五年の月日が流れた。八歳になったエリンは、城で暮らし始めた頃に比べると、見違えるほどに大人っぽい少年になっていた。

 彼の教育係となったツヴァイは、穏やかな男だが決してエリンを子供扱いせず、礼儀、教養、そして戦士である剣としての訓練を、とめどなく詰め込むように与え続けた。

 ツヴァイは同じ事を決して二度教えない。そして覚えが悪いと、容赦なく罰を与えた。行儀や勉強ならばともかく、教わる内容の半分は、剣としての務めに必要な戦闘や主人の身を守るための行動についての実際的な内容だ。訓練といえど危険の連続で、ちょっとした失敗が命に関わる危険に繋がりかねない。

 けれど、師は教え子の出来が悪ければ、死なせてしまっても一向に構わないとすら思っているようであり――エリンは何度か恐ろしい目に遭わされるうちに、そのことを骨身にしみて理解した。一度など、城の一番高い場所で、外壁の縁を端から端まで歩かされて、危うく落ちてしまいそうになったこともある。

 誰も助けてくれはしない。エリンの前では、師は皇帝の代理である。アーシュラも、ツヴァイのすることに口を挟むことは許されていなかった。だから、エリンには彼に従い、教えられることをどうにか身につける以外、道は無かった。

 あらゆることを必死に己のものにしようとするうち、自分が子供であるという自覚は消えてゆき――結果、彼は子供の姿をして、大人の表情で、周囲に油断のない眼差しを向ける少年に育った。嫌に落ち着いた言葉遣いを覚え、高貴な主の従者として相応しい振る舞いも、その時点ですでに、申し分なく身につけていたのだった。






 まるで老人のように、夜が明ける前に目を覚まし、身支度をして、庭へ降りる。剣の稽古は夜明け前、明るくなるまでと決まっていた。

 朝露に濡れた芝生を踏んで、庭森へ入る。毎朝のことなのに、毎朝のように足がすくんだ。予定よりずっと早く出てきたつもりだったけれど、今日もツヴァイのほうが早いかもしれない。朝、師はこの庭でエリンを待っているのではなく、どこかに隠れ潜んでいるのだ。

 注意深く辺りを窺う。

 神経を研ぎ澄まして、気配を探れ。

 見つけないと、向こうから仕掛けてくる。心を落ち着けるように、所持している武器を触って確認する。それは訓練用に用意された模造品ではなく、れっきとした、武器だった。

 ツヴァイからは昼間、普通の剣の稽古も受けている。けれどこの、朝の最初の時間だけは真剣勝負だった。ただシンプルに、殺せ、もしくは、殺されるな、と命じられていた。

 師が本当に手加減せずに自分を襲っているのかどうかは分からない。けれど、加減をしてくれない、と信じるに足りるくらいには、彼はこの五年、何度も命の危険を感じてきた。

 最初の頃は、ひたすら逃げて太陽を待ち、命をつないだ。しかし最近になって少しずつ逃げるのが難しくなり、短剣や投げナイフをある程度扱えるようになってきたこともあって、反撃もしくは先制について真剣に考えるようになっていた。

 一瞬でも早く、気配を捕まえることが重要だ。ここには隠れる場所なんていくらでもあるけれど、師は、必ずこちらの動きを把握できる場所にいるはず。そして、それが可能なポイントは、そんなに多くないはずなのだ。

(あの茂みか、それか、こっちの木の後ろ……)

 可能な限り注意深く周囲を伺う。小さな物音にも耳をそばだてる。そよ風に木の葉がこすれ、ざわざわと余計な音をたてる。ああ、その音じゃなくて、聞かなければいけないのは――――

 刹那、微かに、枯れ葉を踏んだ音が響いた。

「……っ!!」

 野生動物のように、小さな体が跳ねる。

 攻撃される、と、思う前に手が動いていた。上着に仕込んだナイフを取り出して、音のした方へ投げた。


 それは大人の手のひらにはすっぽりと収まるくらいのもので、今のエリンにはまだ少し大きくて重い。けれど、数え切れないほど投げているうち、一息の動作で投げられるくらいには扱えるようになっていた。だが――

「狙いが不正確ですね」

 無感情な言葉と共に、音が聞こえた場所から5歩ほどずれた茂みから、長身の影が姿を現す。

「気配を感じた瞬間に動くと、こういうこともあるのです」

 言い終わらない内に間合いを詰めた師が腕を振り上げる。夜明け前の青い空気の中、木々が落とす影は未だ闇に近い。ツヴァイが振り上げた手の先には剣のようなものが見えた。

 従者であり守護者である、影の剣の武器は全て暗器だ。避け切れないと悟ったエリンは、咄嗟に両手を交差させてそれを受けた。重い衝撃と、なぜか澄んだ、ベルのような音が響く。師の攻撃を2本の手でようやく受け止めた、エリンの両手にも同じ短剣があった。

 剣撃の音が美しいのは、それが金属ではなく特殊なガラスで出来た刃物だからだ。透明の剣は、太陽の下では幻のように、月光の下では氷のように、そして、闇と薄明においてはまるでそこに存在しないように見える。

 ツヴァイは間髪入れず、空いた方の手を少年の喉元めがけ振り下ろした。剣は常に攻撃をもって防御と為す。二本の手には二本の剣があり、その他、隠し持つ全ての武器も攻撃のためのものである。

 少年は、両手で師の剣を受けたまま、沈み込むように身体を低くし、上体を捻って攻撃をかわした。低い重心を保ったまま、足を狙って二度三度剣を振るった。けれど、すんでのところで切っ先は師の体に届かない。

「先程から、狙いが甘いと言っています。雑ですよ、エリン」

ヒュッと風を切る音がして、次の瞬間、右の上腕に鋭い痛みが走る。刃が肩を抉っていた。瞬間、痛みに体の動きが止まる。しまった、これでは腕が使えない。

 肩が燃えるような感覚に、しかしエリンは取り乱したりはしなかった。この痛みにはもう慣れている。左手でナイフを取り、次の動作に移ろうとするツヴァイの顔めがけて投げた。至近距離だったおかげもあって今度の狙いは正確で、全身で避けたツヴァイに一瞬の、しかし大きな隙が生じた。

 体重をかかとに移動させると、つま先の仕込みナイフがまもなく飛び出す。背中を刺すつもりで思い切り蹴った――のだけれど、ツヴァイの白い衣装がザクリと切れて、光沢のある布がひらりと舞った。

「そこまで」

「あ……」

 終了の声を聞くと、張り詰めていた緊張の糸が切れ、全身の力が抜けてしまう。戦闘中にはむしろ集中力を高めてくれる痛みが、打って変わって耐え難い辛苦となって小さなエリンを襲った。

「最後はなかなか頑張りましたね。おかげで私の服が台無しです」

 少年を助け起こしながら、労うように師は言った。褒められるなんて珍しい。ハッとしてエリンは足に力を入れる。

「最初に相手の気配を感じた時、闇雲に動いては駄目です。あと半呼吸待っていれば、あなたは私の位置を正確に掴めていた。そうすれば、間合いを詰められることなく終わらせられたかもしれない。分かりますか?」

「……はい」

「よろしい。では、一度戻って傷の手当をしてきなさい」

「はい」

 ズキズキ痛む肩を押さえて、少年はペコリと頭を下げると、急いで城の方へと戻っていった。

 人間の体とは脆いもので、指一本使えないだけで万事において大変な不便を強いられる。かすり傷でも、一度怪我をしてしまうとしばらく痛みと付きあわなければならない。ツヴァイは当然、少しばかり怪我をしたからといって、休むことを許してくれはしない。明日からも同じ指導が待っているのに、きっと右手がろくに使えないだろうと想像すると、どうにも暗澹あんたんたる気持ちになった。


 足早に部屋へと戻る途中、薄暗い渡り廊下を、ちらりと小さな人影が横切るのが見えた。まだ夜も明けきっていないのに、きちんと着替えてどこかへ向かおうとしているようだ。

 アーシュラの弟である、ベネディクト皇子だった。

「あっ、エリン!」

 こちらに気付いたらしい、皇子はニコリと笑って嬉しそうに手を降った。

 彼はエリンと同い年だ。アーシュラを交えた三人で遊ぶこともある。エリンにとっては主君の弟だが、向こうはエリンを友人だと思っているらしい。姿を見ると、決まって親しげに話しかけてくれるのだ。

「皇子……随分お早いのですね」

「うん、東の森に、渡り鳥が来ているんだよ」

 首にぶら下げた望遠鏡を見せながら、ベネディクトは嬉しそうに言った。

「鳥ですか」

「そうだよ。観察に行くんだ、お前も行かないか?」

「あ……ええと、申し訳ありません。僕はその、まだ先生と稽古が……」

「あれっ? エリン、もしかして、怪我をしてる?」

「はい……」

「た、大変だ、すぐにクヴェンを呼んで手当をさせ……」

「大丈夫です、皇子。自分でできますから……」

「本当に……?」

 素直なベネディクトは、心配そうにのぞき込む。

「ご心配にはおよびません。すぐに治りますし」

 言って、微笑んでみせる。けれど、傷口を押さえるエリンの手のひらが血で汚れているのに気づくと、ベネディクトはみるみる悲しそうな顔になり、今にも泣きそうな様子で言うのだ。

「痛くない?」

「痛いですけど」

「そんな……」

 気にせず鳥を見に行けと説得して納得させるのに骨が折れるくらい、皇子は、気持ちの優しい少年だった。


 エリンの部屋はアーシュラの居室の一部を区切るようにして作られている。主はまだ眠っているだろうと思い、そっと音を立てないように扉を開けた。

「……エリン?」

 予想に反して、暗い部屋の奥から、掠れた声が響いた。

「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」

「ううん……いいのよ。起きていたから」

 少女の声はハッキリしていたが、苦悶の色が滲んでいる。

「お加減はいかがですか?」

「だいじょうぶ……お前は部屋に戻っていいのよ、エリン」

 上ずった声でそう言った。

「……はい」

 エリンは僅かに表情を歪めたが、主の言葉に従って、ドアで仕切られた自分の部屋へと戻る。アーシュラはベッドに身を起こし、肩を押さえた少年がゆらりと扉の向こうへ消えて行くのを、黙って見送った。

 エリンがこうして傷ついて帰ってきても、彼女はベネディクトのように、都度ハラハラと心配したり、悲しんだりしてくれるようなことは決して無かった。

 それは、皇女が冷たいからではなくて――彼女自身が、痛みや苦しみとは人一倍親しい場所にいるからだ。

 皇女アーシュラは、その明るさや利発さとはうらはらに、生まれつき体の弱い少女だった。それも、命にかかわるほどに。


 偶然、皇女の体調がすこぶる良かった時期に城へやって来たエリンが、そのことを理解したのは、アヴァロン城で暮らすようになってから、随分経った後のことだった。

 初代皇帝がエウロの民と交わした約束、終身独裁官の地位と、その世襲。そして、継承権の正統性を示す菫色の瞳。しかし、時を経て新たに紫を持つ子が生まれにくくなった頃から、色の発現を絶やさぬよう、帝室では密かに近親婚が繰り返されていたといわれている。時折極端に体質の弱いものが生まれることは、その代償であると囁かれていた。

 勿論、そのようなことを帝室が認めるはずもないため、真偽の程は定かではないが、皇女アーシュラが儚い存在であることだけは、揺るぎようのない事実であった。


 慣れた手つきで痛む肩の手当をして、清潔な服に着替え、ほうと深い息をつく。少年が耐えるように眉根を寄せるのは、決して傷の痛みのせいではない。隣り合う主と剣の私室を仕切る壁は薄い。耳を澄ませば、苦痛と戦うアーシュラの苦しい息遣いが聞こえてくるのだ。

 彼女は、従者のはずのエリンに、自分が伏せって、苦しんでいるところを見せたがらないのだ。どうやら、年上であることもあって、自らを強い主君と位置づけていたいらしい。だから、具合の悪い時は決して部屋に呼んでくれない。

 そうなるとエリンは、仕方なく自分の部屋で息を潜めて、アーシュラを襲う病苦の嵐が去るのを、何日も待つことになる。それは、自分の傷の痛みなどよりも、ずっと辛いものに感じられた。

 アーシュラの身体は数々の悪魔に占領されているようなものだ。一度体調を崩すと、彼女の肉体は彼女自身のものではなくなる。いうことを聞かず、やたらと熱を出させ、理不尽に痛み、血を流す。高熱で何日も目を開けないこともあった。大勢の医者が入れ替わり立ち代わり部屋にやってきて、彼女に辛い治療をする。とてもとても我慢をして、彼女があらゆる苦痛に耐えていることを――アーシュラは悟られまいとしていたのだけれど――エリンはよく知っている。

 彼は恐怖していた。自分がどんなに強くなったって、彼女を蝕む病魔とは戦えないのだ。このまま、彼女が死んでしまったらどうしよう。


 日は昇り、空を横切り、やがて沈んだ。

 アーシュラはベッドから一歩も外に出られないままだった。

 エリンは結局、その日は部屋でじっとして過ごした。退屈と感じることも出来ない時間を無為に過ごし、隣室から医者達の気配が消えたのは、夜になってからのことである。少年は、主の様子を窺うため、そっとバルコニーに出た。ふたつの部屋はドアの他に、バルコニーでも繋がっている。静かになった部屋では、きっと彼女は眠っているに違いない。ドアを開けて万一にも起こしたくはなかった。

 涼しい夕風が頬を撫でる。不安な気持ちを抱えたまま、そっと彼女の部屋を覗きこんだ。ベッドサイドには点滴がぶら下がっていて、薄暗い中、何かの機械が不気味な光を放っている。

 皇女は、大きなベッドの真ん中に、糸の切れた操り人形のように力なく横たわっていた。元気な日には黄金に輝く長い髪も、今は色褪せ、青白い顔には疲れと苦痛の跡が貼り付いている。

 しかし、それでも全体として、少女は安らかに眠っているように見えた。薄い胸が微かに上下するのを確認して、エリンはホッと安堵する。バルコニーに、白い大きな鳥が舞い降りたのは、そんな刹那のことであった。

「何をコソコソと、覗き見ているのですか」

 たっぷりとした白の衣が、夜風を受けてゆっくりと、翼のようにたなびいている。大鳥は師だった。

「陛下に頼まれましてね、姫のご様子を伺いに参りました」

 剣は外壁を通路に、城のどこにでも現れる。そして、例外的に、全ての部屋に無断で立ち入ることを許されていた。

「どうやら、落ち着かれたようですね」

「……はい」

「エリン、部屋にお入りなさい。姫のお側にいるべきです」

「……ですが、体調の悪い時は……殿下は、僕がお部屋に居ることを嫌がられるのです」

 自分だって、アーシュラの隣に付き添いたいのだ。そんな台詞の代わりに言った。弟子の情けない顔を見て、ツヴァイは少し可笑しそうな顔をして言った。

「お馬鹿ですねえ。そんな我が儘に付き合う必要はありませんよ」

「えっ?」

 意外な言葉に、エリンは目を丸くする。

「剣は身も心も主に捧げます。その代わり、主は決して、剣を拒むことは許されないのです」

「そ……なのですか?」

「そうですとも。私だって、アドルフがそんなことを言ったって、聞きません」

「先生も?」

「当然です。主が恋しくない剣などいませんから」

 ツヴァイは厳しいけれど、穏やかで、時々優しい。親子ほども年の離れた、多くの者が畏れ敬う皇帝陛下と、二人の時は友のように仲が良いことも、実は知っている。何だか、掴みどころのない人だなと、エリンは思っていた。

「では、私は戻ります。エリン、くれぐれも、ひとりでいるものではありませんよ」

 言いながら、トントンと壁の装飾を軽やかに渡って、ツヴァイはあっという間に何処かへ行ってしまった。師を追いかけた目線の先の夜空には、雲間から覗いたばかりの満月。こんなに明るかったかな、と、エリンは思った。今日は昼間ずっと重苦しい気持ちでいたから、目の前に開けた鮮やかな月が余計眩しく感じられる。師の言葉が耳の奥で繰り返され、おずおずと姫の部屋の窓に手をかけた。鍵はかかっていなかった。音をたてないようにそっと開けると、夜の空気が乾いた室内に流れ込み、レースのカーテンがフワリと膨らむ。

「ん……」

 風の流れを感じ取ったのか、少女が身動ぎした。細い手に繋がれた管が揺れて、エリンはぎくりとして駆け寄った。しかし、次の瞬間聞こえたのは、穏やかな寝息。どうやら、今ので起こしてしまったわけではないらしい。

 傍で見ていると、眠る少女は穏やかで、今は苦しみを感じていないように見える。暫く見つめていても少しも目を覚まさないので、恐る恐る額に手を添えてみる。少し熱い。辛くないのだろうか。

 元気な時はひどく気まぐれで、外ではものすごく行儀が良いのに、二人でいると突拍子もないことを言い出しては自分を困らせるアーシュラ。けれど、こうして大人しくベッドに繋がれている姿を見ると、早くいつもの奇想天外な発言を聞きたいなと思う。剣と主は一心同体。だったら、辛いことも半分こに出来ればいいのに。

「…………エリン?」

 いつの間にか、彼女の目が開いていた。

「お加減は?」

 少し驚いていたけれど、顔に出さないようにして言った。

「入ってきては駄目だと言ったのに」

「申し訳ありません」

 さっさと部屋に戻れと言われるかと思ったが、アーシュラは何も言わなかった。だからエリンは、勇気を出して続ける。

「剣は、主人と離れてはいけないと言われました」

「言われたって、ツヴァイに?」

「はい。だから、お加減の悪い時も、傍にいさせてください」

「ふぅん……」

「あ、主が……剣を拒むことは、駄目なのです」

「知っているわ」

 言って、点滴の着いた手を伸ばして少年の手を掴む。そのまま、手のひらを開かせ、自分のものと重ねる。彼女は時々これをやるのだ。そして、自分の方が大きいことを確認すると、満足そうに微笑む。

「わたくし、お前よりふたつも年上なのよ。そんなことくらい、知っているのよ。当たり前でしょ」

「だったら……ここにいても良いですか?」

「わたくしが心配だから?」

「はい」

「それなら嫌よ」

「え……」

「部屋に戻りなさい。明日にはきっと元気になるから、そうしたらお庭に出て、遊んであげるわ」

「アーシュラ……」

 主はプイと背を向けて、布団を被ってしまった。

 何が機嫌を損ねたのか判然としないし、別に遊んでほしいわけではないのだけれど……今そんなことを口にして、彼女をさらに怒らせるのも良くない。ツヴァイにはまた叱られそうだ。

 けれど、とりあえず言われた通り、部屋に戻ることにした。


 翌日、皇女は彼女の予言通り元気になったけれど、外はあいにくの雨だった。アーシュラは世話係のメイドを追い出し、部屋に運ばれてきた食事を、エリンと二人で食べた。

「エリン、わたくしの分のハムを食べなさい」

「……食べないと元気になれないと、お医者の先生が仰っていました」

「知ってるわよ……」

 皇女は、メイドや医者の前で決して我が儘や弱音を口にしない。今朝だって、食事を残すところを見られたくなくて、メイドたちを退出させたに相違なかった。

「食欲、無いのですか?」

「うーん……」

 ベッドに腰をかけて、ばたばたと足を動かして、苛立たしげに少女は唸る。本当に辛い時にはそんな余裕はないのだけれど、今日のような少しの不調は、アーシュラにとっては怒りの対象だった。少女はままならない自分自身に腹を立て、エリンに文句を言う。けれど、その他の者に対しては、常に善き皇女として振る舞った。政治に興味の無い奔放な両親は揃って不在がちであり、祖父はアーシュラに甘い。城内に自分を叱ることができる大人がほとんど居ないことを、彼女はよく理解しているようだった。

「冷たくて、甘いものがいいなぁ……」

 甘えるようにポツリとこぼす。エリンは少し考えて、アーシュラが先ほど自分の皿に放り込んだハムを半分に切った。

「では、このハムは半分アーシュラがお召し上がりください。そうしたら、僕がクヴェンの所へ行って、何か甘くて冷たいものを頂いて参ります」

「本当?」

「もちろんです」

「わたくしが欲しがったからって、言っちゃ嫌よ?」

 酷いことを言う主人だ。執事のクヴェンというのは、アーシュラとベネディクトの世話を担当している使用人の中で一番偉い人物で、真面目で、無愛想で、少し怖い。自分が菓子をねだったことをツヴァイに知らされてしまうかもしれないし、出された食事以外のものが欲しいなんて、怒られるかもしれない。

「わかりました」

 けれど、無理をしてハムとパンを詰め込む健気な主人を喜ばせてやりたいと思い、エリンは迷わず了解した。

 結局、クヴェンはエリンを叱らず、黙って二人分のバニラアイスを用意してくれた。アーシュラは大喜びで、ベッドの中でそれを食べて、それから、幸せそうに眠りについた。

 柔らかい雨音が静かな部屋を埋めて、エリンは、眠る主人の隣で、ここのところ滞りがちだった勉強をして過ごした。

 けだるい浮遊感、知らず知らずのうちに身体が揺れる。雨の日の訓練はとても疲れるし、傷もまだ痛むし、昨晩夜更かしもしてしまったので、少し眠い。

 何となく惹かれて、軽くてフワフワの羽根布団に顔を埋める。本当に寝るつもりなんて無かったのだけれど、疲れたエリンの意識は、半分座った中途半端な姿勢のまま、ストンと途切れた。


 ゆっくりと、心ゆくまで眠ることは許されない毎日。少年の眠りはいつも切実な中断の闇であったけれど、それでも時折、夢をみることもあった。夢の中でまで、必死で稽古をしていることも多くて……そういう夢は、せっかくの安息の時間を邪魔されたようで、目がさめた後にがっかりする。

 逆に、嬉しい夢は、兄や、乳母や、両親が出てくる夢だった。もう五年も会っていない。会いたいと思うことも、思い出すこともほとんど無いのに、時々夢には現れるのだ。そんな時は、自分がまだ家族のことを忘れていないのだということを確認できて、なぜだか、とても嬉しかった。

 もう、カスタニエの名を名乗ることは、無いというのに。


「まぁ、寝てしまったのね、珍しい」

 雨の続く、薄暗い昼下がり、先に目をさましたのはアーシュラの方だった。

 傍らで突っ伏したまま、子供らしい寝息を立てる従者に、少女は腹を立てず、むしろ嬉しそうな様子で、形の良い後ろ頭をよしよしと撫でた。皇女としてはもちろん、姉としての振る舞いにも自負があるらしい彼女は、弟と同じ年のエリンがいかにも守護者然とした顔をすることが基本的に面白くないのだ。

 剣は主人を守るのが役目だとはいえ、生まれてこのかた、危ない目に遭ったことなんて無いし、これからもそんなことがあるとは思えない。だったら、この可愛い剣にはぜひ、二人目の弟になってほしい。

「ほら、寝るならこっちにいらっしゃい」

 自分の隣に寝かせてやろうと、肩を掴んでぐいと引っ張ると、スヤスヤと眠っていたエリンは哀れな悲鳴を上げて目を覚ました。

「えっ? なあに、痛いの?」

「え、と……ごめんなさい。肩には今、傷が……」

「そうだったの。お前、いつも痛いところだらけね」

 少しも同情していない様子でそう言って、そのまま痛い肩を掴んで強引に布団に引っ張りこむ。

「わたくしと同じだわ」

 甘い体温に暖められた布団の中で、皇女は楽しげに笑った。

「……今ので目がさめました」

「まあ、つまらないわね。付き合いなさい」

「お休みになるのですか?」

「寝ないわよ? もう眠くはないもの」

「だったら……」

「雨だもの、外には遊びに行けないし。それにお前、目がさめたなんて嘘よ。いつも、ほんの少ししか眠っていないでしょう、眠いに決まっているのだわ」

 少女の言うとおりだ。昼間でも、ベッドの中に潜り込めば、いつだって眠れる自信がある。怪我をしているときは余計に眠いし、その上、皇女の寝台は、信じられないほど心地良いのだ。

「けど……あなたが起きてらっしゃるのに、僕だけ寝るわけには参りません」

「わたくしが良いって言っても?」

「そうです」

「強情ねぇ」

 軽い体がのしかかる。痛いって言っている肩もやっぱりお構いなしだ。けれど、至近距離で見る、キラキラと快活に光る紫の瞳は、言いようもなく美しい。そして、少しでも無理をすると、一瞬で消え失せてしまう、危うい光だった。

「お前の目は、やっぱり美しいわね」

「え?」

「ふたつも色を持って生まれるなんて、とても素敵だわ。お父様と、お母様に感謝しなさい」

 残酷なことを無邪気に言う。アーシュラは、少年がこの目のせいで殺されかけたことも、家を奪われたことも、ちゃんと理解しているのに。

「父と……母には……感謝しています」

「そう」

「でも、もう、会えません」

「そうね」

 王者のような尊大な表情で、にやりと笑う。そして言った。

「運命だわ。お前はわたくしと同じ」

 狭い、暖かい世界の中で、どんな宝石よりも貴重な色が、二人で三つ。二人して、それぞれに、思い通りにならない命を生きている。

「……同じだと言うのなら、僕の言うことだって聞いてください」

 じくじく痛む肩を押し倒されたまま、エリンは言った。

「眠りたくないって?」

「違います」

 父にも、母にも、兄にも、乳母にも、もう会えない。剣となった少年から全てを奪った主は、奪ったもの全部の代わりにならなければいけない。

 ツヴァイが昨晩言った言葉の意味が、何となくわかった。

「僕には、アーシュラしかいないのです。どんな時も、遠ざけたりしないでください。それだけが、僕とあなたの約束なのですから」

 少女は、射抜かれたように目を見開いたまま、暫く沈黙し、それから、分かったと言って頷いた。

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