窓から見下ろせる庭は、真冬以外はいつも花が咲いていて、部屋もいつも、季節の花で溢れていた。あれはたぶん、母のせめてもの気遣いだったのだろう。

 甘やかされて育てられたけれど、部屋のあった塔から出ることは決して許されなかった。だが、家族はみなエリンに優しく、一日一日が実に子供らしい幸福に満ちていた。

 それは、生まれてからほんの僅かの時間を過ごした、カスタニエの城での日々だ。


「あにうえ!」

 乳母ルツィアと積み木で遊んでいた少年は、来客が来たのを悟ると、すっくと立ち上がり、この間まで乳飲み子だったとは思えないくらいしっかりとした足取りで兄の元へと駆け寄った。

「あっ、エリン、気をつけないと転ぶよ」

「セルジュ様、エリン様はもうすっかりお走りになるのですよ」

 慌てて手を伸ばす兄に、ルツィアはにこやかに言う。子犬のように飛びついてくる、十二も年の離れた弟を、セルジュ・カスタニエは苦笑して受け止めた。

「ひいらぎ!」

「は?」

 二歳の弟エリンは、近頃ものすごい勢いで言葉を覚えはじめており、会う度に新しい言葉を披露してくれる。ヒイラギとは、植物の柊ことか、と、思いつつセルジュは部屋を見渡して、なるほどと納得した。

「ふふふ、今日はクリスマスの飾りをお作りしていたのですよ」

 乳母の言うとおり、部屋には作りかけの柊のリースが置いてある。もうじきクリスマスなので用意していたのだろう。

「それ、エリンが作っていたのかい?」

「はい。最初はツリーにしようと奥様が木をお持ちになったのですが、エリン様がお登りになって危ないので、こちらに」

 彼の弟はどうやら、生まれつき運動神経が良いらしい。もみの木に登って母と乳母を慌てさせる様が目に浮かんで、セルジュはあははと笑った。

「けれど、柊の葉っぱはエリンの手に刺さるんじゃないかな」

「一度大泣きされましたので、角を落としてお渡ししています」

「なるほどね」

 楽しげに乳母と話す兄の足に取り付いて、早く構えと服を引っ張る。エリンは、勉強で忙しいこの年上の兄のことが大好きで、彼が絵本を持って遊びに来てくれるのを、何より楽しみに日々を過ごしているのだ。

「あにうえー」

「わかったわかった。今日はね、この間買った新しい本を持ってきたんだよ」

 子供向けの物語小説を広げて見せると、エリンは目を輝かせて兄の背によじ登ってくる。華奢なセルジュはよろめきながら日に日に重くなる弟を抱き上げ、窓辺のソファへと連れて行った。


 兄弟の居なかったセルジュに弟ができた日、カスタニエ家は大きく揺れた。それは、生まれた次男の左目に、帝位継承権者の証である『高貴なる菫色high born violet』が発現していたからだ。

 エウロでは最も尊ばれる菫色であるが、それは同時に、何度となく繰り返されてきた、継承権争いの火種でもある。


 長年にわたり紫を持つ子が生まれず、歴史上初めて青い目の皇太子を頂いていたアヴァロン家に、待望の紫を持つアーシュラ姫が生まれたのは、ほんの二年ほど前のことだった。そして、彼女が生まれると同時に、皇帝はすべての帝位継承順位を破棄して、生まれたばかりの孫娘を皇太孫に定めた。

 これは当時、貴族たちに大変な衝撃を与える事件だった。何しろ、アーシュラが生まれる以前には、皇帝以外ひとりも菫色を持つ者がおらず、帝室は今後も紫を持つ者が生まれない事態を想定して、新たな継承順位を定めていたのだ。

 長く難儀な論争を経て、目の色に係わらず、年齢と血統での順位がようやく定まり、貴族界の隅々にその新しいルールが浸透したところだった。

 そんな時流の中で、それまでの努力を裏切るように紫の姫が生まれ――しかし、多くの者は、一度決めた新しいルールが翻ることは無いだろうと考えた。なにしろ、アーシュラが生まれたからといって、今後も紫の目を持つ皇族が生まれにくいことには変わりがないのだ。この先のスムーズな帝位継承のためには、目の色に頼らないルールが必要であることは明らかだ。

 しかし皇帝アドルフは、その絶対的な決定権をもって、菫色の正統性は、その他全てのルールに優先すると宣言した。そして、ようやく定まった順位は突如として無効とされたのだ。

 かつて、アドルフは親族内の敵を数多く葬って帝位に就いた。伝統的に「黒衣の者」と知られてきた皇帝の剣が、しかしアドルフのものだけ白衣を纏い、彼の傍に立つのも、彼に牙を剥ける者を滅ぼし尽くした証といわれている。故にアドルフの力は、歴代の皇帝の中でも非常に強く、現在では、その意向に異を唱えることの出来る者はいない。

 しかしながら、心からその決定に従うことのできたものは少なく、貴族たちの間には、密かに不満も募っていた。

 だから今、カスタニエのような正統性のある分家に菫色が現れることは、この上なく不穏な兆しだった。

 カスタニエ公フリートヘルムはアドルフの息子であり、エリンもまた皇帝の孫のひとりである。

 老境に至りつつあるアドルフ一世は、自身が若い頃に経験した苛烈な親族内での継承権争いを、最も愚かで忌むべき争いと断じていた。その思いの強さは、彼のこれまでの為政を省みて明らかだった。

 父の厳しさと頑なさを、フリートヘルムは身にしみて知っていた。自分自身が、かつて追い出されるようにして分家させられた、苦い経緯もある。

 エリンの存在を、皇帝が許すとは到底思えなかった。

 故に、カスタニエ公爵は、紫を持つ子が生まれたことを世間から隠した。離れの尖塔で、半ば幽閉するような形で匿い、限られた使用人のみに世話をさせた。

 そうして、三年近い月日が流れていた。






 伝統的に、エウロで爵位を持つ家に生まれた者は、三歳の誕生日を迎えたら、主君である皇帝に挨拶に上がるのが決まりである。

 どこの家に子供が生まれたとか、そういうことは大抵社交界のおしゃべりの中ですぐに広まるものだけれど、正式には、初めての謁見の日を持って、貴族界の仲間入りすることになる。

 これまで隠し育ててきた次男を、皇帝に謁見させるか否か。ここしばらく、カスタニエ家の夕食の時間に、その話題が出ない日は無い。

「父上、僕はやはり、このままエリンを隠し通すのは無理だと思います」

 話を持ち出すのはいつもセルジュだ。少年は、煮え切らない父の態度にどうしても納得がいかないようで、何度も繰り返しそう進言していた。彼は、いつまでも狭い塔に閉じ込められ、外で遊ばせてももらえない幼い弟を哀れに思っていたのだ。たとえ片目に紫があったとしても、本家あちらには両目に紫を持つ姫がいるのだ。今更、継承権争いなど起こりようもないだろう。ちゃんと皇帝に拝謁し、カスタニエ家の人間として筋を通せば、エリンは自由になれるはずだと思っていた。

「セルジュ、お前は陛下のことを分かっていないのだ」

「陛下が……あのような子供を、どうにかなさるとでも?」

 歯切れの悪い父の言葉に、セルジュの顔に苛立ちが浮かぶ。

「そうだ」

 実の父に対して、公爵はあまり前向きな感情を抱いていないようだった。いや、むしろ、憎んでいるとすらいえたのかもしれない。

「あの方は……家族の情など持ちあわせてはいないのだ」

 フリートヘルムは苦々しげにそう口にして、しかし、それ以上多くを語ろうとはしなかった。

「ですが……父上、それではエリンは、一生あの塔で暮らすことに?」

「それは……」

「そういうことでしょう」

「外の自治区に出しても良いし、いろいろ考えようはある……」

「それでも、あの子の左目は、隠しようが無いものです」

 セルジュの言い分は正しかった。しかし、カスタニエ夫妻にとって、エリンはようやく授かった、目に入れても痛くない二人目の子供である。我が儘を言って父母や乳母を困らせることもない良い子で、これからがまさに可愛い盛りだ。命にかかわる賭けに出るような選択など、親であれば誰だって避けたい。そう簡単に決められる問題ではなかったのだ。


 エリンは、兄セルジュにとてもよく懐いている。四六時中世話をしてくれる乳母や、自分にひたすら甘い母とはまた別の心持ちで、毎日会えるわけでない年の離れた兄を特別に慕っているようだった。

 セルジュは、どちらかといえば大人しく、物静かな少年だ。長いこと兄弟姉妹は居なかったので、子供の扱いも上手いはずがない。弟が生まれて、赤ん坊だったのがよちよちと歩き始め、やがて言葉を覚え……ずっと、恐る恐るのおっかなびっくりで接してきた。それなのに、どうしてこんなに懐いてくれるのだろう。

 常々不思議に思っていたのだが、最近それがようやく分かってきた。弟は、兄が持ってきてくれる本が大好きなのだ。

 絵本なら乳母も毎晩読んでやっているようだけれど、セルジュが選ぶのは、自分の好みもあって、今のエリンよりは年上の年齢層をターゲットとした児童文学が多い。兄が読み聞かせる様々な物語は、エリンにすればものすごく大人っぽく、格好いいものに映るらしい。絵本と違って文字がたくさん並んでいるものをセルジュがスラスラと読む様も、彼に尊敬を寄せる理由になるようだった。

「明日は……と……」

 夕食の後部屋に戻り、本棚の前に立って、次に弟に読んでやるための本を選ぶ。セルジュは熱心な読書家で、部屋には本棚がいくつも並んでいる。弟があんなに本を喜んでくれるのであれば、兄としても作品選びには真剣にならざるを得なかった。 読んで聞かせてやるとはいえ、あまり内容の難しいものはまだ理解出来ない。冒険譚や、昔話……あと、表現の易しい神話の本なども良いだろう。ちょっと考えただけでも、読んでやりたいものはいくらでもあった。

 もうすぐ、弟の誕生日とクリスマスがいっぺんにやってくる。それらにちなんだものも選んでおこうと考えて、ぼんやりとカレンダーを思い浮かべる。すると、ハッと思い出すことがあって手を止めた。

「ああ、そうか。明日は……」

 すっかり忘れかけていたが、明日は、本よりも、弟に見せてやりたいものがあったのだ。


「エリン、まだ起きているかい?」

 翌日、何やら大きな荷物を背負ったセルジュが弟の部屋を訪れたのは、二十二時を過ぎてからのことだった。普段ならとっくに就寝している時間であるが、今日はあらかじめ、しっかり昼寝をさせておいてもらうよう乳母のルツィアに頼んであったのだ。

「はい! ねむくないです」

「いいお返事だ。じゃあ、今日は屋上へ行くよ」

「おくじょう……?」

 弟を抱き上げて、セルジュはニコリと笑った。

「そうだよ、エリン、流れ星を見よう」

「ながれぼし?」

「そうだよ、エリンがいい子にしているおかげで、天気も良いから、きっとよく見える」


 意味の分からないらしいエリンだったが、いい子にしていたと褒めてもらえたようだったし、兄と部屋の外に行けるなんて嬉しい。毛玉のように厚着してコートを着こみ、マフラーもぐるぐる巻きにして、部屋を出る。すぐに降ろしてもらうと、夜の暗い階段を元気に駆け登っていった。

 重たい金属の扉がギシギシと音をたてて開く。走り回って塔から落ちては大変なので、セルジュはしっかり弟の手を握って外に出た。

「わあっ!」

 日頃あまり感じることのない風を受けて、少年が歓声をあげる。塔のてっぺんは、広くはないけれど空を眺めるのに丁度よい場所だった。

「落ちると大変だから、じっとしてるんだよ」

 声をかけておもむろに荷物を下ろす。どうやら、本気で流星を見るつもりらしい、分厚いキャンプ用のマットと寝袋だった。

「ここに入るんだよ」

 エリンは、当然キャンプなどしたことがない。兄が取り出した不思議な寝具に、大喜びで頭から潜りこむ。

「あははは、違う違う、頭はこっち。それじゃ窒息するよ」

 身体の小さいエリンは、寝袋の中に潜り込んで、そのままもぞもぞと動いて方向転換して……それが楽しかったらしい、きゃっきゃとはしゃいで何度もくるくる回って遊んだ。

「子供用の寝袋があったらよかったんだけど……」

 十二月の夜は寒い。マットの上に寝袋を並べて、その上から毛布もかけて、兄弟は二人並んで夜空を仰いだ。

「あにうえ、ほし、いっぱいです」

「そうだね、部屋から見るのとは全然違うだろう。冬の星座の本を読んだの、覚えてる?」

「オリオンざ!」

「どれか分かるかな?」

「ええと……ええと……」

「あそこだよ、ほら、大きな四角形の中に、斜めに並んだ3つ星……」

「ああーっ……ぼく、みつけたのに……」

「そうだった? ごめんごめん」

 苦笑しつつそう言って、セルジュは空を指差す。

「じゃあ、ほら、あのオリオンから、少し左下の……ほら、あのあたり、よく見ててごらん」

「ながれぼし?」

「そうだよ」

「ながれぼし……」

 分からないなりに嬉しそうに目をくりくりさせて空を見つめる弟の幼い横顔を、セルジュはしばらく優しい顔でじっと見つめて、それから、北極星に目を戻した。 エリンが兄を慕うのと同じように、十五歳のセルジュにとっても、幼い頃からずっと欲しかった、はじめての兄弟だったのだ。

 こぐま座流星群は今夜が極大、折よく新月の日であるおかげで、宝石箱をひっくり返したような見事な星空が、ふたりの視界いっぱいに広がっていた。

「よーく見ているんだよ、星が、流れるから」

「ながれる……かわみたいにですか?」

「川とは少し違うなあ……あっ、ほら、流れた!」

「ええっ? どこですか?」

「ちゃんと見てないと……あ、ほらまた」

「えっ、えー、えー!」

「あはは、一瞬だからね。お星様が滑り落ちるのは」

「おほしさま……」

 少年はまだ何も知らない。

 流れ星がどんな風に夜空に輝いて、そして消えていくのかとか、自分の左目がもたらす残酷な運命が、どのように彼の人生を決めていってしまうのかとか。

 幼い心に、世界はただ、今夜の空のように計り知れない広大さをもって横たわっているだけだ。

「あっ!」

「見えた?」

「はい! すうって、ながれて……あっ! わっ!」

 コツを掴むと、次々流れる星たちがどんどん見えるようになったらしい、いちいち歓声をあげる弟を、兄はクスクス笑いながら見守る。また来年、次の流星群が見られる頃には、星と宇宙の話を、今より大きくなったエリンに話し聞かせてやりたいと思った。

 しかし、フリートヘルムが次男を父アドルフの元に連れて行くことを決めたのは、このあとすぐのことであり――仲の良かった兄弟は、さよならも言えぬまま、別れることになった。

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