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左手の扉から、印章を見つけて 筆でなぞると

泰河が 印章に触れて、扉を消失させる。


『おっ... 』『マジかよー... 』


手枷が付いた でかい十字架に、拘束具付きの椅子。壁にも 鞭やら口枷やらが掛けられて、

ステンレスワゴンみたいなやつの上には

様々な用途用のペンチ、注射器やら虫ピンやらが並んでる。拷問部屋なのか アバドンプレイルームなのか... って 部屋だった。壁の 一面は鏡だし。


『もうひとつの扉の方へ行ってみよう』


“違ったね” 程度の 爽やかさで

ザドキエルが 奥の扉を指す。


また、印章出して 泰河が開けると

向き合わせのソファーとテーブル。

個人的な応接間っぽい。

ここにも、左側の壁に ドアノブの無い扉。


『本?』


壁の 一面に本棚。鍵付きのキャビネットにも。

デスクと椅子もあるし、書斎なんかな?


『しかし... 』


四郎が『南蛮の文字ではないようですね』って

棚の本の背表紙を見て言う。

意味が入ってこないらしく、背表紙の文字自体も記号や文字っぽいやつを組み合わせたような見たことないやつ。

ま、オレは、ヘブライ語とかヒンディー語見ても

そう思っちまうけどー。

キャビネットの本の背表紙には、題名が無い。


『天のものと地界のものだ』


ボティスが言って『おっ』て 一冊取った。

皇帝は 腰を折って、キャビネットの本を見てる。

リフェルやザドキエルも、“おお... ”って眼で

本 見てるし、珍しいやつも多いっぽい。


『開けれるか?』って 皇帝に聞かれて

キャビネットを開けると、中から 二冊抜いて

『ハゲニトとシェミーの土産に』と

ジェイドに渡して、四郎にも 一冊渡した。


『これは... ?』


『地上のものだ。エラム文字とインダス文字』


四郎が開いた本を覗いた ジェイドと朋樹は

『記号じゃないのか? サッパリだ』

『宇宙語じゃねぇか』って、サジ投げしたけど

ボティスが

『ノアからアブラハムくらいの時代のものじゃあないのか?』って、興味を示してる。

じゃあ 多分、紀元前3000年から 紀元前1700年くらいの時のやつだ。


『メソポタミア文明とインダスの文明の本?

それを、人間が書いてるの?

貿易は行われてたみたいだし、商人達が書いたのかな?』


リフェルが聞いてるけど、オレと 榊と泰河は

ふーん... って感じ。

本自体は 古く見えねーし、写本か何かなんだろうけど。


メソポタミア文明は、現在のイラク辺り。

チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた文明で

シュメール人って呼ばれる人たちが、最初の都市文明を築いたといわれてる。

インダス文明は、アフガニスタンやパキスタン、インド辺り。インダス川周辺に栄えた。


『もう少し先の時代まであるみたいだな。

“アーリア人” や “聖典ヴェーダ” の文字も見える。

紀元前1000年くらいまでじゃないのか?』


ミカエルなんだぜ。

『地上から見るものは面白いよな。後で俺も読む』つってる。なにか、距離 感じるし。


聖典ヴェーダって、バラモン教や ヒンドゥー教の聖典にもなったものだろう?

アーリア人のものなのか?』


朋樹が聞くと

『そうだ。自然信仰アニミズムの神々、多神教だな』と

ボティスが答えた。


アーリア人 って呼ばれる人たちは

元々の原住地が 分かっていないようだけど、

肌は白くて長身。

“アーリア” というのも、善良とか高貴な人を指す

尊称みたいなものらしい。


アーリア人たちは、紀元前1500年頃に

コーカサス地方から、イランやアフガニスタンを経て、インドに入って来た征服民族で

カースト制度の元も作ったようだ。


コーカサス地方 っていうのは

カスピ海と黒海に挟まれた地域のことで、

二つの海を繋ぐように、東西に コーカサス山脈が走ってる。

この コーカサス山脈を境に

北コーカサスは ロシア連邦の 一部、

南コーカサスは、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア の 三ヵ国がある地域のこと。


アーリア人たちが伝えた 聖典ヴェーダ

リグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァ... って

四つあって、一番古く 重要視もされてるのが

リグ聖典ヴェーダ

紀元前1500年から1300年頃に成立した って言われてる。


これから、アーリア人が祭祀を取り仕切る

バラモン教が出来て、

紀元前500年頃に、苦行で解脱しようとする ジャイナ教と、中道をいく 仏教が成立する。


仏教の隆盛によって、衰退していくバラモン教は、ヒンドゥー教に取り込まれていく。


ヒンドゥー教の成立時期は、はっきりしないようだけど、アーリア人が侵入する前の インドの土着の信仰が 元なんじゃないか?... って 思われる。

インダス文明の時代のものから、シヴァ神や リンガ信仰を示すものが 見つかってるから。

シヴァは、 “大洪水の前の時代” に 地球にやってきて、古代人と暮らし始めた って いわれてるし。


インドの二大叙事詩、マハーバーラタとラーマヤナは、聖典プラーナ同様、ヒンドゥー教で重要視されるものだけど

マハーバーラタは、紀元前400年頃から 紀元400年頃にかけて 現在の形が成立、

ラーマヤナは、紀元前500年頃から400年頃にかけて成立した。諸説あり。


マハーバーラタは、紀元前1000年から900年頃に

北インドにおこった 王族の争いの話。

名門 バラタ族の王子 ドリターシュトラの

百人の王子、“カウラバ” と、

弟王子 パーンドゥの 五人の王子

“パーンダバ” が、王国を巡って争って

弟王子の パーンダバ 一族が勝利する って話。


この 第6巻に、

“バガバッドギーター”... 神の歌 っていうのがあって、ヴィシュヌの化身である クリシュナが

パーンダバ 一族の英雄 アルジュナと、人生について語ってるものなんだけど

その部分も、ヒンドゥー教で重要視されてる。


ラーマヤナは、寺院の舞踊劇で少し観たやつ。

コーサラ国の王子で、ヴィシュヌの化身である

“ラーマ” が、羅刹の王 ラーヴァナを倒し、

王になる物語。


バラモン教の聖典ヴェーダや カースト制度も引き継ぎ、

叙事詩も聖典として、インドでは 現在に繋がる

ヒンドゥー教が 広く信仰されていく。


『我が国は、縄文時代の頃で御座いますね。

ゼズ様の 御受難ぱつしよの時は、弥生時代で御座いましたが... 』


本を 大切そうに持って、四郎が言ってるけど

並べられると、あまりの文化の差に

泰河と『えっ』『そーだっけ?』って なった。


『次の扉』


皇帝に言われて、本棚と本棚の間にある扉の

印章を出して、泰河が消すと

今度こそ アバドンの私室らしく

リビング部分には、普通に ソファーとテーブル。

壁に でかいスクリーンと、何故か天井から鎖で吊り下がる手枷。


『むっ。天狗の匂い』


榊が、手枷に残った 天狗の匂いを察知した。

ううーん...


天使や悪魔は、睡眠の必要はないけど

奥には 天蓋付きのベッド。黒レースに黒いシーツ。けど、からだし。


『マジで、城に居ねーんじゃねーの?』


『いや... 』


ベッドの向こう側に回った ミカエルが

床を見てる。


皇帝が、ふっ と 息を吹いて ベッドを消失させると

干からびた 天衣の遺体が二体、仰向けの姿勢と

横に倒れた姿勢で 重なって転がり

その向こうに、女が うずくまっている。アバドンだ。


アバドンは、天衣の上をはだけさせて

背中を剥き出していた。

翼の羽根が 半分くらい抜け落ちていて

翼の付け根と、翼骨の 曲がる部分... 第 一指から

ねじれた黒いつののようなものが 突き出している。


両膝と両肘を着き、長い髪をおろした 頭を

両手で抱えているけど、

手や胸元は 血の色に染まっていて、荒い呼吸の間に、クルル... と 喉を鳴らす音がした。


『共食いとは 素晴らしい。悪魔以上だ。

アバドンの世話の為に、側に付いていた者等だろう』


眠気を誘う声で 皇帝が言う。

干からびた天衣の遺体は、アバドンが 血を飲み尽くしちまったようだ。


『ミカエル、どうする... ?』


ミカエルの隣に立ったザドキエルが

アバドンと遺体を見て、片手で口元を覆った。


『アバドンの この状態を、天に報じて

“天狗がやった” と 見做されたら... 』


『いや、これがもし 天狗の影響だとしても

“城に迎え入れる” って 連れて行ったのは

アバドンじゃねぇか。自業自得だろ?』


泰河が言うと

『そう取ると思うか?』って、朋樹が言った。


『もし、月夜見キミサマやスサさんが

異教神... 悪魔を娶って、こういう影響が出たら

囚人だろうと 妻だろうと、高天原は その悪魔を

“危険なもの” として見る。

オレらだって、そう見るだろ』


確かに、オレも 朋樹が言うような見方をするだろうと思う。

その場合、悪魔を裁くのは

地界じゃなく、高天原であるべきだ... とも。


『異教神は、幽閉天には繋げない。

だが これでは、奈落も無理だ』


また ザドキエルが言うと、リフェルが

『俺が 額の眼を見せて、アバドンが 力を手に入れるために、自己改変しようとしていた と証言すれば... 』と 言ってるけど

『それで実際、力を手に入れた... つまり

改変が成功していれば、天に罰されるのは

アバドンとなるが、この場合は ならん。

どう 力をつけていようと、天使の血を飲む という

忌むべき者になっている。

天は、“預言の天使を汚された” と見る』と

ボティスが 否定した。


アバドンは、ヨハネの黙示録に 名前が記されている天使だ。預言は 必ず成就する。

アバドンが 滅せられることや、堕天することは

無い ってことになる。

天は 何とか、アバドンの状態を戻そうとする。


... だったら、天狗は 処刑されるのか?


『とにかく、天狗を探せ』


ミカエルが 左手を伸ばすと、程なくして

艶のないゴールドの鎖... 大いなる鎖が 腕に巻き付いた。奈落の別口の上にある、エデンの門から

呼び寄せたらしい。


『予定通りに、天狗は奪還して

日本神側に渡す』


『アバドンは?』と、ザドキエルが聞くと

『一先ず、奈落ここに繋いで考える』って 答えてる。


クルル... と 喉を鳴らすアバドンに

ミカエルが 大いなる鎖を伸ばして巻くと

アバドンが 顔を上げた。


黒髪の間で、黒いはずの眼が 黄緑に鈍く光る。

口の端から 黒い牙を覗かせて

「... ミカエルか?」と、低い声で聞く。


床に投げ出された 頭を抱えていた両手の爪が

パラパラと落ちて、黒く尖った爪が伸びてきた。


「... 見るな ... 私を」


大いなる鎖の先を 黄緑の冥い眼で睨む。

顎の下から胸、腹の下の天衣まで

流れて乾いた血で 赤黒く染まっている。


『アバドンの向こうに、もう 一枚 扉がある。

天狗は そこだろう。月夜見キミに渡せ』


皇帝が、緩く息を吹くと、何も無い壁に

扉の影が見えた。隠し扉みたいだ。


『ルシファーは?』


ジェイドが聞くと、皇帝は

『鎖に締められ、“見るな” と言う』って

アバドンを指差す。“見といてやる” ってことか...


『私も残ろう。何かあったら喚んでくれ』と

ザドキエルも アバドンに眼を向けたまま言った。

神隠しは掛けたままだけど、ミカエルの位置は分かってるし、目の前で 爪も生え変わった。

鎖の先を にらみ続けるアバドンを、警戒してる。


干からびた遺体の側を通り抜けて

隠し扉の印章を探し、天の筆でなぞると

泰河が触れて消す。

扉の中には、下りの階段が続いていた。


『参りましょう。早く戻った方が... 』


四郎が言うと、リフェルが階段を降り始めて

狐榊を抱いた ボティスも続く。


「... 他にも いるのか?」と

喉を鳴らす合間に言った アバドンの言葉を背に

階段に足を踏み入れた。

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