60


『早くしろよ』と、ミカエルがオレの腕を引く。

悪魔らは、部屋の入口近くまで迫っていた。


『おう... 』


“マリヤ” が読んだのは、マグダラのマリアについて書いてある箇所だ。


罪深き女。


イエスの足を涙で洗い、髪で拭き、くちづけて香油を塗った。

高価な香油の匂いが部屋中に渡った という。

イエスは、彼女の多くの罪を赦した。


通路を早足で歩く。

悪魔達からはオレらが見えていないのに、追われているような気分になる。


マグダラのマリアの話は聖書でも読んだけど

夏の海で、ジェイドの声で聞いた。


“罪なんて ないんだよ”


あるのは愛だ と、ジェイドは 狐姿の榊に話した。

フットライトだけを点けた、薄明けの時間に。


マグダラのマリアは、イエスの死を見守り

復活の時も 墓で会っている。


先生ラボニ” と、すがろうとしたが

“天に上がる前だから、触れてはならない” と

止められる。


最初、墓の中がからになっていた時

マリアは “あの人を返して” と 嘆く。

傍に立っていたイエスが マリアに声を掛けるまで

復活したイエスに 気づかなかった。


なんで 気づかなかったんだ?

探していた先生ラボニだ。

死んでしまったのを見守ったから、まさか と思ったんだろうか?


それでも、近くに その人がいたら気づくんじゃないか?


“その人” というのは、姿かたち だけじゃない気がする。

雰囲気、周囲にある空気みたいなものも含めて

その人 なんじゃないかと思う。


内側から発されているもの。

“暗い” “明るい” “怖い” とか、“純粋” とか 、“すてばち” “寂しげ” とか、言葉に表せないようなものでも、その人 固有のもの。


一度 死んだ榊が、隣に立った時

オレは、白い花を見てた。いばらの からたちの。


低いヒールの 焦げ茶のブーツを見た時に、幽世かくりよで会った柚葉ちゃんじゃない と感じた。


見上げて、榊だと分かった時は、“嘘だ” と 思ったけど、それは 同時に嘘じゃない と理解わかった驚きと 喜びだった。

胸に 沸き上がり、込み上げた。


榊が隣に立った時に、藤の からたちの花から意識は移ったし、確かめたくて見上げたんだ。

頭の中でも言葉になっていなかったけど

“これは、榊なんじゃないか?” という 期待を。


それは、オレが 榊を知っていたからだ。

榊の持つ 雰囲気や空気を。


先生ラボニを愛したマリアが 気づかなかったのは

その空気が 変わっていたからじゃないのか?

なら、同じ身体で 同じ魂であっても、“その人” なんだろうか?


イエスだったのは、確かだろう。けど...

おかしい言い方になるけど、生前と同じ イエスだったのか?


生前のイエスは、地上の人だった。

復活したイエスは、天に上がる前であっても 地上の人だった時とは違っていたんじゃないか?


例えば、オレの周囲に限定しての話になるが、急にガラッと 雰囲気が変わったヤツがいるとして

“どうしたんだよ?” って 話を聞いてみると

何か そいつにとって大きな経験があった場合が多い。


榊やイエスなら、“死” に なるだろう。


でも、榊は変わっていない。

オレが出会った時は すでに霊獣だったからかもしれないが、死という経験によっても、中身... 考え方や ものの見方が変わってなかった。


イエスは、それが違ったのかもしれない。

まだ地上に在りながら、中身が天の人になっていたんじゃないか?


通路を曲がり、入口を出ると、見張りを頼んだボティスの軍のヤツらがいた。

黒髪ロングドレッド、ブロンドのマッシュ、ブラウンのスパイラルウェーブ。

皮膜の翼がなくても、ボティスの軍も雰囲気で分かる。遊びスーツだしさ。


榊が神隠しを解くと、オレらに気付き

「抜け首が出て来た」「五体 確保済みだ」と

背後を示した。カチャカチャと固い音がする。


「えっ?」「網?」


向かいのボンデージバーのビルの前に、黒い鎖が縦横に連なって出来ている網があった。

中に抜け首たちが捕らえられているようで、鎖の中で浮き、中から鎖網を持ち上げている。

舌が出るほどの隙間はなく、顔も よく見えない。


「抜け首用に作ってたんだ」と、黒スーツに皮膜の翼の悪魔が言うと「良し」と ボティスが褒める。

三人共 嬉しそうだ。


「ニナは?」と シェムハザが聞くと

「まだ出て来てない」と 答えた。

だいぶ時間 経つよな...


ミカエルが 右手に顕現したつるぎを握ると、顔色を変えたが 

「今から悪魔が出て来る。

このトランクを パイモンのところへ運んでおけ」と、首と身体のトランクを持って行かせた。


「悪魔だ」


ミカエルの左手に顕現した秤の片方を、ボティスが押し下げる。


「罪だ」と ミカエルが剣を真横に流すと、入口を出た 奈落の悪魔の蟷螂カマキリ頭が地面に落ちた。


頭を失った身体が 前に崩れ落ちると、続いて入口を出ようとしていた悪魔が躊躇している。


「ミカエル」


隣に ベルゼが立った。


手に持ったステッキを シェムハザに渡し

「斬首は 奈落の悪魔だけにしてくれ」と、左手の手袋を外した。


ヴヴ というような小さな集団の羽音を立てて、赤い虫が 入口から奥に立つ悪魔たちへ向かう。


ベルゼが「アンジェ」と 喚ぶと、背中の中程までの 赤毛のウェーブの男が その背後に立った。


立襟の黒の中世宮廷ジャケット、前の合わせ部分 縦と 袖口に金刺繍。白いフリルタイのシャツ。

黒のスラックスパンツに黒の革靴。

窪み瞼のクールな顔立ちをした男だ。


格好を見て「王子?」と ルカが言っているが、ベルゼの副官らしい。


「入口から出せ」


ベルゼに命じられると、何か呪文を詠唱して 上向きの手のひらの指で招いている。


躊躇していた悪魔の足が前に進み、ぞろぞろと入口から進み出て来た。


吸血悪魔たちには ベルゼの赤い虫が回ったようで、膝を折り、バタバタと倒れて行く。

蟷螂頭の悪魔たちを ミカエルが次々に斬首する。

二分かからず、二十人近くの頭を落とした。


「掃除を」と ベルゼに言われ、シェムハザが 青い炎で蟷螂頭たちの遺体を燃やして 灰にする。


「ベルゼ、あの虫は?」


ボティスが聞くと

「以前の虫を改良した」と 先のない手首の腕で、青い炎のあいだ々に転がって苦しんでいる 吸血悪魔たちを示した。


「ソカリを解剖し、吸血された際に 挿入された

卵の孵卵場所や 成虫について調べた」


眼を見て言ったベルゼに、ボティスが頷く。


「卵は 血流に乗り、直接 胸骨内に入り込む。

人間が吸血産卵された時とは違い、大脳辺縁系だいのうへんえんけいに 卵が登らないためか、卵鞘らんしょうに包まれておらず、この段階では フェロモンによる操作もない。

胸骨内で孵卵し、幼虫は胸骨から体内へめぐるが、宿主の血球が生産される 骨髄内でえり、蝗は宿主の白血球を獲得する。

このために、免疫学的に宿主から認識されない。

これは、人間の胸骨内で孵卵した場合も同じだ。

蝗が “宿主自身の細胞” だと騙すために、免疫システムが応答しない」


地面には、青い炎に 蒸発するように燃え尽きた

奈落の悪魔たちの遺骨が残っていた。

シェムハザが指を鳴らすと、それが地面に染み込んで消えていく。


「だが、宿主の免疫システムに気付かせれば良い。

ソカリの体内に侵入させた私の虫は、食い荒らした灰色蝗の遺伝子と、これ等に対するソカリの抗体を獲得していた。

この虫を弱毒化させて 体内の幼虫や成虫を追わせ、胸骨内の卵にも ソカリの抗体を挿入させる。

すると卵は内部を溶かされ、情報として体内に溶け込んだ蝗の幼虫や成虫を抗原とし、ソカリの抗体が反応して 攻撃する。

攻撃を受けた幼虫や成虫は、自己の情報を欠けさせないために、体内で元の蝗の形を成す。

これにより、宿主の免疫システムが 蝗を異物だと認識し、蝗に攻撃を開始する」


虫に蝗を食わせる訳ではなく、ソカリの抗体を入れさせるようだ。

他の個体が獲得した抗体を入れる、受動免疫ってやつに近いと思う。


ベルゼが 先のない手首に白い手袋を被せると、手袋の内側に手のかたちが顕れた。

悪魔たちの体内から 赤い虫を戻したらしい。

体内で蝗が形になった ということだろう。

ここからは、宿主自身の免疫が 蝗と戦う。


「白血球には、リンパ球や単球、好中球こうちゅうきゅう好酸球こうさんきゅう好塩基球こうきえんきゅう といった種類があるが、

寄生虫に特化しているのは、好酸球こうさんきゅうだ。

体内に侵入した寄生虫に 好酸球が寄り集まり、顆粒蛋白を放出する。

この蛋白により、寄生虫の周囲は 線維化 という変化を起こして 固くなり、寄生虫の入り込んだ場所は区画化される。

また 好酸球は、“エトーシス” と呼ばれる特殊な細胞死をする。

これは、抗原の大きさや多さによって 対応し切れない と踏んだ場合に、好酸球が自爆することだ。

自らの核に詰まっているDNAを網状にして放出する。

この網状DNAには粘性があるが、様々な傷害性のある蛋白を持っており、付着したものを傷つけ、死に至らせる」


吸血悪魔の 一人が、転がったまま 口を開くと

灰色蝗の死骸を吐き出した。


ごほごほと噎せる度に死骸が溢れ出て、他の悪魔たちも吐き出しはじめている。


すっかり蝗を吐き出したらしい悪魔は、地面から半身を起こしたが、ミカエルやベルゼに眼を剥き逃げようとして、アンジェが出した地の黒い鎖に捕らえられた。


「採血を」と 言われたアンジェが配下の悪魔らを呼んで、蝗が抜けた悪魔たちから採血をする。


「大勢を ソカリが救った」


赤い虫を出した左手を開いたベルゼに、ボティスがまた頷く。少し 誇らしげな眼をして。


預けたステッキを受け取ろうと、シェムハザに 手を差し出したベルゼに

「これは、人間への応用は?」と、ステッキを渡しながら シェムハザが聞く。


「弱毒化したとしても、私の虫は人間には強すぎる。組織溶解はまぬがれない。

しかも首が抜けた状態では、身体の機能が停止するだろう?」


身体が 蝗を抗原として認識したとしても、免疫システムも動かない ということだろう。


「それなら、洞窟教会に入院中のミリタリージャケットの人なら、抗体を持ってるんじゃないか?」


朋樹が言う “ミリタリージャケットの人” は、濃紺スーツの人の頭部が すげ替わって付いた身体の方の人だ。


ルカの精霊で出た 田口という役人の霊が 首を落として、身体から成虫の死骸を出した。

元の頭部... ブラウンと紺に染めた頭と身体を繋いだ。

今のところ 唯一、元に戻せた人。


「そうだ。身体の中で 蝗が形を成して死んで出た。獲得免疫があるなら... 」と ジェイドも言うが

「だから、身体が冬眠状態だろ?」と、まだ剣を握ったままの ミカエルが答えている。


「頭の印だけ消して、身体に蝗がいるまま元の首を繋いじまえば... ?

また産卵されたら 吸血舌 出すんだろうけど、身体の機能停止は解けるしさぁ」


ルカも言い、オレも

「舌 出したら、また頭の印だけ消す とか」と言ってみると

「それで再び 首が外れぬならば良いがのう」と

榊が首を傾げた。


そうか...  首が抜けたら、身体が機能停止する。

なら、体内の蝗退治が済むまでは、何とか拘束するしかない ってことになる。

ただ 吸血の人って力が すげぇし、骨折しようと向かって来るんだよな...


「抗体を 虫で入れる訳にはいかない。

投与するなどの手段になると、体内中に廻るまで

かなりの時間を要する。

また虫のように、情報として溶けた蝗を追える訳でもない。抗体が蝗を認識 出来ればいいが... 」


ベルゼが言った後に

「人間の免疫のみで、蝗が殺れりゃあいいけどな」と ボティスが付け加えた。

そうだよな... 身体が蝗と戦う間、身体が持つのか っていう問題もある。


「抗体を聖別してから入れる のは どうだろう?」と、思い付きのように ジェイドが言う。


「聖別?」と、ミカエルが聞き返すと

「田口という役人のゴーストは 信徒だった。

それに、同じ灰色蝗から分化した尾長には 聖水と祈りが効く。

灰色蝗を 人間に巣食った悪魔だと見倣せば、聖別された抗体は 必ず蝗を捕らえる」と、考えたことの説明をしている。


「その後、本人の免疫が戦う間も、聖別でジェズのものとした抗体が 力になる。

もし、また体内で産卵されて 血を望んだら... 」


... “この杯は、あなたがたのために流す

わたしの血で立てられる 新しい契約である”


「聖体拝領?」と 聞いたオレに、ジェイドが頷いた。





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