桜月 7


あの子たちは、あれから 二回来て

カウンターで『雇え雇え』って言って

二回とも ツケ って帰って行った。


いいわ。今度来たら、お掃除をさせよう。


お家賃は払えたのかしら?

『追い出されたら ここで寝袋敷く』って

言ってたし、困るわ...


朝もするのだけど、帰りも軽くモップをかけて

仕入れのチェックをする。


ふと、無人の店に気配を感じて

奥のテーブルの方に目をやると、朔也がいた。


そんなはず...


まさか いや いやよ、絶対!


「朔也!」


カウンターを立って、奥へ走ると

朔也と思っていたそれは、あの女の人になった。


がぼがぼと、水の音を立てて

自分の胸や お店の床を濡らす。


がぼがぼ がぼがぼ...


終わって なかったんだわ


全身の力が抜けていく。


「いいわ」


朔也が、助かるなら


「連れていって ちょうだい」


そのかわり、私は あなたを離さない。

もう どこにも 誰のところへも 行かさないわ。


がぼがぼと 水を吐き続ける彼女に付いて行く。

不思議と寒くない。


山道に入ると、空中に舞うものは

雪なのかしら? 花びらなのかしら? って

ぼんやり思う。


どこの山なのかな? とても きれい。


道を反れて、枯れた藪に入る。


彼女が水を零すから、迷ったりはしない。


さわさわと、枯れ草が擦れて

水が流れる音がする。


「娘」


突然、声がした。


誰? 冬の夜の山になんて...


ザッ ザッ と、草を分ける音がする。


「取り殺されるぞ」


現れたのは、白地に白金で模様が入った着物に

紺地に金模様の袴を穿いて

頭には 二本の角がある、鬼だった。


死んだ鹿を、片手に持って

私の前まで来る。


私は、なんだか 良くわからない。


さわさわという音に

がぼがぼという 彼女の水音。


鬼まで出るなんて...


鎖骨までの黒髪の鬼は

女のひとみたいに、キレイな顔をしていた。


「死霊か。幾つか取り殺しておるな」


鬼は、鹿を持ったまま

反対の手で刀を抜いて、彼女を斬り付けると

彼女は、自分から退いたように消えた。


「中に何かある。厄介な者だ」


刀を元に戻すと

「付いて来い」って、私に言う。

鬼は、静かな声をしてる。


「人の足で、よく このような処へ入ったものだ」


途中に、東屋みたいな

柱と屋根だけの小屋があって

半分に切ったドラム缶が置いてある。


鬼は、近くに積んである薪を何本か入れると

口から ふうっと炎を吐いて、薪に火をつけた。


あの炎みたい 御不動様の


「鹿狩りに来て、人に会うとは」


鬼は、この隣の山に住んでるって言う。


「寒かろう。よく当たれ」


言われるままに、ドラム缶に近づく。

暖かい。

どうして、さっきまで寒くなかったのかしら?


「俺は、茨木だ。お前の名は?」


「如月、沙耶夏」


「“沙耶”、か... 」


ぱちぱちと、小さな火が はぜる。


煙を 見上げると、凍った月が浮いてる。


気更来きさらきか。もうじきだな」


「どうして?」


今は 二月だわ。もう 如月なのに。

旧暦なの? それなら 三月頃だけど...


「梅や桜の時期であり、陽気が更に来る。

そういった時期だ。美しい名だ」


鬼も、氷の月を見上げる。


「何故、あのような者について来た?

死にたいのか?」


「彼女は、私の母と、主人を殺したの」


「ならば、お前は 生きて護れ。

もう そのようなことを繋げるな」


炎の向こうで、鬼が 私を見つめる。


「出来ぬ というなら、俺が お前を喰ろうて

繋ぎを絶ってやる」


ぱちぱちとはぜる音と、頬にあたる炎の熱。

私は、急に鬼が怖くなって、身体が震えた。


私を食うと 言ったからじゃない。


私、何してるの? 何をしようとした?


かちかちと 奥歯が鳴る。


鬼は、鹿を地面に置くと

炎を回って 私に寄って来たけど

私は身が竦んで 動けない。


そこで意識が途切れて、目が覚めたのは

お店のカウンターだった。




********




それから彼女は、毎晩 店の奥に立った。


がぼがぼと、水音をさせて

自分も 床も濡らして。


でも ここに出る限り、朔也は無事だわ。


売り上げの伝票をチェックしながら

急に 指が震えた。


こわい


今まで、平気だったのが 不思議


今は とても、彼女が こわい


早く、お店を出よう。

キッチンから、裏の鍵を閉めて

カウンターの下からバッグを掴むと

ギクリとする。


彼女は、お店の真ん中にいた。


動けるんだわ...


また少し 彼女が近づく

がぼがぼと 言葉にならない水音を立てながら


どうしよう? どうしよう


凍った月と はぜた火の熱


私 生きたい


赤茶けた髪 見開いている充血した眼

彼女が 水を吐きながら笑った


やめて 来ないで

お願い


生きたいの...


また 彼女が近づくのに 動けない。

ドアは そこにあるのに


突然、そのドアベルが鳴る。


「よう、沙耶ちゃーん」

「腹減ったんだ、オレら」


バッグを抱き締めて、震える私を見て

朋樹くんが、自分の背中の後ろに私を回した。


「なんだ こいつ?」

「何かいるのか? オレは見えん」


やめて、あぶないわ

まだ 声が出ない。


朋樹くんが、泰河くんの肩に手を置いて

呪文みたいなものを唱えると、泰河くんは

「うわっ、水吐いてやがるぜ。気持ち悪ぃ」って

急にみえるようになったみたいだった。


「高天の原に 神留まります

皇が睦 神漏岐、神漏美の命以ちて

八百万の神等を 神集へに集へに給ひ...

ダメか。強いぜ こいつ。

泰河、掴めるか試してみろよ」


「おまえ、マジかよ?」


「... ダメっ!」


なんとか言った私を、朋樹くんが手で制する。


泰河くんは おもむろに歩き出して

がぼがぼと水を吐く、彼女の額を掴んだ。


「おっ、イケるぜ」

「よし、掴んどけよ」


朋樹くんは、私に「これ持って」って

小さな四角い木を持たせて

何故か、花が付いた桜の枝を持ったまま

泰河くんと彼女に近付いて行く。


「... へえ。元は生き霊だったんだな。

呪詛 使ったか。川に人形厭魅ひとがたえんみ

失敗してるな。呪殺 出来てない。

てことは、人形回収しないでイケる。助かるぜ。

調伏くらって、返りが起こったか。

よし、泰河。水 吐かせてみろ」


泰河くんは、一度 眉をしかめて 朋樹くんを睨み

彼女の お腹を蹴った。... 何 してるの?


「ダメだ。吐かねぇ」

「後ろから!」


朋樹くんに言われて、泰河くんは彼女の後ろに回り、お腹の辺りに両手を回し、グッと力を入れて

お腹を圧迫する。


「イチャつきに見えんこともない」

「うるせぇ。早く なんとかしろ」


「吐けよ。なんか取り込んでやがる。

混ざったな。泰河、陀羅尼」


「ノウボバギャバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュダヤ・ボウダヤ・バギャバテイ・タニャタ・オン・ビシュダヤ・ビシュダヤ・サマサマサンマンタ・ババシャソハランダギャチギャガナウ・ソハバンバ・ビシュデイ... 」


泰河くんが呪文みたいなことを言う間に

朋樹くんは「使いたくなかったぜ。

せっかく公園から折ってきたのによ」と

手に持った桜の枝に、もう片方の

人差し指と中指を立ててつけた。

ふう と、枝に息を吹く。


枝から無数に、青白く見える花びらが

彼女の口の中に、矢のように追突していく。


朋樹くんが息を吹きやめると

彼女は動きを止め、泰河くんに お腹を圧迫されて

水と花びらを吐いた。


ヒッ と、自分の喉が鳴る。


彼女の口の中から、黒く小さな手が伸びた。


「出てきた。掴め、泰河」

「おい... 」


うんざり という顔で、泰河くんは

彼女の口から突き出た手を、後ろから掴んで

彼女の前に回って来た。


黒い小さな手を、両手に掴み直すと

乱暴なことに 彼女の胸を蹴るように片足で押して

黒い手の主を引っ張り出す。

彼女の口は、嘘みたいに開いた。

頭が後ろに反り切って、見えないくらいに。


黒い手の主は、背や肘の上、脚の膝の上が

鱗で被われていて、眼だけが白かった。

縦に切れたような鼻の穴の下には、耳まで裂けた

細く尖った歯が並ぶ 口が開いている。


「水虎?」

「えっ、すげぇ!」


朋樹くんが、また桜の枝に人差し指と中指を付けて、呪文みたいなことを ぶつぶつ言うと

桜の枝から、別の細い枝が しゅるしゅると伸びて

泰河くんの手の水虎を絡めとっていく。


「そのまま持っとけよ。先に こっちだ」


朋樹くんは、桜の枝を手から離すと

彼女に向き直った。もう、水は吐いてない。


「あんた、もう死んでるだろ?

見苦しいぜ いつまでも。消えて無くなれ。

掛けまくも畏き伊邪那岐の大神

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に

禊ぎ祓へ給ひし時に... 」


内から光に燃やされるように、彼女が消えた。


「次」と、朋樹くんは

コートのポケットから 和紙を出した。


「どうすんだよ?」

「沙耶ちゃんの匂い覚えたし、殺らねぇと。

また狙って来るぜ。たま喰いに」


朋樹くんが、また短い呪文を唱えると

水虎に絡んだ枝がほどける。


「おい、オレは 梶谷 泰河だ。

恨むなら、オレを恨めよ」と、泰河くんが

水虎に言って

片手で水虎の頭を持って ぶら下げると

朋樹くんが 手の和紙を飛ばした。


和紙は、白い鳥の形になって

水虎の開いた口に追突すると

切断した口から下を 床に落とす。


泰河くんが、落ちた口から下の身体の上に

手の頭も落とすと、それは ぐずぐずになって

黒い歪な塊になった。


「埋めて来いよ。水がないとこ。

仕上げは心経な。オレは店を清める」


朋樹くんが言うと

「おう。沙耶ちゃん、何か作っといて」と

泰河くんは、黒い塊を持って お店を出た。


「高天の原に 神留まります

皇が睦 神漏岐、神漏美の命以ちて... 」


神社の人が言うようなことを 朋樹くんが言うと

お店の中が、淡い燐光に包まれた。

彼女が溢した水も、青白い花びらも消えていく。


それが終わると、朋樹くんは 私を振り向いた。


「ツケは払ったぜ。雇うだろ?」


私は泣いて、バッグを抱き締めたまま

頷くしかなかった。




********




「今日は、母の命日なの」


病院に行く時にみた、桜を思い出す。


ボティスさんは、頬杖をついたままの姿勢で

私から 赤い眼を逸らした。


手の中の鍵は、陽真さんの鍵だわ。

沢...  連れて行かれたのね...


「沢の淵に繋がれていた。契約して解放したが

珈琲代として、契約は破棄する」


長い牙の口で、カップの珈琲を飲み干すと

彼は隣から消えた。


『沙耶』


懐かしい声


隣に、陽真さんが座ってる。


『会いたかった』


頷くことも出来ない


会いたかった 私も あなたに ずっと


『いかないと いけないんだ』


胸が ちぎれそう


陽真さん


『沙耶が生きていて 嬉しい』


燐光が 陽真さんを包む


『あいしてるよ』


懐かしい匂い


彼は、私に くちづけると

空気に融けるように 消えた。


また、誰かを あいして


そう 言葉を残して



身体から何かが抜けてしまったように

カウンターを立てなかった。


涙ばかり


どうして なんて

聞かなくたって わかる


私、あいされてたんだわ


ドアベルが鳴った。

今日は もう終わった って言わなきゃ、と

指で涙を拭く。


でも、鍵は...


「姉ちゃん」


座ったまま振り向くと、朔也がいた。


「帰ってきた。

あ、仕事あるから、今日だけ だけど」


朔也は、私の隣に座る。


「マンションにいなかったからさ

店かな って思って」と

カウンターに ボティスさんが置いて行った

桜のお酒を手に取る。


「姉ちゃん、ごめんな。つらかったよな」


首を横に振る。また頬を濡らしながら。


「母ちゃんの 命日だな。推定だけど。

明日さ、墓参りに行こう。兄ちゃんとこも。

その後 戻るけどさ、ちょくちょく帰って来るよ」


私を覗く顔は、また少し大人になってた。

顎ヒゲなんて 生やしちゃって。


「なまいきだわ」って 言うと

また泣けてくる。


「なんだよ」って、朔也が笑う。


「姉ちゃんが酒 って、めずらしいね。

公園に寄って、花見して帰ろうぜ」


空いてる手の方に、私のバッグを持つ。


店の灯りを消して、キッチンから出ると

空には、淡い桜色の月が出てた。







********      「桜月」 了











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