5 息吹 ゾイ (第八日)


「小さいな。等身以上はあるかと思ってたぜ」


「いいんだよ、このくらいが丁度ちょーど

オレ そんなでかいの、描いたことねーし!」


ルカが木製のイーゼルにセットしたキャンバスは

私から見ると、充分 大きかった。

幅は70センチくらい、高さは1メートルはあると思う。

元々 何かを描くつもりだったのか、もう下塗りがしてある。


「おまえ、マジで絵とか描くんだな」


広げたビニールシートの上、イーゼルの隣に

ベッドのサイドテーブルを運んで

その上に置いた、使い込んだ木製のパレットや

油壷や画筆、ペインティングナイフを見て

朋樹は意外そう。


「大学 出てからは、そんな描いてねーけどな」


「作品は?」


「ほしいって人に あげてるー」


絵の具や油は新しく買って来たみたいで、ジェイドが画材屋さんの紙袋を開いて出してみてる。


私は、キッチンで珈琲を淹れながら、お味噌汁を作ってるところ。

煮干しで お出汁だしを取ってる。具材は薄揚げとほうれん草、玉葱と若芽。

“味噌もない” って聞いたから、ここに来る前に

スーパーに寄って買った。


玄関が開いて、お使いに出されてた泰河が

「ほら、マシュマロ」って、露ミカエルの前に出すと「うん。じゃあすぐな」って、露の眼が 新緑の色に戻る。


冬になって色が褪せたらしいミントの庭に

エデンのゲートが開いた。


アーチから続く階段に

裸足のミカエルが降りて来る。


伸ばせば美しいウェイブになりそうな、緩い癖のある柔らかいブロンドの髪に、同じ色の眉と睫毛。明るい色の碧眼。

背中の白い翼は、真珠色に ふうわりと輝いてる。

彼に見惚れない人なんて、きっといない。

こうやってまた こんなに近くで見れるなんて...


「にゃー」


露の声に、ハッと我に返る。

「露、お出汁を取った煮干しもあるけど お刺身からにする?」と、お刺身のパックを開けていると

「珈琲!」って ミカエルの声がして、泰河が来た。


「オレ、味噌汁くらい作れるからさ

コーヒー持っていってやってくれよ」


顎ヒゲに中指の背で触れる泰河は

“右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい” と

教えを説いた時の聖子は、こんな顔してたんじゃないかな?... って 思えるような表情をしてた。


「うん... 」


サイフォンの下のガラスに溜まった珈琲をカップに注いで、真ん中のベッドに 脚を組んで座って

マシュマロを食べてるミカエルに持って行く。


ミカエルは、受け取った珈琲を 一口 飲むと

左手に持ったマシュマロの袋を見て

「お前、カップ持ち係ね!」と、私に また珈琲カップを渡した。


「座っときなよ」と、画筆を持ってみてるジェイドが言うと「他にテーブルねぇのかよ?」って

朋樹が眉をしかめてる。


絵の具が付いてる黒いパーカーに着替えたルカが

「無いぜー」と 笑顔で答えると、朋樹は余計にムッとした。


お味噌汁を作っているはずの泰河が、リビングの棚に重ねて置かれてる いろいろな色や大きさのレザーの束に目を止めて

「おまえ、革もやるの?」と、手に取り出した。


「ああ、小物なー。バイクのバッグとかさぁ。

繊細なのはやらねーけどー。蝋引き糸で縫うやつ。棚に道具あるから、使っていいぜ。

革、下処理してあるしー」


「お、マジで? 泰河もやるんだよな。

ごつごつしたやつ」って、朋樹も動いてる。

恋人のヒスイが、靴やバッグのデザインをして

レザーで作るお仕事をしてるから、関心があるみたい。


「財布、自作なんだぜ」とレザーを選ぶ泰河に

「お味噌汁は?」って 気になって 聞いてみると

「今 煮てる。ちゃんと弱火で」って言うけど

具材をいっぺんに、お出汁に突っ込んだらしい。

ドキドキする...


「じゃあ、下書きしよーかな」


ルカがベッドのミカエルのところに来て

「ゾイ、おまえジャマだから座れよー」って

ミカエルが座るベッドを視線で示したけど

私は、隣のベッドに座った。


ルカは真顔を 私に向けるけど

同じベッドになんて、とても座れない。


「お味噌汁、見てこようかな」


ベッドを立とうとすると

泰河が「いや、任せろって!」と

焦ってキッチンに行って

みんなの分の珈琲もカップに注いでしまった。


「顔 触るぜ」


ルカは、ミカエルの頬や額に 指で触れてる。


「なんで触るんだ?」


「形とか質感 知るため。天使 知らねーし。

肌すげー! マシュマロばっか食ってるからかな?

ちょっと眼ぇ瞑って。瞼 触るし」


マシュマロばかり食べたら、あんな肌になれるのかな?

瞼を臥せたミカエルは、ブロンドの睫毛の影が

下瞼にかかって綺麗だった。


「瞼、薄いよなぁ。

... うわ、くちびる ぷるってしてやがる。

そんな厚みねーのに!」


「お前、褒めたりしないよな」


「褒めてるじゃん。結構 美形だしさぁ」


結構が余分だって思うけど、シェムハザを知っているから、仕方がないのかもしれない。


ルカは、ミカエルの両肩に両手を乗せて

次に翼に触れると「うん、もういいや」って

キャンバスの向こうに消えて

ソファーの背凭れに座って、パレットに絵具を

置き出した。


「下書きは?」と、ジェイドが聞くと

「絵の具でやる」って 答えてる。


ぼちゃっ て音にキッチンを振り向くと、泰河が乱雑にお味噌を入れたみたいで、またドキドキした。


「出来たぜ。飲むか?」って聞いてるけど

ミカエルは まだマシュマロを食べるみたい。

「なら革やろうかな」って、テーブルで

レザーを裁断し出した朋樹のところへ戻って行った。


「暇だな」


食事が終わった露を抱いたミカエルが

「珈琲」って、私に手を出しながら言っていると

向こう側のベッドに ジェイドが座って

「これ、まとめてるやつなんだけど」と

教会で書いた、創世記のメモをミカエルに渡した。


「まだ 2章かよ?!」


ミカエルは碧い眼を丸くしてる。


「そう。ある程度の系図や民数記なんかは割愛するつもりだけどね。

内容だけ追うものを作ろうと思ってるんだ」


「だったら、丁寧な気がする。

父の言葉も もう少し減らしていい。

一章なんか、最初の “光あれ” だけでいいしな。

“光あれ。光は昼、やみは夜。

夕となり、朝となった。第一日”。

最初に、ヨハネがあるけど

これの前に、パウロのローマ人への手紙を

持ってきてみろよ。15章4節」


「そうか!

... “これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、

それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、

望みをいだかせるためである”...

聖書が どういったものなのかが 分かるね」


「2章は、まぁ このままでいい。

アダムのとこだしな。

肋骨でイシャーを造って与えたところは

イシュの喜びのところだ。

わざわざ “ついにこれこそ... ” って、アダムの言葉を入れてるだろ?

“人がひとりでいるのは良くない”

こうして生きるべきだからだ」


イシャーを造る前から、土で造った動物を連れて来て

名前を付けさせたりして

父は アダムのことが、とてもかわいかったんだろうな。

それで、天使たちに

“人間を守護しろ” とまで言い出したのなら

妬いてしまう気持ちが、今は少しわかる。


それに父は、造ったそばから

ひとりでいるのは良くないって

分かってたんだ。

だけど、どうしてなんだろう?


「次の3章までは、1ページに纏められるぜ?

ヘビが女を唆すところから。

善悪の木の下にいる女に、ヘビは言った。

... “それを食べると、あなたがたの目が開け、

神のように善悪を知る者となることを、

神は知っておられるのです”...

女は実を取り、男にも渡して 食べた。

... “すると ふたりの目は開け、裸であることを知り”... いちじくの葉で腰を隠した。

父... 主から、隠れているのを咎められると

ヘビに唆されたことを打ち明ける。

主は、ヘビを呪い

女には、出産の痛みと、夫への従順を

男には、“額に汗をしてパンを食べ

ついには土に帰る。塵は塵に帰る” と、労働を課し

楽園エデンから追放した」


「そんなに簡単でいいのか?」


「丁寧な方だぜ?

“ヘビに唆されて、禁じられた実を食べたから

楽園を追放された” でもいいけど

それだと、後で 原罪の説明が出来ないだろ?」


善悪の実を食べるまで、裸は恥ずかしいことじゃなかったのに、父がエデンの園を歩く音を聞いて

ふたりは “裸なのが恐ろしい” と、身を隠してしまう。

それで父は、ふたりが善悪の実を食べたのだと

気付いて、詰問すると

アダムは “妻が渡した” と答えるし

女は “ヘビが騙した” と答えた。


父はヘビを呪い、

女に出産の苦しみを課しても

きっと子を成すように、男に従うようにする。

アダムには

“私の言いつけより、妻の言葉を聞いて実を食べた”

“地は あなたのためにのろわれ、

あなたは 一生、苦しんで地から食物を取る” と

労働の義務を課し

“永久を生きる 命の実まで食べてはならない” と

ふたりに皮の着物を着せて、楽園を追放した。


アダムは、妻を “エバ” と名付ける。

これは ヘブライ語で、命や 生きるものという意味。彼女は すべての生きる者の母だから。


そして、アダムを造った土を、彼自身に耕させ

楽園ではなく “元の土に帰る” ようにした。


「エデンの命の木の実が取られないように

父は、“ケルビムと、回る炎のつるぎ”... つまり

ウリエルを門番に置いた。

それも、エデンが人間から完全に忘れられて

失われるまでだったけどな。

でも、その辺も割愛でいい。

原罪のために追放されたのが分かれば」


「22節の主の言葉なんだけど

... “見よ、人はわれわれのひとりのようになり、

善悪を知るものとなった”... ってところ。

この “われわれ” は、天使たちのこと?

1章でも気になってたんだ」


ジェイドが聞くと ミカエルは、私に空のカップを渡して

「そう。まだ降りてなかった聖子と俺等だ」と

マシュマロを指につまんだ。


「4章は、カインだな。

でもこの辺りは、次の5章とで エノクやセツが 二人出てきて、ややこしくなるからな。

カインの系図は割愛する」


「ミカエル、ちょっと後ろ向いてー」


ルカがキャンバスの向こうから 顔を出して言うと、ミカエルは立って 後ろを向いた。


「片翼 広げて。右ぃ」


言われるままに広げると

翼は、向こう隣のジェイドの前を覆ってる。


「やっぱ 左ぃ」

「何だよ?」


私の目の前を、真珠色の翼が覆う。

私の翼は、きっと こんな風じゃなかった。

一枚 一枚が 淡く輝く羽根に うっとりとしてしまうのに、不思議と 安心感もあった。













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