですか」

「そういうものなの」

 アーシュラはやはり、上機嫌だった。

「僕は……まぁ、自分ではこれで普通だと思ってるんですけど。でも、今日ここに来るのとか、家族はみんなビックリ仰天していましたね」

「家族って? お父様と、お母様?」

「はい。あと、祖父と、祖母と、曽祖父に曾祖母……それから、叔母と……怖い姉が二人ほど居ます」

「……大家族ね!」

 指を折って家族を数えるゲオルグに、今度はアーシュラが目をくるくるさせて驚いた。

「そうなんです。長生きの家系で。爺さんも婆さんも、僕より元気なくらいで、これがなかなか死にません」

「まぁ、ふふふふ、素敵ね、会ってみたいわ」

「殿下がミラノに来たら、きっとお祭り騒ぎになりますね」

「うーん……騒ぎは嫌だわ、ゆっくり見て回れないでしょ」

「だったら、殿下が殿下だってことを、内緒にして来ればいいんですよ。街の連中は気持ちのいい人ばっかりだから、きっと、気に入ります」

「それは……それはとっても素敵なアイデアだわ! 冴えてるわね」

「でしょう」

 ゲオルグの口から語られる、商都ミラノの賑やかさや、人々の陽気さは、城の中の世界とも、時折顔を合わせる貴族たちの世界とも、全く異なったもののように思え、アーシュラにとっては本当に夢の世界のように思われるものだった。


 二人はそのまま、随分と長いこと、本当にただ友人のように話をして過ごした。

 そしてその日、特別に楽しい午後を過ごしたアーシュラが、話し相手としてゲオルグをたびたび城に招くようになったのは、必然だったのかもしれない。

 こうして、ゲオルグ・カルサスは皇女の数少ない友人となった。

 少年の暮らす遠いミラノからジュネーヴは、行って帰るだけで軽く半日はかかる。しょっちゅう行き来すること自体、決して楽なものではないはずだが、元々旅に慣れていたゲオルグは少しも苦にはしない様子で、いつも気安く皇女の頼みに応え、まるで隣町に住む友人を尋ねるように、アヴァロン城へ遊びに訪れた。




「こんにちはぁ」

 彼が通用門の前に立つのは、いつも決まって昼過ぎだ。

 早朝家を出ても特急に半日くらい揺られることになるので、だいたいそのくらいの時間になる。事情を分かっている衛兵は無言で門を開け、いつも、アーシュラ付きの同じメイドが出迎えた。

「遠い所、ようこそおいでくださいました、カルサス様」

 何度訪れても、律儀に同じ台詞で彼を迎える。金髪をきっちり編みこんで、制服をきりりと着こなした、いかにも真面目そうな少女であった。

「君ってさ、ご主人様があんな方なのに、随分真面目だよね」

 前に立って客間へと案内する、おそらく、自分より少し年下であろうという彼女に、ゲオルグは人懐っこく話しかける。少女はいつもそっけなく返すか、

「……あんな方、とは、どんな方のことでございましょうか」

 いかにも不機嫌そうな返事をするかの、どちらかである。

「そりゃ……」

「殿下がどのように仰っしゃろうとも、無礼な物言いは許されません。あなたは爵位すら持たぬ身、本来であれば皇女殿下と言葉を交わすことすら、畏れ多いことなのです。その点をゆめゆめ、お忘れなきよう」

「はいはい……」

 どうしてここでこんなに怒られなければいけないのだろう、というくらい、彼女はいつも不機嫌だ。けれど、ゲオルグは気にとめない様子でニコニコ笑う。

「そういえばさ、ここに来るときはいつも君が出てきてくれるけど、名前も知らないや。なんていうの?」

「は?」

「今のままじゃ君のこと、君、としか言えないなぁって」

「カルサス様……」

「ほら、君は僕の名前を知ってるのに」

 人懐っこいゆるい笑顔に覗きこまれて、あんなに怒っていたメイドの少女は困ったように目を泳がせる。ゲオルグは、元々人と打ち解けるのが得意なのだ。

 怒り顔のまま、少女はしばらく思案して、そして、渋々口を開いた。

「……リゼット・パーカーと、申します」

「そっか、僕ら、年近いよね」

「はぁ!?」

「怒りっぽい人だなあ、リゼットは」

「な……馴れ馴れしく名前で呼ばないでくださいまし!」

 すました顔をした少女の、押し殺した怒鳴り声が、控えめに廊下に響いた。


「……そろそろ時間ですが」

 ゴソゴソといつまでも身支度の終わらないアーシュラに、エリンが声をかける。

「わかっているわ、お前も手伝ってちょうだい」

「お支度は調っているかと思いますが……」

「そうだけど! 靴が気に入らないの。もう少し、転びにくいのがいいわ」

「はぁ……」

 あからさまに呆れた様子の従者を睨んで、少女は靴を放り出す。

「体調も良いし、走れる靴が良いのよ。今日は、牧場を案内するんだから」

「馬を自慢するのは結構ですが、走るのはおやめください。靴がどうこうではなく、お目が半分しか見えないのですよ、転ぶに決まっています」

 アーシュラは、体が不自由であることをゲオルグに話そうとはしなかった。

 友人として、同情されたくないのだという。気を使われたのでは、せっかくの心地よい関係が壊れてしまうと、彼女は心配をしているのだ。

「……では、こちらではいかがですか」

「かかとが無いと、背が低く見えるわね」

「贅沢を言わないでください」

 アーシュラがそのようなことを言い出したのは、初めてのことだ。主人の明らかな変化に、エリンは戸惑っていた。

「ああもう、仕方ないわね。では、それにします」

 アーシュラは、そんな剣の気持ちは知らず、少し子供っぽいリボン飾りのついた靴を持つエリンの方へ、きちんと揃えた小さな足を差し出した。


「うわぁ、すごいな、可愛いですね、仔馬!」

 そして、得意顔のアーシュラから城内の牧場を案内されたゲオルグは、愛らしい子馬を見て、素直に感嘆の声を上げた。

「ふふふふ、あの子のお母様はわたくしが九つのときにここに来た、それはそれは美人の馬なのよ」

 この城で今年生まれたばかりの仔馬を並んで眺める。城の敷地の隅にある小さな牧場には、方々から献上された馬や、その仔が大切に飼育されている。

「殿下は、馬に乗ったりするんですか?」

「するわよ! 上手よ!」

「へぇ、何だか、意外だなぁ……」

 実際彼女が馬に乗ることが出来るのは一年で数えるほどのことだったが、様子を見に来ることが出来る日は散歩のルートをぐるりと大回りして牧場に寄るくらいには、馬も牧場もお気に入りなのであった。

「そういえば殿下、前から気になってたんですけど……」

「なあに?」

「彼、城の中では全然姿を見ませんよね。いつも庭に?」

 ゲオルグは、少し離れた木の傍に黙って立っているエリンの方を振り返った。

「エリンはいつも傍に居るわよ? 城内では、あんまり見えないけど」

「そ、そうだったんですか?」

「だって、わたくしの剣だもの。いつも一緒に居るのは当たり前でしょ」

「剣……?」

 当然、ゲオルグには何のことだか分からない。その存在は、貴族達や知識人ならともかく、一般の人々に広く知られているようなものではないからだ。

 不思議そうな顔をする少年に、アーシュラも『剣』について説明をするべきなのだとようやく気付いて、口を開こうとした時だった。

「だったら、彼も一緒に仔馬を見ればいいのに」

「えっ?」

「だって、ずっと一人でこっち見てるだけだし、暇でしょう? ……って、もしかして、あまり人と話すのが好きじゃないとか?」

 ゲオルグの何気ない提案に、アーシュラは驚く、というより、呆然とした様子で、ゲオルグの赤い巻き毛が、小春日和の牧場を渡る風に揺れるのを見つめていた。

 城には、エリンにそれなりに親しく接する者は幾人か居るが、彼を自分たちと同じ人間として扱う者はいない。

 虐げられているわけではない。剣は他の者とは違う。剣とはそういうものだ。けれど――

「…………そうね」

 アーシュラは、溶けるように笑った。

「それは良いわ。エリン」

「……はい」

 アーシュラが何気なく名を呼ぶと、少年はスイと動いて少女の傍らに立った。

「エリン、三人で一緒に、お茶にしましょう。支度をして頂戴」

「三人?」

 少女の言葉に、エリンは怪訝そうな返事をする。

「そうよ、これからお茶会にするの、お前も一緒に」 


ゲオルグがアヴァロン城を度々訪れるようになって、この日ですでにひと月あまりが経っていたが、ゲオルグは未だエリンとまとも言葉を交わしたことはなかった。声を聞いたこと自体、最初に一言聞いたのと、今の「三人?」で、実に二回目だ。

 全く、不思議な少年である。

 何を考えているのか分からない端正な面立ち、光を束ねたような真っ直ぐな金色の髪。近くで見ると、余計に美しかった。ただ、天使のような容姿にはそぐわない、黒ずくめの格好をしているのが、何となく不吉で、どこからどう見ても近寄りがたい雰囲気だ。

 剣、とは、つまり護衛か何かのことなのだろうか、と、何となくゲオルグは想像する。とりあえず、皇女の付き人であることは確かのようだ。けれど、スラリと細いこの少年が兵士だとはとても思えないのだった。

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