朝色 2


********




昼日中に山を越える。

落ち延びる者、自害する者から 眼を背けて。


誰も俺に気付かぬ。厄獣であるのに。

この戦は お前の仕業か と

討てば良いものを。


そうして歩いておるうちに、また人里に出た。


落ち延びたなにがしを匿う者などもあり

ひっそりと慌ただしくある。


小川などで水を飲む。

戦場からは、流れが逆であるので

清き水に見えた。魚などはおるかのう?


いっそ討たれようかと思うたものの

腹などは減るようだ。


うむ。討たれるならば、空腹でない方が良い。

じき、夕暮れになる。夜は鼠などを探すか。


小川の向こう側に、女のわらしが歩み寄ってきた。


俺に気付いておらぬと見えるが...

いや、めしいておる者か。


桶など持っておるが、水を汲みに来たものか?

家人が、落ち延びた誰かを匿うておるのか

忙しくあるのやもしれぬ。

それとも、普段より こうして手伝いなどはしておるのかのう? 不便であろうに。


童は、川の縁まで来ると、桶に水を張り

桶を自分の隣に置き、草鞋わらじを脱いで

水に足を浸けた。


戦世に草鞋などを履いておる者は

家に幾らか余裕がある者じゃ。


齢は如何程いかほどであろうか?

七つ八つ程か?


水の流れを楽しんでおるものか

時折、緩く足を上下する。


満足したのか、川の縁に足を上げ

慣れた手付きで草鞋を着け

立ち上がって桶を手に取ろうとした時に

目測を誤り、川に落ちた。


川は浅くある。流れも緩い。

童はすぐに 水から顔を上げたが

縁と逆を向いて、両手を伸ばしておる。

焦ってしもうたものとみえる。


「誰か... 」と、か細い声を出すが

それでは、誰にも届くまい。


べそをかき、見えぬ眼の顔をキョロキョロと動かし、両手で水の上を掻く。


何故、川へ川へと進もうか?

一度 振り返る などとは 考えぬものか?


だが 童とは、そういったものであるらしい。


川には深き場所もある。仕方あるまい。

俺は 川に入り、向こうに渡ると

童の着物の袖を後ろへ引いた。

すると「いや!」と、余計に怖がり

水の中に尻を着けた。


どうしたものかのう?

着物の袖を口から離し、童の前に出る。


鼻先で、肩を軽く後ろへ押す。

ともかく、立ち上がらぬものか。


「う... 誰?」


答えられぬのだ。もう 一度 肩を押す。


童は、自分の肩を押すものが 何であるかを確かめようと、恐る恐る、俺に手を伸ばした。


頭や耳、鼻先などが適当であろうので

手の先に耳が触れるようにする。


童は、耳に触れると

俺の耳に水が入るのも構わず

両の手で触りたくる。


だが、このように誰かに触れられるというのは

何時振いつぶりであろうか?

母君の鼻先の感触を思い出す。


指は 頭に触れ、鼻先に降りた。


「いぬ?」


「狐じゃ」


暫し、水の中にて 時が止まる。

まさか、俺が人語を話せようとは...


「しゃべった... 」


「うむ...  俺も初めて知った故... 」


何か気まずくある。


「岸は、後ろじゃ」


「えっ! ほんとう?」


「水から立ち、後ろに向いて

三歩程 歩けば良い」


童は立ち上がると、素直に振り向き

ゆっくり三歩程 歩んだ。

伸ばした手が 岸に付く。


「ほんとうじゃ! ありがとう!」


「水桶も、すぐ傍にある故。

早よう上がると良い。じき、暗くなる」


童が岸に上がると、俺も上がり

ぶるぶると身体を震わせ、水を切る。


童は水桶を手にしたが、まだ立っており

見えぬ眼の顔を 俺の方へ向ける。

視点はずれておるが、俺の気配がわかるようだ。


「狐、名前は何?」


「名は持たぬ。お前は?」


「菊」


「良い名だ。美しくある」


「明日、なんて呼べばいい?」


明日?


「うむ...  “狐” と」


「そうすると、人は ヒトになり

犬は イヌとなるのじゃなかろうか?」


「他に狐の知り合いがおらぬなら、良かろう」


菊は少し考えたが

「良うない。特別の狐である故」と答え

また少し考えた。


「浅黄」と、言う。


「浅黄とは?」


「お前の名じゃ。

わしは、熱病を患い めしいたが

元は見えておった。

その時分に、狐を見たことがある。

狐は浅黄色である故」


俺は、言葉を失うた。

浅黄色であれば、どんなに良かったであろう。


俺は黒毛じゃ、と

何故 言えぬであったか。


「うむ...  良い名じゃ」


菊が嬉しそうに笑い、くしゃみなどをする。


「帰って着替えねば。流感など患う故」


「うん。明日、夕暮れ前に

浅黄は ここにおろうか?」


「うむ、おろう。もう暗くなる。早よう帰れ」


「うん!」


濡れた着物で水桶を持つ菊を見送る。

家は、川から見える程 近くあった。


黒毛であるのに、浅黄とはのう...

だが、それであれば

特別の狐などではないのでは?

狐は大抵、浅黄色なのだから。


まあ良い。童の考えることよ。

あのように笑うた故。


幾分 冷えたものか、くしゃみなどが出たが

俺は、嬉しくあった。




********




「もう、“水汲みはせぬで良い” と言われた。

草鞋などを編んでおる。

今は、夕の散歩に出ると言うて来た。

家には、誰か知らぬが、客人がおる故」


「うむ。家人が忙しくあれば

退屈かも わからぬのう」


菊は、昨日と同じ時分に川に来て

「浅黄」と、俺を呼んだ。


俺は、近くの草むらに潜んでおったが

「おる」と 返事をし、菊の近くに参った。


だが、人などに見られては

また 厄獣と疎まれる。しかも、人語を話す故。


「目立たぬ場所などなかろうか?

俺が喋るのを見られるのは、まずかろう」と

菊に相談すると

「うん! 良うない!」と、ハッとし

菊の家の裏手にある、今は塞がれた井戸の裏に回った。


家からも程よく離れており

井戸は、みっしりと石が詰め込まれておるので

危険もない。

これからは、ここが待ち合わす場所となる。


「何ぞ、大人だけで難しい話などする と

わしは “夕暮れまで遊ぶが良い” と

家を出される故。

ただ、遠くに行ってはならぬ。

盲ておるし、人拐いなどもあるという」


「うむ。菊は女子おなごであるからのう。

余計に気をつけねばならぬ。

このように、家の裏手であれば

危険は少なかろう。俺も共におる故」


「うん。わしは あまり、友などが おらぬのじゃ。

だから 浅黄がおって、嬉しくある」


「うむ、そうか。俺も嬉しくある。

このように、誰かと話すことなど

もう幾年いくとせもなかったからのう」


菊は、不思議そうな顔をする。


「父様母様や、兄弟などはおらぬのか?

狐の友は? 浅黄だけ人語を話そうか?」


「もう疾うに寿命が尽きておろう。

俺は、故郷の山から遠く離れておる。

もう齢は確か、六十を数える」


「六十?! じい様であったか?

しかし、声が若くあるのう」


「じい様どころか、野の狐など

十も生きれば、大往生だ。

何故このように長く生き、人語まで話すものか

俺にも わからぬのだ」


ふうん... と、菊が首を傾げる。

長き黒髪の揃った毛先が、微かに揺れる。


人など いや 何者にも

このように思うたことはないが

童というものは、可愛らしくあるのう。


「特別な狐であるからのう。仕方あるまい」


「うむ、そうか」


暫し話をし、夕暮れになると

「暗うなるから帰れ」と、俺が言う。


菊は「明日、また」と、必ず確認するので

「うむ、ここで」と 答え

菊が 家に入るまで、離れて見守る。


その後は、裏手の藪に潜み

夜が耽ると、鼠狩りをし

道や畔を散歩する。


見上げる星が 美しくある。

あのように 小さな光すら

ただ眩しく思うだけであったのに。


このように、誰かと会話を持てようとは。

名など 持てようとは。


独りであるなら、名は要らぬ。

呼ぶ者が おらぬ故。


しかし、俺には

浅黄という名があるのだ。





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