朝目が覚めてから夜眠りにつくまで、顔を合わせる人間は片手の指で数えられる程度であったけれど、エリンのことが見えるものは誰もいないようだった。いや、正しくは、誰もいなかった。

 最初の日に会った祖父――皇帝の姿を見ることはなかった。

 彼にはまだ理解できなかったが、そうそう目通りの叶う相手ではないのだから、当然である。

 目に入るのは使用人ばかり。掃除をする者、給仕をする者、主の身の回りの世話をする者、届いた手紙の類をせっせと運ぶ者。帝室の使用人らしく、どの者も皆賢そうな顔をしていて、折り目正しく洗練された所作で、黙々と仕事をこなしていく。けれど、誰もエリンを見ようとせず、話そうとせず、ましてや世話を焼こうとすることもない。これではまるで、幽霊にでもなってしまったかのようだ。無口な少年は見知らぬ人間に積極的に話しかけるような性質ではなかったけれど、話しかけたところで、おそらく応じてはもらえなかったであろう。

 その上、常に空腹であった。誰もエリンの食事を用意してくれないのだ。お腹がすいたと申し出ても、やはり無視されるばかりで、どうにもとりつく島がない。

 優しい母と乳母が恋しかった。早くいえに帰りたかった。けれど、それが許されないのだということを、哀れなエリンは何となく悟っていた。

 そう考えるに至る理由らしきものも、ひとつあった。別れ際、母から、いつも身につけ大切にしていた指輪を手渡されたのだ。大きな宝石のついた、とても綺麗な指輪である。

 どうか元気で、と言われた後の母の言葉は、エリンにはまだ難しくて分からなかったけれど、別れの言葉だったように思う。母が、この上なく悲しそうに、泣いていたからだ。


 両親から引き離された後、何度か子供らしく泣きべそをかいて、けれど、誰も全くとりあってくれなかったせいで泣くのをやめた。もし、飢えて動けなくなるまでわんわんと泣き続けていたならば、少年の命はそこで終わっていたであろう。けれど、そうはしなかった。誰も聞き届けてくれない中で泣きわめいても仕方がないことを、幼いなりに理解していたのだ。そんな、生来の冷静さのようなものが、彼の命を永らえさせたのかもしれない。

 泣くのをやめたら、別の部屋へと連れていかれた。そこが、今少年が暮らしている、この部屋である。

 好ましい色の壁をした、広くて、いい香りのする部屋だった。子供ならば十人は眠れそうな、大きなベッドも置いてある。

 そしてここで、エリンは唯一、自分のことが『見える』人間に会うことになった。

 この部屋の幼い主、この先、彼が生涯仕える主君となる、アーシュラ=オルガ・ヴィラ・アヴァロンである。


「エリン、お前、イチゴは好き?」

 食堂でのランチを終えたらしい少女が、小さな手に小さな皿を持って部屋に戻ってくる。そして、それをトンと少年の前に置いた。まるで犬か猫にでも餌をやるような手つきである。

 少女は、得意げな様子で、皿に目を落とすエリンの様子を見つめていた。早く感想を言えとでも言いたげである。

 皿には、ちぎったパンとオムレツが一切、ローストビーフが一枚、よくわからない豆や野菜がパラパラと、それから、妙に大粒の苺がひとつ。

「苺……!」

 いかにも甘そうな、ピカピカの赤い果実に、自然と笑みがこぼれる。苺は好物だ。エリンの反応に、少女は深く頷いた。

「よーし、やっぱり果物はイチゴが一番だわ」

この少年に食事を与えることは、祖父から言い渡された、彼女にとっては初めて自分だけに任された仕事と言って良いものだ。それが無事達成された満足感に、少女は会心の笑みを浮かべる。

「……たべても、いいですか?」

 少年は、グウと鳴りそうな腹を抱えて、恐る恐る口を開く。そして、少女がニコニコ顔で頷くのを見届けると、飛びつくように食べ始めた。

 腹を空かせている分、何を食べても異様に美味しいと感じ、また、少女の手によって食事にありつく度、不思議と、家族への強烈な思慕は薄れていった。

 ここ数日で、エリンは自分の置かれた状況――立場を、わきまえていた。目の前の、この年上の少女は、唯一自分のことを見て、話して、世話をしてくれる相手であり、しかも、意地悪ではないが気まぐれだ。機嫌が悪かったり、忘れていたり、眠かったりすると食事をくれないし、話しかけてもくれない。

 食事がもらえないとお腹がすくし、話しかけてもらえないのは寂しい。エリンは自然と、彼女の顔色や行動を注意深く観察するようになっていた。


 柔らかな金の髪に、キラキラ輝く菫色の瞳High born violet。アーシュラは、祖父アドルフの後、このエウロを統べる皇帝の地位に就くことが定められた皇太孫、このアヴァロン城で、宝物のように大切に育てられている姫である。――しかしながら、そのことを幼いエリンが正しく理解するには、もうしばらくの時間が必要であり、はじめ、出会ったこの少女のことは、哀れで孤独な自分に唯一救いの手を差し伸べてくれる、救世主として刻まれることとなった。

「おいしい?」

「はい」

 素直な返答に、アーシュラは満足そうに微笑む。

 彼女がニコニコ笑ってくれると心底安堵した。どうにかしてこの主人の機嫌を損ねないようにしなければならない。道理の分からぬ幼子であったエリンだが、そのことだけは理解していた。

「オムレツと、パンと、イチゴだったら、どれが一番好き?」

「え……と」

 腹を空かせている少年にすれば、正直どれを食べても奇跡的に美味しく感じたし、できれば量の多いパンをもっと沢山分けてもらえるのが嬉しい。

 けれど……どうしようか。アーシュラをがっかりさせてはいけない。

 今、嬉しそうに持ってきたイチゴを指名しなければ、彼女の興がさめて次の食事は持ってきてもらえないかもしれない。実際、今までも些細なことで怒らせて、食事をもらえなかったことがある。

 そうなったらとても困る。これ以上お腹が空いたら、本当に死んでしまうような気がする。けれど、素直にパンが欲しいといえば、次からもっと持ってきてくれるのかもしれない。


 少女が運んできてくれる食事は、いつも量がものすごく少ないのだ。

 コーヒーカップが載るくらいの可愛らしい小皿に、いつもあれこれと色々な種類が盛られているものの、どれも一口で食べられてしまう程度の量で、とても食事といえるほど、腹のふくれるものではない。

 どうやら、そもそもエリンのために用意された食べ物ではなく、彼女が食事をした時に、余らせたものをちょっと取り分けて部屋に運んでいるようだった。

「…………」

「どうした?」

「……その、あの……」

 死活問題である。必死で悩んで、少年は答えた。

「おなかがすいているので、パンがいいです」

 考えた挙げ句、素直な言葉が出た。

 少女はきょとんとして、紫の目を丸くする。口をつぐんだ少女に、失敗だったかとエリンは戦慄した。けれど、予想に反してアーシュラは新しい発見をしたかのように楽しげに声をあげた。

「お前、お腹が空いているのね!」

 パンかイチゴかという問題はもうどうでもいいらしい。


 少年は、アーシュラにとってみれば新しく与えられた玩具のようなものである。食事を与えるようにと言われてはいたが、日に何度くらい、どのくらい与えれば良いのかなんて知らない。エリンが来る前に夢中になっていた、ままごと遊びの人形は、そんなことは言わなかったからだ。

「なら、今度はもっと沢山もってくるわ!」

 目を輝かせての宣言を、エリンは心の底から嬉しく聞いた。そして、目の前の少女は何て優しい人物なのだろうと感動した。






「せっかく、スミレ色なのになぁ」

 あの謁見の日、玉座の脇で。少女は祖父の膝によじ登って、無邪気に言った。

「おじい様、せっかくわたくし達と同じ色なのに、殺してしまうなんて、何だかもったいないわ」

 謁見の時間は、アーシュラは必ず祖父の隣に居なければならない。それは、彼女を名君に育て上げるため、皇帝自らが特別に定めたルールだ。幼い皇女が大人の話す言葉を理解するより前から行われていることであり――彼女にとっては、毎日の暮らしの中で今のところ一番退屈で、つまらない時間である。

「アーシュラ、そなたはその者の命を救いたいと?」

 祖父の問いに、アーシュラは少し考えて、コクリと頷いた。

「ふむ……」

 孫娘の思いつきに、祖父はしかし真面目な顔で考え込む。

 アーシュラには別段憐憫の情があったわけではないようだった。ただ、エリンが持つ一粒の紫色に興味をひかれていた。

 なぜなら、彼女は自らの目の色が何よりも尊い、大切なものであると教育されて育っていたにもかかわらず、自分と祖父以外に同じ色を持つ者を見たことがなかったのだ。


 エウロにおいて、紫の瞳は正当な帝位継承者の証である。

 これは、アヴァロン朝最初の皇帝が定めたもので、三世紀に渡り、絶対のルールでありつづけていた。アーシュラが、存命している彼女の父を差し置いて皇太孫に定められたのも、この眼の色があってこそのことだ。

 この特殊な虹彩の色は、初代皇帝が自らの遺伝子に人工的に刻んだ特徴だ。彼の子孫たちに受け継がれた紫は、ある時期までは直系の子孫全てに現れていたが、時が流れ、代を重ねるにつれ、徐々にその発現が減っていた。

 紫を持たない直系の皇族が増えたことにより、目の色の問題は、事あるごとに継承権争いの原因になった。特にこの一世紀ほどは、幾度となく親族間での争いが起きている。

 エリンが生まれたカスタニエ公爵家はアドルフが皇子フリートヘルムをエウロ北東部に封じて作らせた家であり、アーシュラは彼の従姉にあたる。皇帝が孫の死を望んだのは、未来の争いの芽を摘み取る意志があってのことだろう。

 しかし、幼い皇女にはそのようなことは関係なく、ただ、エリンのことを同じ大切な眼の色を持つ同胞とでも思ったようであった。

 アドルフはしばらく、品定めするようにエリンを見ていた。そして、チラリと背後に控えた男の方を見てから、フッと笑う。

「では、そなたは我が姫のつるぎとなれ」

 重たい声が、そう告げた。言葉の意味は、エリンにはさっぱり分からなかった。けれど、その一言が、彼のその後人生すべてを決めたのだ。




「エリン、人形を出してきてちょうだい! 遊ぶわ!」

「はい、ひめ」

 アーシュラの部屋で暮らすうち、家臣としての振る舞いは、自然に身についた。何しろ、自らの生殺与奪はこの少女の手に握られているのだ。これ以上無いくらい、明確で絶対的な上下関係である。

 ありがたいことに、エリンが自分自身と同じくらいの食事を必要とすることに彼女が気付いてからは、見違えるように立派な食事が部屋に運ばれてくれるようになった。アーシュラがそのように命じてくれたらしかった。

 おかげであれ以来、腹を空かせることは無い。そして、それは他のどんな幸福にも代えがたい、素晴らしいことであるように思えたのだった。

 彼女のことを殿下とか、姫と呼ぶのは、部屋に出入りする使用人の真似をしたものだ。そのように呼ばれて彼女が一度も機嫌を悪くすることは無かったのだが、アーシュラは、やがて、そう呼ばれる度、神妙な顔で考えこむようになった。

「ひめ、このウサギと、くまでよいですか?」

 クローゼットにしまわれた膨大な人形の中から、彼女の最近のお気に入りを的確に選ぶ。

「………………」

 アーシュラが考えこんでいるので、エリンはハッとして、別の人形に取り替えてこようと踵を返した。

「ねぇ、エリン」

 少女が呼び止める。はいと返事をして、主の言葉を待つ。何か無茶なことでも言われるのだろうかと恐れたが、アーシュラは真剣な顔で少年を見つめて、予想外の言葉を発した。

「アーシュラ」

「は?」

「だから、名前よ。わたくしの」

「それは……」

 勿論知っている、なんて言ったら怒られそうだ。どうしたものかと思案していると、少女はずいっとエリンに歩み寄り、あくまで真剣に続けた。

「ツヴァイは、おじい様のことをアドルフと呼ぶわ。だから、あなたもわたくしのことはアーシュラと呼ぶべきよ。剣なのだから」

 何がどうなってそうあるべきなのかは分からない。

 けれど、少女がそう言うならば、エリンは従わなければならない。不思議そうな顔のまま、少年は頷く。

「ええと、わかりました……アーシュラ」

「よし!」

 少女は満足げに頷いて、花のように笑った。


 剣、という存在の本当の意味を、その時の少女が正しく理解していたかは分からない。もしかすると、単純に一番親しい友くらいに思っていたのかもしれない。 しかし、ともかくも、彼ら一対の剣と主は、このようにして始まったのである。






 純白のドレスが揺れ、ウサギのように少女が駆けていく。明るい日差しの差す芝生の庭には、直線的に刈り込まれた樹木が迷路のように配置されていて、エリンはその背を呆気無く見失ってしまった。三歳のエリンが、全力で駆ける五歳のアーシュラを走って追いかけるのは容易なことではない。

「アーシュラ……っ」

「こっちよ、エリン、わたくしを見つけなさい」

 情けない声で呼ぶと、どこからか返事が返ってくる。まだ近くに居るようだ。慌てて声のした方へと走る。植え込みの角を曲がって、確かこのあたり……

「……あれ?」

 姿が見えない。返事はしたものの、待っていてはくれなかったらしい。もう一度呼んでみたけれど、今度は返事すら返って来なかった。

 大声を張り上げてもう一度。しかし、やはり返事は無い。

 少年は困り果てた。アーシュラとはもう随分一緒に居るような気がするけれど、庭で遊ぶのは今日がはじめてなのだ。彼女とはぐれてしまっては、エリンはどうすることも出来ない。

(どうしよう……)

 居ないと思ったら、ゴブリと水を飲み込んだように、不安が重く腹に沈む。

 謁見の日から今日まで、大人からみればさほどの時間は過ぎていなかったが、幼いエリンにとってはあまりに長い。突然家族から引き離され、わけもわからないままに今日までの日々を重ねるうち、抱いた寂しさや恐怖は、一緒に過ごす絶対的な少女の存在にすり替えられていたようだ。

 家族が居ない寂しさが紛れると、あっという間に城での生活に馴染み、そして、主人となった少女を姉のように、母のように慕うようになっていた。

「アーシュラ……」

 主人はどこへ行ってしまったのだろう。

 心細くなると、声もかすれてくる。見回すと、さっきまで気にも止めなかった庭木が、突然大きく恐ろしくこちらへ迫ってくるように感じられる。もしかするとこのままこの緑の迷路に閉じ込められてしまうのではないか。そう思うと、今にも泣きだしてしまいそうだった。

「剣が情けない顔をするものではありません」

 声がしたのはその時だった。

 見知らぬ声に、ハッとして振り返る。いつの間にか、少年の背後に男が立っていた。

 白い服に身を包んだ男で、背がとても高い。老人というわけでは無いのだが、なぜか白い髪、そして、浅黒い肌をしていた。

 太陽を背にした男の表情は読み取れない。けれどエリンは、目の前の不思議な人物を、一度見たことがあることを思い出した。

 謁見の日だ。あの日、皇帝の斜め後ろに、置物のように微動だにせずジッと立っている人がいた。変な人だなと思ったのだった。

「ひめがどこへいったのか、わかりませんか?」

 丁寧で優しい口調に、少しホっとしながら少年は口を開く。

「あの、さっき……ここでこえがして……」

「そうでしたね」

 見ていたように、男は頷く。

「殿下がなぜ見当たらないか、わかりませんか?」

「え?」

 男の言葉に、ハッとしてエリンは思い出す。アーシュラが何と言って自分を呼んだのか。

「あ……っ!」

 そうだった。彼女は自分を見つけなさいと言ったのだ。だからたぶん、このあたりに隠れているに違いない。

「気がついたようですね。殿下は、かくれんぼもお好きなのですよ」

 その言葉に、エリンはパッと元気を取り戻してキョロキョロと周囲を見回す。アーシュラはあの木の向こうだろうか。それとも、こっちの植え込みの根本だろうか?

うまく見つけると、もしかしたら褒めてくれるかもしれない。

 あちらこちらへパタパタ走りまわる少年を、白髪の男はしばらく呆れたように見つめていたが、やがて、ある方向をスッと指し示して言った。

「そんな探し方では日が暮れても見つかりませんよ、ねぇ、殿下」

 男が指したのは、立っているすぐ脇の庭木の影だった。それは、ちょうど先程エリンが走って通り過ぎた場所だった。まさかそんなところに、と、思いながら正念は駆け戻る。

「……もう、せっかく隠れていたのに」

 文句を言いながら、ゴソゴソと少女が姿を現した。

「アーシュラ!」

「あなたも、ボーっとしてないでちゃんと探しなさい。わたくしが、せっかく隠れているのに! つまらないじゃない」

「ご……ごめんなさい……」

 言って、少年は困ったような、嬉しいような顔ではにかむ。怒られていることより、少女の姿が見えたことにホッとしていた。

 ドレスについた汚れをはらったアーシュラは、思い通りに遊べなかったことが気に入らないらしい、残念そうにため息をついて、邪魔をした張本人である男を睨む。

「ツヴァイ、酷いわ!」

 ツヴァイと呼ばれたその男は、膝をついて頭を垂れた。

「申し訳ありません。陛下から、殿下のお側に参るようにと」

「おじい様が?」

「はい」

「変なの、どうして?」

「新たな剣を育てるようにと」

「育てる……」

「はい。ですから、これからは殿下のお側に参上することが、今までよりも多くなります」

「おじい様のお傍を離れていいの?」

「そのように命じられております」

「ふぅん……」

 少女は、納得したようなしないような様子である。

「これからは殿下の邪魔はせぬようにいたしますので、お許し下さい」

 言って、男はエリンの方を見た。褐色の肌に、妙に映える緑色の目だった。

「エリン・カスタニエ」

 名を呼ばれた少年は、咄嗟にどうすれば良いのか分からず、コクリと頷く。

「その左目は、今後は隠したほうが良いですね。こう、髪か何かで」

 気付かないうちに伸ばされていた大きな手が、エリンの短い前髪に触れた。

「それから、カスタニエの名は捨てなさい。公爵にご迷惑をおかけします」

 男の言葉は、少年には難しすぎるようだった。けれど、困ったように首を傾げるエリンに、ツヴァイは構わず続ける。

「この後、あなたに名前は必要ない。名乗るならばただエリンと……」

 言葉の途中で、少年の紫の左目がまっすぐ自分を見つめていることに気付いた男は、一瞬言葉を途切れさせ、そして、少し考えこむ。

「……やはり、あなたの持つ色は少々強すぎる」

 諭すような声音だった。しかし、穏やかだが決して優しくはない。

「あなたはこの先、殿下のために生き続けなければならない。だから、その色の強さを消す努力をしなさい。エリン……エリン・グレイ色無し


 男の名はツヴァイ。『二番目』などという大雑把な呼ばれ方は、彼が皇帝アドルフの二人目の剣であるからで、当然本名ではないはずだが、男にはもう、その名以外の名前は無かった。

 剣(つるぎ)とは、代々の皇帝の最も傍近くに仕える従者で、主の身を危険から守る守護者である。幼い頃からの修練によって比類なき戦闘能力を持ち、その力を主のためだけに使う。――場合によっては、敵対者を葬り去る暗殺者としての役目を持つことすらある。

 決して公に名を表すことは無く、その死の瞬間まで、主の側に影として寄り添うといわれる。謎に包まれたその存在について、帝室の関係者以外が深く知ることは無かった。

 彼らはエウロの長い歴史の中で、アヴァロンの権謀術数における闇の部分を背負ってきた存在である。皇帝に盾突く者を容赦なく葬り去るその攻撃性から、貴族たちは彼らを密かに『影の剣』と呼び、忌み嫌うと同時に恐れていた。

 アドルフは、エリンの命を奪わなかった代わりに、アーシュラの剣として育てるつもりでいたのだ。

 剣の師は剣である。

 この日から、少年への長い教育が始まったのだった。

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