18
人形に込められていた魂について
朋樹は何も言わなかった。オレらも 何も聞かず。
人形自体には大祓をすると
「悪い。返して来てくれないか?」と
シェムハザに人形を渡した。
「もう何もないから」と 言って。
シェムハザは人形を受け取り、すぐに戻ってきた。
さっき 人形を抱いていた人は
もうキャンプ場を出て、山道を歩き出していたが
目の前に置いてきたらしい。
「“どうして?” と 驚いてはいたが
何も気付いていないようだった」
女の人だったよな。母親かな と、考えたけど
それ以上は考えなかった。
人形に入っていた魂は、霊の形を保てない程
怯えて小さくなって、閉じ込められていた。
朋樹が
アコが顕れて
「山頂に向かってる奴等は
もうすぐ全員 登り終えるぞ」と 言うので
オレらも別荘を出る。
キャンプ場の駐車場から、山頂近くの駐車場まで
バスで向かい、そこから山頂までは歩きだ。
一応、暗視スコープを持ってきたが
今日は月明かりで明るく
異教神避けまでは、付けなくても歩けた。
「俺等は、とりあえず ここにいる」
シェムハザとアコが異教神避けの前で
朋樹からスマホを受け取り、姿を見えなくする。
「広場に沿って森を歩く。
まっすぐに行く訳には いかんからな」
円状の広場の外側の森を歩き、モレク像や
見える位置まで静かに移動した。
木々には葉が少ないが、地面に月明かりの影を落としていて、森の中は暗い。
さすがに暗視スコープを装着する。
緑の景色の中の 現実感のない森を進む。
枯れ葉や小枝を踏む音が、やたら耳についたが
大勢の人が話すような声がしだした。
ボティスが立ち止まり、広場の方に眼を向ける。
竹の松明を灯していて、白く明るかったので
暗視スコープを外し、普段の景色に戻すと
改めて広場を見た。
松明は、最初に立てられていたように
松明台に四本ずつ立てられ
二本角の雄牛の顔の 黒いモレクの胸像と
動物の遺体や小麦粉が備えられた 白い
赤く照らしている。
モレクの胸像から、うっすらと後ろに伸びた影が
松明の炎が揺れる度に、その線を揺るがす。
集まって来た人たちは、胸像や祭壇に向いて
半円を描くように並んで座っている。
祭壇の前には、神主の正服姿の男がいた。
大祭などで神主が着るものだ。
上に着けているのは、
括り上げをしている。
頭に
手には
朋樹のとこの おじさんが、神社の春や秋の大祭で
これを着装していたのを見たこともあるが
子供の時から “雛人形の派手じゃない お
『何なんだ?』
露ミカエルは、正服姿の男を不審な眼で見ていて
ボティスは 説明を求める眼を向けてくるが
オレどころか、朋樹すら「何だろうな?」と答えた。
「一応、モレクを神として
供物を捧げているように見えるが... 」
ジェイドが そのままを言うが
「まあ、そう見えるな。
神饌は 神や神社によっても違うし」と、朋樹は
自信なさげに答えた。
正服姿の男が、モレクの胸像に向かって
両手に持った笏を胸の前に 一礼をし
「稲荷山 三つの 燈火 明らかに、心を磨く... 」と
独特の抑揚を付け、唄い出した。
「えっ? 祝詞とかじゃねーの?」「何だ?」
「これは、伝統芸能じゃないのか?」
皆ぼそぼそと 朋樹に聞くが
「知らん。能っぽいこと やってるが
あの おっさんは、たぶん神職じゃねぇってことくらいしか わからねぇ」と、呆気に取られている。
トントン、と
半円の両端にいる男二人が、鼓を打っている。
「... 天国天の 座神息が、国家鎮護の 剣にも、
優りはするとも 劣らじと... 」
「謡曲みたいだな。“小鍛治” じゃないか?」
「何だよ それ?」
朋樹の説明によると、能の謡曲の 一つで
小鍛冶の
「宗近は、相槌... 鉄を交互に打つ人がいなくて
困ってて、稲荷明神に祈りに向かうんだ。
その途中で、宗近が困ってる内容を知っている
不思議な子供と出会ったりしてな。
参拝を済ませた後に、稲荷明神の化身の狐が出てきて、狐に相槌してもらって、宝剣を打ち上げるんだ」
「狐が鍛冶するって かわいいな」
「おまえ、能とか観たことあるんだ」
「おう。テレビでな」
「それで何故、今ここでやっている?」と
ボティスが聞くが
「唄の奉納かな?」と、朋樹は首を傾げる。
「... 降るや 時雨の初紅葉、焦がるる色を 金床に... 」
鼓が鳴り、唄は続いている。
祭壇にも新たに酒が供えられているが
地面にも酒瓶が置かれていた。
松明を立てるためのものが、鉄製のスタンドも
いくつかある。
『なんでモレクに、狐の話なんだよ?』
「さっぱりだな」
しばらく唄と鼓が続き、ようやく終わると
正服姿の男は、またモレクの胸像に 一礼して脇に下がり、ペットボトルの水を飲んだ。
再び 祭壇の前に出ると、他の男から紙を渡され、咳払いをした後
「ニョゼセッチ、ビルシャナブツ、ゴウジコンゴウヒミツシュゴン... 」と
なんと次は、経を読み出した。
たぶん、如是説巳 毘盧遮那仏 告持金剛秘密主言...
“
「... ニュトウタイチョウ、ゴクゼンサイ、ゴコンセッシ... 」
「読経する神主さん」「すげぇな」
「僧でもないだろうけどな... 」
「あの紙も、カタカナで書いてありそうだね」
「... ヒミツシュ、ウンガボダイ、イニョジッチジシン... 」
辿々しく読み終わると、また別の紙を渡されている。
予想では “
“両部の大経” と言われる 真言密教の根本経典だ。
仏教には、
これは 仏の世界や、悟るための
図で表したものだが、真言密教の両部曼荼羅には
大日経に説かれる 毘盧遮那仏... 大日如来の慈悲を表す “胎蔵界曼荼羅” と
金剛頂経に説かれ、大日如来の智慧を表す
“金剛界曼荼羅” がある。
ちなみに “慈悲” というのは、“
慈が抜苦、苦しみを抜いてやりたいという心で
悲が与楽、楽しみを与えてやりたいという心のことをいうようだ。
そして世の現象には、大日如来の慈悲が満ちている というが、個人的には ジェイドのいう
“聖霊の働き” に 近いものを感じる。
智慧というのは、一般的な頭の回転や計算能力の
知恵とは少し違い、真実を見抜くことであったり
正しく物事を認識し、判断することをいう。
これによって、
悟り イコール 涅槃、ということだけではなく
“煩悩即菩提” という考え方があり
煩悩かあるからこそ
どちらも実体のない “空” である。
煩悩を滅するのではなく、悟りへ向かう道へと
質を変容させていく... ということを実践するのだが、真言密教は、“即身成仏” といい、この身のままで仏になる... というのが根本にある。
大日如来と行者の
“三密加持”により、仏となる... 即身成仏となるが
大日如来は、世の物質や精神を含む宇宙そのものであり、すべての真理と一体となることが...
「ソチュウコウセン、ブンギコウミョウ、シュンニチエンマンセイセケッパク... 」
あれっ?!
「理趣経じゃねぇか... 」
同じく、金剛頂経がくる と予測していたであろう朋樹が呟く。
「でもさぁ、この儀式をするかもって
推測してたんじゃねーの?」
ルカが きょとんとして言うが
「うん... 」「まあ... 」
オレも朋樹も、なんか納得はいかん。
「金剛頂経がねぇとさぁ... 」
「智慧はいいのかよ... 」
「... ビョウテキセイセイクシボサイ... 」
ぶつぶつ言っている間に、何人かの男が半円を描いて座る人々の背後に 鉄製の松明スタンドを等間隔に並べ出し、別の男二人が、まだ火を付けてなかった竹に灯油を入れ、白い布を
「... セイシサイシュセイセイクシボサイ... 」
その松明を、等間隔に置いたスタンドに差していく。
半円の内にも外にも 薄い影を伸ばす。
モレクの胸像は、ますます背の影の色を強めた。
「... コウベイセイセイクシボサイ... 」
男の 一人が、
猪や羊、鳩の遺体に酒を掛け、手を合わせた。
理趣経の
「...カイコ。セイホウシセイセイコ。ハンジャハラビタセイセイ」
それも読み終えると、正服の男は
モレクの胸像に 一礼して下がった。
別の男二人が、祭壇の供物を
モレクの胸像の中の棚に納めていき
また別の男が、半円に並んで座る人たちに
プラスチックのカップを配り、酒が注がれていく。
また正服の男が 祭壇の前に出てくると
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ」と
プラスチックのカップの酒を、顔の位置くらいまで上げた。
「真言は金剛呪... 」
朋樹が くやしそうに言うのに頷く。
男が言ったのは ダキニ天の真言だが、後期密教のものだ。
「けど やっぱり、やろうとしてるのは
ダキニ天の修法の立川流版ってことか?」
「知らねぇよ。最初から めちゃくちゃじゃねぇか。だいたい これ、モレク像だろ?」
そうだよな。狐じゃねぇし。牛だ。
「だが見ろ」と
ボティスが モレクの胸像を示す。
供物を入れたモレクの胸像の中に
薪や新聞紙を入れ、灯油を掛けている。
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ」と
また正服の男が言うと
半円に座った人たちも、酒のカップを持ち上げ
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ」と
繰り返し、何度も唱和を始める。
真言を唱える度、場が興奮していくのを感じる。
異様な空気が満ちていく。
人々が真言を唱える声の中、別の男が正服男に竹の松明を手渡すと、正服の男は その松明でモレクの胸像の中に火を点けた。
中空になっているモレクの胸像の 腹の中が燃え
白い祭壇も 炎の色に赤く染まる。
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ」
正服の男が酒を飲み干すと、半円の人々も
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ」と
酒を飲み干し、一人が立って
ハーフケットに
ハーフケットごと人形を祭壇に置くと
包みを解き、正服の男が両手で人形を高く抱き上げる。
腹の中を燃やし、異様な赤黒い影となったモレク像を見上げ、差し出された両手に人形を乗せると
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ!」と
叫ぶ。人々も立ち上がり、狂喜の表情で
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ!」
「オン バザラ ダキニ ウン ハッタ ソワカ!」... と
繰り返しながら、服を脱ぎ捨て始めた。
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